帰港せよ!*3
翌日。澪は、『そういや制服!制服が無いんだけど!』と頭を抱える羽目になった。
……現役高校生にとって、制服を着ずに学校へ行く、というのは、夏休みであっても、相当にハードルが高いのである。
そう。学校だ。澪は学校に行かなくてはならない。
あの時、ダンジョンの岩の割れ目から聞こえてきたあの音は……確かに、1stトランペットの音だった、と思う。
まあ、トランペットの音など、誰の音か、聞き分けを完璧にできる自信はない。単に澪が感傷的になりすぎていただけだったのかもしれない。だが……一番隣でよく聞いていた音だ。なんとなく、『ああ、あの子の演奏だよな』と思ってしまったのだ。
だからそれを、確かめに行く。
確かめに、行かなければならないのだが……。
「……制服が無いよう」
「あー、あんたそれ、異世界に置いてきちゃったんだっけ」
「うん」
ローファーと制服は、異世界に置いてきた。多分、ポルタナの教会の客間に置きっぱである。
「夏休み中に異世界に戻らないと、あんた、新学期から困るわよねえ」
「う、うん……!」
母親から、随分と随分な心配をされてしまった。まさか、『制服が無いと新学期から困るから異世界へ戻らないとね』なんていうことを言われるとは思わなかった!もっと心配するところあるでしょ!?とか、『そんなナチュラルに異世界に戻る話されてもぉ!』とか色々思うところはあるのだが、まあ、それはそれとして……。
「とりあえずワイシャツはあるんだし、下は冬服で行ってくれば?スカートだけならバレないと思うけれど」
「いや、それでもいいんだけどさあ、リボンが無いよー」
澪の学校の制服はブレザーであるので、スカートだけなら冬服のものを着ていても、まあ、バレない、と思われる。夏服のスカートと冬服のスカートは、布地の厚みしかほぼ差が無いのだ。
だが、襟にはリボンの着用が必須である。そしてそのリボンは、別に夏用冬用があるわけではないので、当然、ポルタナの教会に置きっぱなのである!
「えー、リボン?……じゃあこれを貸してあげようじゃないの」
……が、澪の母はニヤリと笑うと、そう言って、制服のリボンを出してきた!
「え、どしたのこれ」
ちょっと澪は慄く。いきなり自分の制服のリボンが出てきたら、慄く。驚くというか、ビビる。なんだこれは。
「あんたのリボンに似てる柄の布、前見かけたから貰ってきておいたのよ。それで作っておいたやつ!こんなこともあろうかと!」
「やるぅ!うちのお母さん、高性能!」
「そうよ!私は高性能!」
どうやら、職場の関係で貰っていたものがあったらしい。よくよく見ると確かに澪の制服のリボンとは違うのだが、これだったらパッと見は分からないだろう。それに、もしバレたとしても、『あっ!母が仕事で服飾関係やってまして!それとごっちゃになって間違ってこれで来ちゃいました!』で誤魔化せる。
特に、今は夏休みだ。夏休み1日目だ。そんな風に気の抜けた高校生が居たところで、学校の人達もそれ以外も、そうそう責めたりはしないだろう。
「じゃ、行ってきまーす」
「行ってらっしゃーい」
そうして澪は、学校へ行く。
鞄や靴の指定がある学校ではないので、それは本当に助かった。よって澪の肩には、教科書が多い日に使うことのあるトートバッグがかかっており、足元はスニーカーだ。
そんな恰好で歩きながら、澪は……『そういや、部活辞めたんだよなあ。どうやって入ろうかなあ』と、若干気まずく気の重い内容について、考える羽目になるのだった。
……そう。
澪は、色々と嫌になって部活を辞めたのだ。
つまり……部活は、なんかこう、今、色々と嫌なかんじなのである。
特に……。
「……私が居なくなってるからなあ」
今、振り返ると分かる。あの部の人間関係は、相当、澪によって調整されていた。
だからこそ澪はそれに耐えかねて色々あって肺気胸で退部、ということになったわけだが……澪が抜けてしまった今、吹奏楽部の人間関係は一体、どうなっているだろうか。
入院期間、澪が部内に居なかった時だけでも、なんかギスギス感が悪化しているように感じられた。その後練習には一度も参加せずそのまま退部しているので、詳しいところはあんまり分からないのだが……。
「気まずいことに、変わりはない!」
気まずい。
とりあえず、滅茶苦茶に気まずい!
澪は『神よ!ナビスよ!あとついでにマルちゃんよ!』と天を仰いだ。……いや、なんとなく、こういう時になんとかしてくれそうなのはマルちゃんのような気がしたので。当のマルちゃんならきっと、『その程度自分でなんとかなさいなっ!』とか言いつつ、渋々何かしてくれそうなので……。
がたんごとん、と電車に揺られて20分弱。
澪は学校の最寄り駅に到着した。『学校に行く』という行為自体、澪にとっては実に1年ぶりなので、非常に違和感が大きい。『おおー、駅だ……』『おおー、電車だ……』というような、山から下りてきたばかりの世捨て人さながらの反応をしてしまいつつ、アスファルトを踏み……。
「……まずはこっち先に見ていこうかな!」
澪は、学校に行く前に、先に踏み切りの方を見ていくことにしたのだった!
まあ、つまり、先に気が楽な方を確認したいのである。ダンジョン最奥からは、踏切の音が聞こえてきたこともあったので、確認するのは悪いことではないはずだ。
学校への道の一本線路寄りのところに、丁度、踏切がある。よって、登下校の際にはよく、踏切の音が聞こえてくるのだ。
そんな踏切に異常は無いかを確かめるべく、澪は学校へ行く方とは逆に十字路を曲がって、普段は通りの向こうにちらりと見るばかりであった踏切を、初めて間近に見ることになった。
「……まあ、踏切だよなあ」
とはいえ、踏切は踏切である。ただの踏切である。紛うことなく踏切であり、特筆すべきことも無い踏切である。
異常があるようには見えないし、黒い靄が見つかる訳でもない。ましてや、ダンジョンへ繋がる割れ目があるようにも見えない。
まあ、駄目で元々、ぐらいの気持ちで確かめに来たので、落胆は然程、無い。多少、不安は増したがそれだけだ。
何せ、まだ大本命があるので。
「……やっぱ行くっきゃないよねえ」
澪は、『気まずー……』と口の中で呟きつつ、元来た道を引き返し、学校へ向かう方へとスニーカーの足を踏み出したのだった。
1年ぶりの学校は、まあ、記憶通りの場所であった。それはそうである。澪にとっては1年ぶりだが、実際のところは1日ぶりなだけだ。
夏休み中ということもあって昇降口には鍵が掛かっているように思われたが、しっかりばばーんと扉が全開であった。……まあ、朝が早い吹奏楽部は職員玄関から入ることが多いのだが、今は既に他の部活も始まっているような時刻だ。多くの生徒が使うのだから、ということで、誰かが開けてくれるのだろう。
澪は、『お邪魔しまーす……』という気持ちで自分の下駄箱へ向かう。スニーカーを脱いで上履きに履き替えて……その間にも、廊下の向こう、階段の上からは、吹奏楽部の練習の音が聞こえてきている。
今はパート練習の時間だ。それぞれの楽器ごとに分かれて、そこでパート内練習をしたり、個人練習をしたりするのだ。
なんとなく嫌な思い出が蘇ってきそうな澪はそれを振り切って、廊下の奥へと進んでいく。
階段を上っていくにつれ、色々な音がより強く大きく聞こえるようになってくる。
音楽室は、4階だ。だが、パート練習はそれぞれ、別の教室に分かれて行う。そしてトランペットパートの練習場所は、3階の2年6組。……澪は2年2組なので、今6組を訪れるとしたら、本当に、トランペットパートを訪ねて行く以外の用事はないことになる。誤魔化しは効かない。
だが、ここで躊躇う訳にもいかない。澪は息を吸って、吐いて……そして、がら、とドアを開けた。
一斉に視線が澪に向く。
トランペットパート、総勢7名。その視線が一気に澪に刺さる。
……そして、その中でも一番に鋭い視線は、間違いなく……金のトランペットの持ち主。この部の1stトランぺッターの鷹木美羽である。
しん、と静まり返ったクラスを見て、澪はいよいよ『うわあ気まずい』とこれ以上ないほどの居た堪れなさを覚える。
「……なんで来たの?」
逃げたくせに、と。余所者が何の用だ、と。そう、言外に言われている。
良くも悪くも、吹奏楽部はこういうところだ。退部したら、裏切者である。澪はそれをよく知っているし、だからこそ、ここが嫌になった。
特に、美羽は澪とずっと隣同士でやってきた仲でもあるので、澪が退部したことについて複雑な思いがあるだろう。八つ当たりだと、本人も分かってはいるはずだが、まあ、美羽は澪に怒りをぶつけることで諸々の気持ちに整理を付けようとしているように思う。1年程度の付き合いだ。だがそのくらいは分かる。
美羽が、『そんなこと言わないで、もうちょっと一緒に頑張ろうよ』と澪を引き留めたあの日、澪はその手を振り払って退部した。それに対しての後ろめたさも、ある。
……だが。
「あなたの音を聞きに来た。マジでそれだけ」
ここで退くわけにはいかないのだ。
澪が見つけた、新しい世界。自分を必要としてくれる場所。そこに居たいと、心から願えた場所のため。……ナビスのためにも、澪は、彼女に遠慮するわけにはいかない。
何せ……美羽の周りには、なんとなく、黒い靄が見えるので。
見えないはずのものが見えてるよ、私ヤバいよ、と澪は冷静に考えつつ、これは一体何かな、と分析もしていく。
……黒い靄の正体は、よく分からなかった。あれが憑りついて魔物になったり、あるいは魔物があれから生まれたりするわけなのだが……。
だが、よくよく考えてみると、ブラウニー達が暴れていた時の様子は、今の美羽にどことなく似ていないだろうか。攻撃的で、余裕が無い。そういう状態ではないだろうか。美羽の苛立ちを濃縮して固めたら、人間を襲う魔物へと変貌しないだろうか。
……色々と理屈がおかしいのはまあさておき、とにかく今は美羽である。
彼女が黒い靄の発生源のような気がする今、澪はやはりここで退くわけにはいかない。ただ、美羽の視線を受け止めて、他のトランペットパートの部員達の視線を受け止めて、立っている。
……すると、ふい、と美羽は視線を逸らした。
「帰ってよ。ミオが居る間は私、絶対に吹かないから」
そして、トランペットを少々乱暴に机の上に置いてしまった。どうやら、澪の要望には応えたくない、ということらしい。
……ならば。
「……じゃあ、私が吹いてもいい?」
押してダメなら引いてみろ。そういうことで、澪はそう、提案してみた。
「……えっ?」
「予備の楽器あるよね?1年が入学してすぐ使う用のやつ!あれ借りてくるわ!」
「えっ?えっ?え、あの……な、何言ってんの?」
美羽は困惑している。他の部員達だって困惑している。そりゃそうだ。澪だって、唐突に過ぎることを言っている自覚はある。あるのだが……。
「私の演奏、聞いてよ。それで、吹きたくさせてやるからさあ」
澪が異世界で手に入れたもの。その内の1つを今、思い出したのだ。
……そう。皆を導く、『勇者』としての能力。
即ち、度胸、である。




