帰港せよ!*2
「という話だったのさぁ」
その日の夕食の席で、澪は母と弟に異世界での話を聞かせた。尚、夕食はから揚げとみそ汁とキャベツの浅漬けだった。『夏場はね!夏場こそね!肉!』とは澪の父の話である。そんな澪の父は今日は仕事で遅いらしく、『揚げたてから揚げ食べ損ねた!かなしい!』と嘆きのメッセージを送りつけてきた。かわいそうなので、温め直す時にはレンジでチンではなく、ちゃんとオーブンでブンしてやろうと思う澪であった。
「ねーちゃん異世界行ってたのかー。いいなー。俺も異世界行きたい」
「高校生になってからにしな」
「高校生になったら異世界いけるの?やったー」
「まあ、扉が見つかったらあんたも連れてける気がするし……」
ナビスを弟に会わせたらどうなるかなあ、なんて澪は考えてくすくす笑う。多分、ナビスのことだから『まあ……!ミオ様にそっくりの、男の子!』と驚くのだろう。あと、笑顔にもなってくれると思う。一方この弟は、果たしてナビスという超絶美少女を目の前にして緊張せずにいられるだろうか。いや、多分、無理。
「それにしてもうちの娘が異世界旅行とはなー。びっくりびっくり」
「まあ私もびっくりしてるけど……っていうか、2人とも信じちゃってるんだ?大丈夫?」
母も『はーびっくりびっくり』などと言いながら、食後のデザートにもらいもののクッキー缶を開け始めているのだが、澪としてはこんな母と弟が心配にならないでもない。
何せ、異世界だ。『異世界に行って帰ってきたんだけどさあ』と家族が話し始めたら、普通、『頭大丈夫?』の方にならないだろうか。『へーそっかぁ』となるのは、どうなのだろうか。いいんだろうか。まあ、澪としては楽でいいが。
「そりゃあね。そんな、たっかそうな髪飾りして帰ってきたら信じちゃうわよぉ。あと、そのシャツも。シルクでしょそれ」
澪の母はそう言うと、『見せてー』などと言いながら、澪のシャツの左の脇をぺろっ、と捲って見始めた。
「ほーら、これ普通に買ったらとんでもないお値段のやつじゃない!見てよこれ!タグ付いてないのは予想できたけど、それ以上に、ほら!縫い目が全部手縫いじゃないのよ!こっわ!普通にこっわ!」
尚、澪の母は服飾関係の仕事をしている。昔はデザイナーを志望していたらしいが、今は専ら、アパレル店員をやっている。のだが、今でも服を自分で作ることはある人なので、こういうところに目が輝いてしまうらしい。
「あ、そっかー。確かにそうだ!あの世界、ミシンとか無いもんなー。うん、全部手縫いだったわ」
「えー!?ってことはあんたパンツの方も!?この細身のシルエット、手縫いで出してるからこんな綺麗なんだー!脱いで脱いで!お母さんこっちも見たいー!」
「ねーちゃん脱ぐなら他所でやれよー!俺居るんだけどー!」
……と、まあ、こんな具合に、澪の家族は澪が異世界に行ってきたことをさっさと受け入れてしまった。
いいのかなあ、と思いつつ、まあ、いいよなあ、と思うしかないので、澪は考えるのをやめた!
さて。
お風呂に入って、『うわーお、ハイテクなお風呂だ!』と久々の現代日本のお風呂に感動して、『シャンプーとかナビスにプレゼントしたいなあ』と考えて……やっぱりミオの頭はナビスのことでいっぱいになってきた。
そう。ナビスだ。澪は、ナビスに会いたいので、早く戻らなくては。ナビスはきっと寂しがっている。そう澪は信じている!
「ってことでさー、扉がどっかにあると思うんだけど、どうしたらいいんだろ」
「そうねえ……元居た場所に無かったんだったら、困るわよねえ」
風呂上りの澪は、母と話す。母は、澪が着ていたドレスシャツと細身のパンツを見て『はー、すっごい手の込んだ縫製……』とうっとりしているところであったが。
「じゃあねーちゃんトラックに轢かれてみたら?異世界ものって大体トラックに轢かれて転生するとこから始まるじゃん」
「死ぬわけにはいかないんだっつの!」
横でゲーム機を手に遊んでいた弟の脳天に手刀を落としつつ、澪は『トラックに轢かれるのは最終手段!』と決めた。死にたくはない。死にたくはないので、まあ、トラックには轢かれたくないのである。当たり前である。
「他にはなんかないの?っていうかあんたそういうの詳しいんだ」
「ねーちゃんよりは詳しいんじゃね?知らんけど」
弟はよくできた子なので、ゲーム機をスリープモードにして、そっと横に置く。なのでその横に澪も座ると、弟は『うーん』と首を傾げ始めた。
「後は……なんか儀式とかやったら?つーかねーちゃん、魔法とか使えないの?向こうでできるようになったこと、こっちではできないの?俺、魔法見たいんだけど」
「いやー……私がやってたことって、ナビスの力を借りて何かしてたってだけだからなー……」
儀式、というと、ナビスがやっていたことは確かに儀式である。だが、澪にそれができるようになったわけではないのだ。
澪はあくまでも、ナビスによって神の力を分けてもらって、それで『勇者』をやっていた。澪自身が聖女だったわけではないし、澪自身ができるようになったこと、というのはそう多くない。
「あ、強いて言うなら、短剣でドラゴンぶっ刺すのはできるようになった」
「マジで!?」
「うん。あ、これドラゴンの鱗入ってた。あげるよ」
「マジでぇ!?」
スクールバッグの中に入っていたドラゴンの鱗を弟にあげると、弟は『すっげー!ドラゴンの鱗!超ファンタジーじゃん!うっわ!かってー!』と大喜びした。男の子はこういうの好きだよねー、と澪はにっこりした。
「うーん、ドラゴンってのはさておき、儀式、かあ……」
弟の横で、澪は『儀式、儀式……』と考え始める。澪にできることは、何だろう。どうすれば、向こうの世界との繋がりを生み出すことができるだろうか。
「ねーちゃん、他は!?他は何かできるようになったこととか、無いの!?」
「いやー、後は……あ、ペット上手くなったよ。チャルダッシュ吹けるようになった」
「ラッパぁ?それどれぐらいすごいのか分かんね」
「しょーがないなあ、じゃあ聞かせてやろう。えーとね、チャルダッシュは、これ」
澪はスマートフォンを操作して、チャルダッシュを流してやった。弟は音楽をやっていないのだが、それでも何となく『ヤバくね?』ということだけは分かったらしい。そうだよ、ヤバいんだよ、と澪は神妙な顔で頷いた。
そう。チャルダッシュは、とんでもない難易度の曲なのだ。それが演奏できるようになったのだから、まあ……澪が異世界で得たものは、大きかった、と思われる。
「そういやあんた、胸は大丈夫なの?」
弟と話していた澪に、母が心配そうに話しかけてきた。尚、母の手にはシベちん作の櫛と髪飾りがある。『すっごい!この細工すっごいわぁ!ねえ澪!これ象牙!?』『いや、月鯨の歯』『成程!鯨ぁ!』という会話をさっきした。母は異世界土産服飾編に夢中である。だが、澪の体調のことも気にはなる、らしい。
「また穴開けてないでしょうね」
「うん。手術してから1年以上経ってることになるし、ナビスに治してもらったの何度も挟んでるからもう、完治に完治を重ねてると思うよ」
澪は、『そういやそういうことあったな』ぐらいの感覚で言う。
……肺気胸になった記憶は確かにあるし、手術もしたし、術後の傷が痛かったのも、そもそもの穴が開いた時のあの苦しさも、覚えてはいる、のだが……何せ、澪にとっては1年前のことだ。
「えっ、じゃああんた今、18歳なの!?」
「えっ!?あっ!?どうなんだろ!?……時の砂で何がどこまで戻ってんのか分かんないからなあ」
澪は、『戻ったらこれ絶対ナビスに確認しよ』と心に決める。……2つの世界を股にかけることで、2倍の速度で老けていく、みたいなのは嫌である!
「そっか……ま、とりあえず健康で大丈夫ならいいわ」
「うん。ありがとね」
肺気胸になった時には、随分と家族に心配を掛けた。
無理な練習に、人間関係のストレス。あの時の澪は随分と憔悴しきっていて、その結果が『肺に穴が開いた』だったのだから、本当に心配を掛けたよなあ、と澪は少し反省している。
「もし肺が大丈夫なら、今度また、トランペット聞かせてよ。お母さんもだけど、お父さん、あんたの演奏好きなんだから。特にお父さんね、チャルダッシュめっちゃ好きだから喜ぶと思うわ。多分、踊り出すわ」
「それはそれでなんか嫌なんだけど」
父が踊り出しても困る。澪は『やだー』と言いつつ、まあ、大人しく座っているなら、休日の昼間にでもトランペットを吹こうかな、と思うのであった。……父や母よりも何よりも、澪が澪の演奏を聞きたいのだ。
結局、ナビスの世界へ戻るための決定打を何も思いつかないまま、時間が過ぎていく。
……1年ぶりの家族との時間は、澪にとってとても嬉しいものだったのだ。ナビスも大切だが、家族だって、澪にとっては大切なものなのである。
それに、まあ……焦っても成果は得られないだろうな、と、落ち着いてきた。冷静に考えて、今無理して動いても無駄だろうな、ということくらいは分かるようになった。
なので澪は、『また明日から向こうに戻る方法、探すぞ!』と意気込みつつ、そろそろ寝ようかな、と考えて……。
「ただいまー。あれっ、見知らぬ靴がある」
「あっ!お帰りなさいお父さん!ねえ聞いてよ!私達の娘が異世界行ってきたんだけど!」
「とーちゃん!見て!これ!ドラゴンの鱗!ねーちゃんからのお土産!」
「えっえっ何!?何があった!?パパだけ話題についてけてないのはパパが悪いんじゃないよな!?」
……父が帰ってきたようなので、『から揚げを与えてから寝よう』と、澪はオーブントースターのつまみを捻るのだった。
からあげの温め直しは、オーブンでブンがよい。めんどくさければ、トースターでもよい。
ちょっと高すぎるぐらいの温度で炙ってやれば、から揚げの表面からじわじわと染み出した油が網に敷いたアルミホイルの上でふつふつじゅわじゅわと揺れ、から揚げの表面はカラッとして美味しくなる。
澪の父は『揚げたてとはまた違うけど、この噛み応えはこれはこれでうまい』とご満悦である。よかったね、と澪はにっこりした。
「それにしても、澪が異世界とはなあ。意味が分からんなあ」
「私もよくよく考えると意味が分かんない気がしてきた」
そして父もまた、『そっかー、異世界かー』と納得してしまったので、澪は『私の家族、もしかして全員変わりものなのかもしれない』と悟り始めた。
「それで、黒い靄?この世界から異世界に何かが移動してる、っていうのは気になるな。なんだろう、それ。イカ墨?」
「絶対にイカ墨ではないと思う」
おとぼけなことを言う父にツッコミを入れてやりつつ、澪は『そういやそっちもあった』と頭を抱える。
今、澪が抱えている問題は2つだ。
1つは、ナビスの世界へ戻る手段が無い、ということ。どうしたわけか、こちらへ戻ってくる時に通ってきた扉は消えてしまって見当たらない。ならば、別の場所にあるのか、はたまた、また別の手段で帰らねばならないのか……どちらにせよ、まるで手掛かりが無い状態だ。
そしてもう1つは、黒い靄だ。
……ナビスの世界では、澪の世界からやってきた黒い靄が魔物になって、人間を襲ったりなんだりしていた。
だからこそ、澪は、できることならばこの世界で黒い靄を発見して、ナビスの世界にそれらが行ってしまわないようにしたい、のだが……。
「色々分かんないなあー!」
あーもう!と、澪はカーペットの上に寝転んだ。そのままごろんごろんしていると、自分の家の匂いがしてなんとなく落ち着く。
だが落ち着いても居られない。澪がこうしてごろんごろんしている間にも、ナビスが寂しがっているかもしれないし、とんでもない魔物が出ている可能性だって、捨てきれないわけで……。
「でも手掛かりはありそうだよなあ」
……だが、澪の父はそう言いつつ、から揚げを箸でつまんで口へ運ぶ。
『手がかり?』と澪が首を傾げている間、父はからあげを噛みしめて幸せそうな顔をすると……。
「とりあえず、黒い靄の発生元から音がした、っていうことは、その音がした場所とナビスちゃんの世界が繋がってるんじゃないのか?なら、音の出所を探してみるのはどうだ?」
……そんなことを、言ったのである。
「……やるじゃん、お父さん」
「もっと褒めて!」
「それはやだ」
「娘が反抗期!」
別に反抗期じゃないよ、と思いつつ、澪は……思い出していた。
あの時、岩の割れ目から聞こえてきた音は……。
……1stトランペットの、あの音だ。




