キエスタ編 ケダン
※こちらのキエスタ編には「ひっかけ」が用意されています。中盤でおそらく、皆さんにバレます。
※章が変わり、国や登場人物がガラッと変わりますが、これは群像劇であり、ストーリーは繋がっていることをご理解ください。
≪キエスタ 北西部 ケダン地方≫
ナシェは膝小僧に水をかけて洗った。
転んでとがった石の角にぶつけた膝は十字に切れており、皮膚の下の白い層まで見える。
白く盛り上がった肉の十字の谷の奥から血がにじんでくる。
ナシェは水桶を井戸の定位置に戻すと、立ち上がって歩き出した。
キエスタ民族にしては肌の色が明るい少年だった。
髪はやや縮れた黒い髪をしており、瞳は緑と茶色が混ざったような色合いをしている。
今年で8歳になる彼は、村の子供たちの中で群を抜いて背が高い。
伸びる身長に体重が追い付かず棒切れのような体つきをしていたが、青年になれば村一番の体格の男になることは間違いなかった。
ナシェは坂になった草原を上り続けた。
坂の上から子ヤギが一頭、自信なさげな足取りで下りてきた。
ナシェが子ヤギが下りてきた方向を見上げると、ナシェよりひとつ上の少年が棒を持って下りてくるところだった。
ひざ下丈の白い貫頭衣にサンダル。頭には黄土色と草色と黒に染めた糸で編み込んだ帽子をかぶっている。ナシェとほぼ同じ服装だ。
「おはよう。アキド」
ナシェは手を振った。
「ナシェ、おはよう」
駆け下りてヤギを捕まえたアキドと呼ばれた少年は顔をくしゃ、として笑う。
強く縮れた黒髪、太くはっきりとした眉、濃い茶色の瞳、褐色の肌。
典型的なキエスタケダン地方民族の少年だ。
「今日、オヤジがチーズをつくる。手伝いに来いよ。一緒にできたてを喰おうぜ」
アキドは言いながら、ナシェが右手で自らの服の裾を持ち上げているのに気づく。
視線をさらに下に移動させ、彼の膝から血が流れているのをとらえた。
「怪我したのか」
「うん。カール修道士に手当てしてもらう」
血で服を汚したくないのか、ナシェは服の裾を持ったまま膝を見下ろした。
血はすねを伝い、足首あたりまで垂れつつあった。
「後で来いよな」
子ヤギをせきたてつつ、アキド少年はナシェを振り返って言った。
そのままヤギの群れが待つ丘へ戻る。
ナシェは再び坂を上り始めた。
坂を上りきった後、立ち止って目の前の風景を見やった。
遠くに連なるケダン山脈。
峰は削り取ったように険しい。
永代、山頂には雪がかぶっている。
その昔、神々が住んでいたという霊山。
生まれた時からここにいるナシェにはぴんとこないが、修道士たちはあの美しい山脈を毎日見ることができるだけでもここにいるものは幸せだと言う。
たしかに美しい。
見る時間帯によって、ケダン山脈はまるでちがう顔を見せる。
朝はふもとの薄靄がかかって曖昧な柔かい姿だし、日暮れは赤い光に染められて情熱的だ。
ナシェは昼下がりに見る気だるいケダン山脈が一番好きだけれども。
ナシェはケダン山脈から下へ目を落し、この先にある煉瓦づくりの建物を見やった。
ケダン教会。
グレートルイスからやってきた修道士たちが、50年前に布教のために建てたテス教の教会だ。
今だまったく布教には成功していないが、地元の民族に溶け込むことには成功している。
村のみんなは余分な作物がとれた時は修道士に安く売るし、修道士もたまに市場でお菓子やビンいりのジャムを売る。味がいいのでみんな喜んで買っていく。
年に数回あるテス教の祭日には、村のみんなが食べ物を持ち寄り教会に集まる。
修道士たちは作ったお菓子を彼らにふるまう。
それらをみんなで食べながら、修道士のコーラスと村の声自慢の歌の披露、最後には楽曲に合わせてみんなで踊る。
ナシェの住まいはここ、ケダン教会だった。
教会の入り口で赤子を抱いた女が出てくるのに会った。
「サヒヤおばさん」
「あら、ナシェ」
サヒヤはまだ二十歳にもならない若い娘だったが、抱いた赤子で子供は三人目だった。
「大きくなったね。倍になったみたいだ」
おくるみにつつまれた女の子をナシェはのぞきこんだ。
赤子は目をつぶったまま自分の親指を無心に吸っていた。
「重くなったわ。この子は上の二人に比べるとまったく手がかからないのよ。いい子だわ」
サヒヤは赤子をかたむけてナシェによく見えるようにしてくれた。
「今日は、どうしたの?」
「風邪をひいてしまったのか昨夜から少し咳をしていてね。乳の飲みは悪くないんだけど。カール修道士に甘い薬を飲ませてもらったのよ」
村人が修道士を受けいれた理由はそこだ。
体調を崩した者や怪我をした者は病院がわりに教会へ行く。
教会には医師免許をもっているカール修道士がおり、無償で治療をしてくれる。
病院に行くには車で2時間以上走り、近くの町までいかなくてはならない。
よほど重病でないかぎりはカール修道士の治療と病院の治療は大差なかった。
「かわいそうに。はやく治るといいね」
ナシェは赤子に声をかけるとサヒヤと別れ、教会の中に入って行った。
ドアを開けて部屋に入ると、カール修道士が子どもの口を開けさせて奥を覗きこんでいるところだった。
「あー、赤い。甘い薬をあげよう」
瓶からシロップを出し、スプーンで子供の口に含ませる。
子供が微笑むのに頷き返し、
「また、明日もおいで」
頭を撫でると、カール修道士はドアの前に立つナシェに顔を向けた。
「次はナシェの番か」
彼の左目は白く濁り、残った右目がナシェをとらえた。
カール修道士は顎のラインで切りそろえた白髪は乾燥し、背は曲がり、指は節くれだった老人だ。
枯れ草色のすっぽりした僧衣を着ている彼は、今にも朽ち果てそうな印象を与える。
しかし声だけは張りがあり若々しかった。
ナシェは子供の手をつないでこっちにやってくる母親と交代で、カール修道士の前に立つ。
「転んでしまいました。もう井戸の水で洗ったよ」
言って、膝を見せる。
「おお、これは痛そうだ」
大袈裟に眉をひそめ、カール修道士は背を向けると戸棚に向かった。
ごそごそと引き出しを引っかき回すとガーゼ、消毒薬を手に戻ってくる。
「しみるが我慢しなさい」
おとなしく、ナシェはカール修道士の手当てを受けた。
「カール様。昼からアキドの家へ行ってもいいでしょうか? チーズ作りを手伝いに」
カール修道士は包帯を巻きながら答えた。
「いいでしょう。ドミニクに了承を得てから行ってきなさい」
「ドミニク様はまだ帰っておられません」
「……はて? そうでしたかな」
乾いた声でカールは笑う。
「朝食時に彼を見たような気がしたのは気のせいでしたか」
「そうです。だから、薬の補充はまだでしょう? 僕もお土産をもらってはいません」
「では、まだなのは確実ですね。ナシェの口から甘いお菓子の匂いはしませんから」
カールは口に笑みを浮かべ、鼻を動かした。
ナシェはその様子に声を出して笑った。
「アキドの家へ行くまでに、ドミニク様が帰って来て欲しいです。アキドと一緒にお菓子を食べたいから」
「……そう言ってる間に、彼が帰ってきたようですよ」
カール修道士は窓の方向を見る。
ナシェもつられて、その方向に振り向いた。
教会の表に車が止まるところだった。
古い型のボディは年代物だ。
土ぼこりで覆われた深緑色の車のドアが開く。
「はて」
カール修道士がつぶやいた。
「……三人とは。あと一人はどちら様ですかな」
ナシェもドミニク修道士、パウル修道士に続いて車から降りた、見慣れぬ背の高い男の姿に目を大きくした。




