帰港せよ!*4
自分の楽器、持ってくればよかったかなあ、と澪は思う。思うが、まあ、それはしょうがない。
辞めた吹奏楽部に楽器を持ってくるなんて、そんな勇気は流石に無かった。だからそれはしょうがない。……だが、辞めた吹奏楽部に、1年分のライブでの訓練の成果を引っ提げてやってきてしまったのも、しょうがないのだ。
見てろよ、と澪は思う。
かつて、1stの座を明け渡して2ndに落ち着いた澪の、最初で最後の逆襲だ。
憎いと思ったことは、あんまり無い。だが、全く無かったとも、言い切れない。
仲間はライバルで、まあつまり、時には敵だ。そんな相手と協力して音楽を作れというのだから、中々に無茶なことをやってるよなあ、と澪は思う。
……思いながら、楽器庫の前に顧問が居る準備室のドアをノックする。一応、澪はもう部外者で、そんな澪が楽器庫に入るには許可が居るだろう、と思ったので。
「失礼しまーす。2年6組の帆波です」
入室してすぐ、澪は、ぎょっとした表情の顧問の先生を見つけた。
「……どうしたんだ、帆波」
この顧問も、まあ、1年弱の付き合いである。吹奏楽部における顧問とは絶対的な存在で、まあ、それ故に怖い人でもあるのだが、それはそれとして、澪はこの人のことがそんなに嫌いではない。
「いや、えーと……すみません、ちょっと、楽器庫入って、良いですか?それで、1年用のペット、借りたいんです。本当に、20分くらいでいいんで」
ただ、今は気まずい。
……退部した直後にコレなのだから、気まずい。だが多分、顧問も気まずいんだと思われる。なんかぎこちない。
「……吹きに来たのか」
「いや、その予定は、無かったんですけど……その、本当は、美羽に会いに来ただけで……えーと」
ぎこちなさではいい勝負の澪は、『さーてどっから説明するかな』と考え始める。よくよく考えるとあの流れは色々おかしかった。でもしょうがない。出たとこ勝負で、ついでに度胸とハッタリだけで美羽と渡り合おうとしているのだから、まあしょうがない。
よって、何かうまいこと説明を……と、澪は考え始めて、その直後。
「いいぞ。持ってけ」
顧問があっさりとそう言ったので、澪は大層びっくりした!
「えっいいんですか!?私、もう部外者ですよね?」
「それでも学校の生徒だ」
顧問の話を聞いて、『まあそうかぁ』と思う一方、『いやいやいや!でも部員以外の生徒を倉庫に入れるなって散々言ってたじゃん!』とも思い、澪は大いに混乱する。
「それに……鷹木を励ましに来たんだろう?」
「え」
……だが、顧問にそう言われて、ついでに不器用に微笑まれたら、出てきそうだった言葉が全てキャンセルされて引っ込んでいってしまった。
「目に見えて精神状態が良くないからな。音にも影響が出ている。あれじゃあ使い物にならない。1stは別の部員に任せた方がいいんじゃないか、とも思っていた」
どうやら、この顧問も部内の人間関係には気づいていたらしい。部員だった頃は『あいつ無神経なんだよなあ!』『色々気づいてないんだよなあ!』『今日もこっちの気分逆撫でするようないらんことわざわざ言ってさあ!』と散々な評であった顧問だが、一応、気づくことはあるらしい。……解決するのはドヘタクソなのだろうが。
「……まあ、だから、励ましてやってくれ。お前が抜けた穴は、相当にでかいんだ」
顧問はさておき、今は美羽だ。『ミウとミオ』が2年トランペットの要だったのだ。ずっと一緒には居られない性質同士だったと、澪はそう思っているが……それでも、まだ、澪にできることは大きいはずだ。
「……はい」
澪は、やる気を取り戻した。
或いは、希望を。……ついでに、自分がかつて諦めて捨ててしまった、何かを。
「絶対に!励ましてやりますよぉ!」
「お前は本当につくづく元気だなあ……ついこの間、肺に穴が開いたとは思えん」
「はい!私もそれ、もう1年ぐらい前のことのような気がしてますんで!」
へへへ、と澪が笑えば、顧問の先生は唇の片側だけ上げてにやっと笑う。『大した奴だ』と呟きが聞こえる頃には、澪はもう退室していて、そしてその向かいにある楽器庫に突入していく。
「あったあった。これこれ」
そうして澪は楽器庫の隅、古いトランペットのケースを見つけてにんまりした。
入部当初、ほんの短い間だけ、澪が使っていたことのあるトランペットだ。一番古いものなので、まあ、正直なところ状態の良い楽器とは言えない。
だが、まあ、トランペットはトランペットである。澪は『鉱山の外にずっと放置されてたラッパだって吹けたんだし余裕っしょ!』という気持ちで、確認のため、トランペットのケースを開けて……まあ、古びたそれを確認して、『よし』ともう一度蓋を戻す。
澪はいよいよ元気になって、ぷるぷると唇を震わせて口の準備運動をしながら教室へ戻るのだった。
そうして教室の扉の前まで到達したところで、教室の中から話し声が聞こえてきたので思わず、聞き耳を立ててしまう。
「……ミオ先輩、辞めたくて辞めたわけじゃないじゃないですか」
「何言ってんの。ミオは辞めたくて辞めたんでしょ」
1年の後輩の、取り成すような言葉にも美羽は険のある言葉を返していた。
「この部が、嫌になって辞めたんだよ。肺の穴が治ってたって、ミオは戻ってくる気なんて無かったんだよ、あれは」
毒を吐き出すような美羽の話を盗み聞いていた澪は……よし、と意気込むと、ぐっ、と手に力を籠め……。
「その通りだよーッ!」
ばーん、と引き戸を開けた。
……そして、引き戸がバウンドして、半分ちょっとまで戻ってきた。なので、からから、ともう一度改めてドアを開けて、澪は教室の中に入る。ちょっと格好がつかないけれど、まあ、これはこれでいいのかもしれない。
「人間関係は!誰か1人によって維持できるものにあらず!私が1人抜けるだけで崩れるような部内の関係なら、そんなもん崩れちまえーッ!」
何せ、澪はこの部で初めて……そして、異世界でも含めれば、人生で2度目の、『思っていることをぶちまけるぞ!』というタイミングに入っているのだから。
先輩も後輩も、そして美羽も、驚いている。
澪がこんな声、こんな言葉を発するなんて思っていなかったんだろうなあ、と思う。澪はこの部でずっと、へらへらして、謝って、励まして、取り成して、笑って……そんな風に過ごしていたので。
「私はね!音楽やりたかったのであって、人間関係の調整がしたくてこの部に居たわけじゃない!だってのに、私の仕事、ほとんど人間関係の調整だったじゃん!あっちで愚痴聞いてこっちでとりなして、ずーっとそんなんだったじゃん!どいつもこいつも自力で解決する気も無いしさあ!嫌にもなるわ!挙句の果てに、『大して上手くも無いのにまとめ役気取っててうざい』だのさあ!『八方美人で調子いいよね』だのさあ!なら楽器上手い奴がやれよって話でしょ!八方美人やらずに部内の調整できるか!やってみろってんだ!」
一息に言い切ってしまってから、澪は、言葉とともに吐き出した分の息を吸い込んだ。
その間、皆、ぽかんとしていたし、怯えている子もいた。澪は『ごめんよ後輩』と心の中で謝りつつ、じと、と美羽を見てやる。
「……びっくりしたでしょ。私がこういうこと言うって、知らなかったでしょ。いや、実は私も知らなかったんだけどさ」
美羽はこういう時、すぐに言葉が出てくる性質ではない。だからこそ、人間関係の調整が上手いのは澪の方だし、美羽は調整『される』側だったのだ。
「でも、ちょっと色々あって、学んだんだよね。思ってることは言っといた方がいい、って。ましてや、大事な相手なら、尚更」
澪が異世界で学んで帰ってきたことの1つは、これだ。思っていることは、言っておいた方がいい。さもないと、致命的なすれ違いになりかねない。……本当に、ナビスとの仲が、危ういところだった。否、仲どころか、ナビスの命とか、世界の平和とか、そういうレベルで危ういところだったのだ!
だから澪は、ずっとずっと思っていたことを、ようやく言った。調整役、初めての主張である。
……だが。
「……ごめん。あんま、こういうの聞きたくなかったかな」
ちょっとばかり、へにょ、とする。『言い過ぎたかな』というように。
澪が言いたいことだって、相手は聞きたくないかもしれない。単なる誹謗中傷だのお門違いな評論だの、そういうことを言うなら言われてようやくフェアだとは思うが、澪の場合、美羽に直接言ってやりたいことだったわけでもなく、ただ、漠然と『皆』に向けて言いたい澪の気持ちを言っているだけなのだ。
なので……澪は少しばかり、申し訳なくなってきた。
だが。
「……ミオが言いたいんだったら、言えばいいと思うよ」
美羽はそう言って、ふい、と目を逸らした。
澪は、『あっ!この顔は、なんか言いたいことあるんだけどまだまとまってない時の顔!』と即座に察して、同時に、『本当に、嫌ではないんだなあ』とほっとする。
別に、喧嘩しに来たわけじゃない。美羽には、元気でいてほしい。
一緒にここで活動するのに疲れてしまったというだけで……澪は本気で、美羽のトランペットの音が好きだったから。
「まあ……向き不向きで言ったらさ、絶対、私は『向き』の方だったから。だから、自分の役割に文句は無い。人間関係の調整とか、皆が気持ちよく音楽やれるように裏方やるってのが、私のこの部の中での役割だって自覚してたし、むしろそれを誇るくらいの気で居たよ」
だから、澪が代わりに喋る。こうしていれば、その内美羽は美羽で、言葉をまとめきれるだろう。いつも、そうだったから。
「でもさあ……誇るくらいの気持ちでいたからこそ、私は私の役割を貶されたら、怒るよ」
「……うん。それは、分かる」
美羽はずっと1stトランぺッターで、それ故に、誰かに『あんな役割なんて』と蔑まれたことは無い。だが同時に、『後から来たくせに生意気』だの、『2年のくせに偉そう』だの、そういうことを言われたことはあるはずなので、澪も、『美羽には分からないよ』とは思わない。
お互い分からないし、同時に、全く分からない訳じゃない。少なくとも、傷つくということがどういうことかは、知っている。
「で、疲れちゃったからもう辞めました!終わり!……でもね」
でも。
傷ついたって、疲れたって、それでも残っているものがあることも、きっと、お互いに知っている。
「……でも、音楽はまだ好きだよ」
『それこそ、異世界でもラッパ吹いちゃうくらいにね』と、澪はにんまり笑って、トランペットを構えた。
選曲は、ちょっとだけ悩んだ。
チャルダッシュはちょっと生意気かなあ、という気がした。あと、失敗した時に恰好が付かない。
韃靼人の踊りも好きだが、あれはトランペット一本でやるにはちょっと寂しい。1対1ならともかく、美羽の外にもオーディエンスが居る中で吹くなら、もうちょっと違う奴がいい。
……ということで。
澪は、ショパンのノクターンを吹いた。
向こうの世界で唯一、澪が悲しさを表現した時の曲だ。月と太陽の祭典の時、澪1人で演奏した曲。
優しい旋律。軽やかに上る音の運び。それらを滑らかなポルタメントで繋いでいく。トリルは滑らかに繋がるように。高音は鋭さより、優しさを大切に。
……聞く者が聞けば、澪の技術の上達が分かるはずだ。つまり、美羽には伝わるはず。
そして澪の心の一欠片でも、伝わればいい。悲しみも苦しみも、時間を置いて尚古傷のように残る痛みも。それら全部なんて言わないから、一欠片でも。
そういう思いで澪は吹いて、吹いて……。
……その時だった。
緊張していたからかもしれない。ひゅ、と吸い込んだ息が、ちょっと間違ったところに入ってしまった。うっかり唾液を巻き込んで気管へと入り込んだそれは、澪を盛大に噎せさせる。
演奏はぶつりと途切れ、げほげほ、と激しく咳き込む音が代わりに響くようになる。うわあ格好つかないな、と澪が内心で頭を抱えていると。
「救急車!救急車呼んで!誰か!」
さっ、と青ざめた美羽が、そう、叫んでいた。
……いやいやいや!と澪は慌てる。救急車は流石にちょっと!噎せただけで救急車は、ちょっと遠慮したい!
「あ、いや、へーき、へーきだから……ちょ、待って」
「ミオ!ミオが、ミオが……!ねえ、ミオ!肺、まだ治ってないんじゃないの!?なのに、無理して吹いたんじゃないの!?」
「待って。いや、聞いて。ねえ、美羽」
美羽はパニックに陥っていたし、後輩は『きゅうきゅうしゃ!』とスマホを出していたし、先輩は教室の外に出そうになっていた。多分、先生か誰か呼びに行くつもりだったのだろう。
だが、それら全員を押し留めて、澪はごほごほやりつつ、立ち上がる。
「……噎せた、だけ。肺じゃ、なくて……」
だいじょぶだいじょぶ、とジェスチャーしつつなんとか全員を落ち着かせて、澪は美羽を見る。
美羽はすっかりパニック状態であったが、一応、他の皆が落ち着いてくれたおかげで少しは落ち着いたらしい。上ずった呼吸が若干心配だが、まあ、澪はそんな美羽に問う。
「で、えーと……どうだった?」
「……え?」
「演奏。美羽の感想、聞きたい」
美羽は、ぽかんとしていた。だが、その内ぽかんとしながら、口を開く。
「……めっちゃ上手くなってて、びびった」
ぽかん、のまま出てきた言葉は、それだけに美羽の本心なのだろう。それが分かるので、澪は只々、じわじわと、嬉しい。
「今のミオ、今の私より、上手いよ……」
「……そっか」
じわぁ、と嬉しくなるにつれて、澪の顔はにまーっ、と緩んでいく。
これでいい。これで十分。調整役お疲れ様、の分は、これで元が取れたと思う。
「えへへ……褒められて嬉しいけど、それ以上に、美羽が話してくれて嬉しい」
澪がそう言えば、美羽は、はっとしたような顔をして、それから、しょんぼりと頷いた。……自分の態度が悪かった自覚はあるらしい。
「……で、美羽は?演奏、してくれないの?」
そんな美羽の顔を覗き込んで、澪は笑う。へらっ、と。これが澪の持ち味で、役割なので。
「言ったじゃん。私、美羽の音、聞きに来たんだよ」
それから少しして、2年6組には華やかなトランペットの音が響き渡るようになった。
金のトランペットから溢れる音は、やっぱり華やかで、これぞ1stトランペット、といったかんじである。
……そして。
あ、と澪は気づく。
見れば、少し楽しそうに演奏するようになった美羽の後ろで、すう、と、黒い靄が消えていた。




