帰港せよ!*5
靄が消えた。
これは大きな一歩だが……同時に、大きな後退でもある!
向こうの世界とのつながりでもあった黒い靄が、消えてしまった!これは、向こうの世界に行ったとかそういう訳でもなく、ただ本当に消えてしまったっぽいのである!
消えるにしてももうちょっと手掛かりとか無いの!?と澪は内心で思う訳だが、まあ、今はそれは置いておくことにする。
「……なんか、すっきりした」
美羽は、いつの間にか潤んでしまった目をこすりながら、そう言った。
「そりゃよかったよ。我が部の1stトランペットが不調じゃ、カッコ付かないじゃん?」
澪が笑えば、美羽もまた、ちょっとだけ笑顔を返してくれた。
……まあ、『靄が無くなった』ような顔、である。つまり、これでよかったのだろう。
「……ねえ、ミオ」
それから、美羽はふと、澪を呼び止めた。
「私、さ。ミオに退部の相談された時、そんなこと言わないで、もうちょっと一緒に頑張ろうよ、って、言ったじゃん」
「うん」
澪は内心で『あー……』と思いつつ、美羽の言葉の続きを待つ。……そして。
「あれ……重かった?」
おずおず、と。気まずげに、でもそれを振り切るように尋ねてきた美羽を見て、澪は少しだけ、逡巡した。
だが、結局は、正直に答えることにする。美羽だって、正直な言葉を聞きたくて尋ねてきたのだろうから。
「……うん、まあ、重かった、というか、それどころじゃなかった、っていうか……うん。まあ、私には、ちょっと辛かったかも。頑張ってどうにかなるもんじゃなかったし、何より、頑張る元気が、もう無かったからさ」
「……そっか」
美羽は案の定、しょんぼりしてしまった。澪は少し後悔しないでもなかったが、でも、これも必要なことだったんだ、と思う。
「ごめん。私、私の為に、ミオに残ってほしかったの。ミオの気持ち、全然考えてなかった。ミオが辛いのとか、全部無視して、私のことばっか言ってた」
美羽の言葉を聞きながら、澪はふと、『美羽とナビス、何が違ったのかなあ』と思う。
ナビスに引き留められた時、澪はナビスと同じ心であった。けれど、美羽の時は違った。そうして退部するに至ったわけで……。
……難しいなあ、と、澪は苦笑するしかない。ナビスはよくて美羽は駄目だった澪は、薄情なのかもしれない。でも、しょうがない。タイミングも、築き上げてきた関係も、その時々の状況だって、全部全部違う、人と人とのことなのだから。
それでも、どっちも大事。それは変わらないし、変えたくない。……今は、それでいいかな、と澪は思う。もっと深く考えるのは、もっといろいろ片付いてからにしたい。
やっぱり、人間関係の修復や調整は、向いていても何でも、疲れるものだから。
「ねえ、ミオ。やっぱり私、ミオの2ndがいい」
それから美羽がそう言うものだから、澪は少しばかり、驚く。
「ミオと一緒に、トランペットやりたい。ミオだって、音楽やりたく、ない?」
……驚くと同時に、多分、嬉しかった。美羽は澪よりも我儘な性質というか、我が道をグイグイ行くタイプというか……まあ、1st向きの性格をしている。だから、美羽が澪の今の気持ちを敢えて無視してでもこれを言ったということは、それだけ美羽の中にパワーが戻ってきたということなのだと思うから。
「だから……体調、完璧によくなったら、さ、もう一回、戻ってこない?」
どうかな、と、美羽が澪の顔を覗き込む。それに澪は笑いかけてから、少し考えて……。
「どうしよっかなー。ま、考えとくよ」
澪は、そう、結論を出した。
「この夏いっぱいは戻らないけど。でも……コンクールとか終わって、元気出てたらさ。その時は……また、考えてみる」
1年間、休んだ。だから、吹奏楽部に使える元気も多少、戻ってきている。
ピリピリギスギス絶好調であろうコンクール期間に戻る元気は流石に無いが、その後なら、もしかしたら。
「……うん。待ってる」
澪は、『色んな人に待たれてるなあ』と苦笑しつつ、ひとまず、物事が1つ解決したことを喜ぶことにした。
……ということで。
「美羽の元気が出たけど、扉が見つからない……」
帰ってきた澪は、すぐさまシャワーを浴びて、部屋着に着替えて、そしてそのまま、床にうつ伏せに倒れてぐったりしていた。
「ねーちゃん何の成果も得られなかったのかよー」
「うん……いや、成果は得られた。美羽が元気になった。あと顧問がちょっと喜んでたし、ついでにクラとフルートの軋轢の解消と、ホルン内でのすれ違いの解消と、それから、鬱ってたコントラバスの励ましを……」
「訂正するわ。ねーちゃん成果出しすぎじゃね?」
……澪は、久しぶりに(澪としては実に1年以上ぶりに!)行った吹奏楽部で、また数件、部員の問題を解決してきた。まあ、完全に解決したかはさておき、彼らの話を聞き、前向きな気分にさせることには成功している。
「私、カウンセラーとか向いてるんかな」
「じゃねー?しらんけど」
ソファに寝っ転がりながら弟がそう言うのを横目に、澪もごろんごろんごろん、と寝返りを打って、仰向けになる。
夏の昼下がりの日差しがレースカーテン越しにぼんやり入ってきて十分明るいので、天井の電灯は点けていない。おかげで仰向けになっても眩しくなくて丁度いい。
「ねー、どうしたらいいかなー」
「俺に聞いたってわかる訳ないだろー」
「そりゃそうなんだけどー」
姉弟揃って間延びした調子でやりとりして、それから、ふわー、と澪はため息を吐いた。
……なんだかんだ、疲れた。美羽の方もそうだったし、他の部員達の調整も、疲れた。いや、本当に疲れた。どうして退部したはずなのに澪が調整役をやっているのだろうか!よくよく考えるといよいよ意味が分からなくなりそうだ!
だが、恐らく、これが澪の役割、なのだろう。
何故、澪がナビスの世界に呼ばれたのか。
それについて、考えてみると、どうも……澪は、『ご褒美だったのかなあ』と思うのだ。
こちらの世界での澪の役割は、極めて地味で凡庸で、目立たない。人間関係の調整だとか。誰かを励ますことだとか。はたまた、誰かを引っ張っていくことだとか。必要であったとしても、目立たず、時には馬鹿にされることすらあるような役割である。
澪自身が活躍するというよりは、誰かを活躍させること。誰かが沈み切らないようにすること。皆を支えること。それが、澪の役割であって……まあつまり、トランペットの1stではなく、2nd。それが、澪の役割なのだ。
だが、向こうの世界では、澪が前面に出ることも多かった。
ナビスを引っ張っていくのと同時に、澪も一緒に走って行けた。ナビスを連れていくというよりは、ナビスと一緒に、楽しませてもらったのだ。
……今まで澪が吹奏楽部内でやってきた一方的な献身や縁の下の力持ちとも違う、そんな役割を貰った。
楽しかった。
だから、澪は向こうの世界に戻って、またナビスと楽しくやりたいな、と思う。
……だが、同時に、どうも澪は、こっちの世界で黒い靄対策をすべきなんだろうなあ、という気もしている。
澪は、ナビス達の居る、あの世界が大好きだ。大好きになってしまった。
だから、あの世界のためにも、黒い靄対策をしたい。それが自分にできることなのだし、自分の役割なんだろうな、とも、思うようになった。
そう思うようになってから振り返って見ると……『こっちで休んで、もうちょっと向こうで頑張ってよ』とナビスの世界に言われて、そうやってナビスの世界に呼ばれたような気もする。
実際、澪が吹奏楽部内でゴタゴタを解決していくと、黒い靄が消えていくようなので。……逆に言ってしまうと、澪が居ないと、あの吹奏楽部のせいでナビスの世界に魔物が出そうなので!
……まあ、つまり、澪は2つの世界に期待される縁の下の力持ち、なのであろう。そしてナビスが呼んでくれて、向こうの世界も『おいで』と言ってくれて……そうして澪は、自分が頑張ることで自分に光が当たる場所を、分けてもらった。こっちの世界で頑張って、こっちの世界と向こうの世界の平和に貢献してきた『ご褒美』として。
そう。ご褒美なんじゃないかな、と思う。こっちの世界で頑張って、疲れて頑張るのをやめてしまった澪に対して、異世界が『もうちょっと頑張って!』と言うためにくれたご褒美。
もうちょっとズルい言い方をするならば、『澪にこの世界を好きになってもらえば、澪の世界での調整役を頑張ってくれるんじゃないかな!』と異世界が考えた、なんていう風にも言えてしまうかもしれない。
むしろ異世界って、そのためにあるのかも。澪は、そんな風にも思う。
世界の存続のためでもあって、同時に、この世界が少し優しくなるように。そのために、異世界はこの世界から、誰かに助けを求めるのかもしれない。それで、助けて、助けられて……いろんな世界が、ゆるゆると回っていくのだ。
勿論、こんな言い方をしてしまうと、世界に意思があるような話になってしまって、なんだか話がややこしくなりそうだ。……でも、もし本当に、『異世界』そのものに意思のようなものがあって、それが、ナビスの祈りに便乗して澪を引っ張り込んだのだとしたら……。
「……神様、だったりして」
人はそれを、神、と。そう呼ぶのかもしれない。
さて。
「ねーちゃん暇なら米研いでよぉー」
澪が『世界とは何か……神とは何か……』と深遠なことを考え始めたところで、その姿は弟からは暇な様子に見えたらしい。なんということだ。この弟には澪の深い考えが分からないというのだろうか。まあそうだろうなー、と澪はアッサリ思う。弟は、そういう奴。ついでに、他人の考えなんて、見えない見えない。
「あんたが頼まれたんでしょ。あんたやりなさいよ」
「でもねーちゃん暇そうじゃん」
「あんただって暇でしょ」
「俺はごろごろすんのに忙しい。ごろごろ。ごろごろ」
ごろごろ、とやる弟が可愛いような、単に憎たらしいような、微妙な気持ちになりつつ、澪は『はーどっこいしょ』と起き上がる。
「え、マジでねーちゃん米研いでくれんの?」
「いや、ペット吹く」
「えええー」
そう。澪は、折角だからトランペットでも吹いてみるかぁ、と思った。こう、ごろごろしているよりは気分転換になっていいかな、と思ったのだ。少なくとも、神だの世界だの考えていても埒が明かない。なら気分転換して、カラッとした気分でもうちょっと解決策を考えてみたい。
それに……学校では自分のトランペットではない楽器を演奏していたので、その分、ちょっと思い通りにならない部分もあった。その分を取り返しておきたいなあ、というような気分なのである。まあ、つまり、休憩!
「あ!じゃあ俺、アレ聞きたい!昨夜言ってたやつ!」
「どれよ」
「なんか走りそうなかんじの題名のやつ!」
「走り……走りそうな!?ん!?あ、チャルダッシュか!?」
弟の記憶力の無さに若干の不安を覚えつつ、澪は『まあいいかあ』と、トランペットの準備を始めることにした。まあ、弟の頼みなのだ。聞いてやらんことも無い。その代わり、米は奴に研がせる。姉としてそれは譲れない。
ということで、澪は自室に置いておいたトランペットのケースを持ってリビングへ戻ってくる。この時間帯で、かつ長時間吹かなければ、ご近所への迷惑にはならないだろう。多分。
ぷるぷる、と唇を震わせて準備運動しつつ、澪は早速、トランペットのケースを開けて……。
「あれぇ!?」
「どしたのねーちゃん」
「いや……なんか」
澪は、トランペットのケースを覗き込んで、愕然としていた。
「……材質がぁ!」
ケースの中で燦然と光り輝く、澪のトランペット。それは確かに、トランペットなのだが……。
……何故か、聖銀製に、なっていた!




