帰港せよ!*1
「ああ……でき、ましたね……」
ナビスは緊張の糸が切れたのか、その場にへたっ、と座り込む。そして観客達は、目の前で起きた奇跡にわっと歓声を上げてくれた。
……今や、皆の心は1つであった。
『異世界へと繋がる扉ができた』ということではなく……『これでナビス様とミオ様が一緒に居られるぞ!』と。皆、そういう風に喜んでくれているのである。
気づけば、舟歌は終わり、代わりに『ナビス様はー!さいこーう!ミオ様もー!さいこーう!ミオナビはー!えいえーん!』と、いつの間にできたのか新しいコールが発生していた。
海岸やその奥、坂道の途中や山の上で、無数のペンライトが振られている。皆の応援と祝福が、ここに集まっている。
「……やったね、ナビス!」
澪は、感極まってナビスに抱き着いた。
無から有が出てきた、というだけでも驚嘆に値する。だが、それ以上に……人々の祈りが通じたのだ。これだけのものを作るだけの、とてつもない強さの祈りが集まったのだ。
それを集めたのは、澪とナビスだ。
……その事実がただ嬉しく、誇らしかった。
「えーと……これ、向こうの世界に繋がってる、んだね」
門の放つ光は、なんとなく懐かしい色合いをしていた。
冬の朝練中、窓から差し込んだ太陽に煌めく銀のトランペットの色のようでもあったし、夏休み前日の、眩い太陽の色にも見えた。
そして、漏れてくる音は、確かに澪の世界のもの。
踏切の音。信号の音。電車や自動車の音に、自転車のチェーンの回る音。
野球部のバットがボールを打つ音。体育館を駆け回る足音。学校のチャイム。
ティンパニの低音。フルートの旋律。チューニング中のクラリネット。コントラバスのピチカート。……トランペットの、1stソロ。
……どっちも好きだなあ、と、澪は改めて思い出す。
こっちの世界も、あっちの世界も、好きだ。どっちかなんて、選べない。……選ばなくったって、いい。
「私、皆のこと、信じてるから。絶対に、戻ってくる」
澪は海岸を振り返って、皆に告げる。それはまるで、誓いを立てる騎士か何かのように。
「それで、戻ってきたら……アンコールに応えるから!だから、その時は拍手いっぱい、お願いね!」
あくまでも勇ましく。そして明るく。全てを信じて。心の隅にある不安は、見ないふりで。
……ナビスを見れば、ナビスはその場にへたり込みながら、ただ、澪を見上げていた。澪はナビスの隣に座り込んで、そのままナビスを抱きしめる。
「……じゃあ、ナビス。行ってくるね」
「はい。行ってらっしゃいませ、ミオ様」
そっと離した体が残していったぬくもりを振り切るように、澪は勢いよく立ち上がる。
……そして、扉を、開いた。
「……うわーお」
そしてそこは、澪にとってあまりにも見覚えのある景色。
学校から駅へ向かう途中の道の途中。
じりじりと照り付ける太陽にアスファルトも澪の肌も焦げるような、そんな暑さの中。
……日本の真夏に、澪は帰ってきた。
が。
「ん!?あれっ!?」
澪は、背後を振り返って、愕然とした。それもそのはず。そこには、あるはずのものが、無かったのである。
「……扉、どこぉ!?」
そう。澪が通ってきたはずの扉は、そこに、無かった!
澪はそれからしばらく、あちこち探し回った。『扉どこ?扉どこ?』と彷徨い歩く澪は、端から見れば不審者そのものであっただろう。だが、当の澪にはそんなことを気にする余裕など無かった。
戻らなければ。約束したのだから。あんなにも、皆が祈ってくれたのだから。
……だが、周辺を一通り、それこそ側溝の中まで覗き込んで確認してみても、扉のようなものは、どこにも無かったのである。
澪はとぼとぼと、帰路に就いた。トランペットケースを担いで歩く道程は、1年前、確かに毎日歩いていた道であったはずなのに、妙に懐かしく、妙によそよそしい。
「ただいまー」
澪はそのまま一旦、家へ帰った。まずは、自分を心配しているかもしれない家族の元へ、と考えたのである。
……同時に、向こうの世界のことがなんとなく、薄れていくような気もしていた。
扉を探し回っていたせいで、いつの間にかもう、部活に出て帰った時と同じくらいの時間になってしまっていた。明かりのついた玄関に入って、澪はいつも通り……1年ぶりのいつも通りに『ただいま』を言って……。
「おかえり。部活出てきたの?遅かったわね」
……そこで、1年ぶりに、母親の姿を見た。
澪によく似た顔立ちの母親は、澪が1年間、異世界で冒険していたことなど全く知らず、『いつも通り』に出迎えてくれた。
それがどうしようもなく嬉しくて、懐かしくて、澪は思わず俯く。不審でしょこれ、とは思うものの、こみ上げてくるものはどうしようもない。
「……あら?何かあったの?」
「えーと……」
何を言ったらいいのだろう。『ただいま』以外に、言うべき言葉なんて無いようにも思うし、もっと何か話さなければ、とも思う。だが言葉は出てこない。
……すると。
「靴。ローファーじゃなくなってるけど……いい靴ねー。どしたのそれ」
「えあっ!?」
澪はそこで、自分の格好にようやく気付いた。
……荷物は、持ってきた。服も、シャツにパンツという格好。
だが!制服とローファー!向こうに置いてきちゃったよ!
それに気づいた途端、澪は……『うわあ、夢じゃなかった』と、ようやく自分を信じることができた。
そう。あれは夢じゃなかった。異世界は確かにあそこにあって、澪は冒険してきて、そして……やっぱり、ナビスが澪を待っている!
澪は自分の頭の中で一気に動き出した思考に翻弄されながら、1つずつ、思い出すように確認していく。
まず、荷物。
どうやら澪は、向こうの世界に居た時のまま、こちらに来ているようである。ステージ衣装であるシンプルなシャツにパンツ、というスタイルで、荷物とトランペットのケースだけ持ってこちらに来ている状態だ。靴はブーツだ。制服とローファーは向こうに置いてきちゃったままである!
……そして、側頭部に触れてみれば、そこには確かに、月鯨の歯の細工物の髪飾りがあった。ナビスとお揃いのやつだ。
そう。夢じゃなかった。あの世界は確かにあった。その証明が、これである。
続いて、場所。
澪は、ナビスに呼ばれた時、側溝を覗き込んでそこに落ちるようにして、そうして異世界へ行ってしまっていた。
が……戻ってきたら、側溝があった道に戻ってきていたものの、側溝の中に戻されたわけでは、無かった。
つまり、場所については、多少のずれがあったようである。同時に、扉もまた、見つからないわけだが……。
そして、時間。
……不思議なことに、澪がナビスに呼ばれたあの日に、澪は帰ってきたらしいのだ。つまり、澪は1年ほど、時間を遡ったことになる、のだろうか。或いは、澪が向こうの世界に居た時には、こちらの時が止まっていたのか。
そこまで考えれば、自然と答えは出てくる。
時の砂だ。
そういえば、マルガリートとパディエーラとナビスと、3人揃って何かやっていた。アレはきっと、時の砂を使って世界の扉をあれこれするための方策を考えていたのだろう。
澪の為に。……澪がこちらへ戻った時に、澪の生活に支障が無いように。そう、思いやって。
だから、戻らなければ。
澪は、改めて意気込む。
そう。そうだ。澪はやらねばならない。絶対に離れたくない親友と離れないために、澪は全力で、扉を探さねばならないのだ。
澪がそう、意気込んでいる間に澪の母は……にや、と笑っていた。
「ふふふ……分かった!」
何が?と澪が反応するより先、澪の母は、妙に誇らしげに胸を張って、言ってくれた。
「側溝に落ちたんでしょ!」
……澪は、『?』となってしまいつつ、自分の足元を見て、『ローファーじゃないねえ』と思い、自分の服の裾を見て、『制服じゃないねえ』と思い……。
成程、確かにこれは、『ドブに落ちて急遽着替えてきた格好』に見えるのかあ、と、澪は納得した。
……それと同時に。
「……うわあー!大体合ってるよお母さん!」
もう、『側溝に落ちた』というところだけは大正解な自分の母の言葉に、笑うしかないのである!
「えっ?大体ってことは違うん?あ、プール?」
そうして一頻り笑った澪は……笑ったら、なんだか気分がスッキリした。
そして、思い切ってしまうことにしたのだ。
「いいやもう!これ、1人じゃ解決できない!」
「何何何、どしたのよ澪」
母が首を傾げるのを見ながら、澪は……堂々と、言った。
「お母さん!私!異世界に行ってきたんだけど!」
「やだぁー!娘が一風変わった反抗期ぃ!」
母は、慄いた。まあ、当然である。




