さよならの代わりに*3
ナビスはそれを口に出してすぐ、後悔した。
『別れたくない』など。ましてや、『帰したくない』など。
言わなければそれで済んだことだ。ミオを苦しませずに済んだはずだ。
だが……それは同時に、『私が別れたくないと言ってもミオ様は私を切り捨てられないだろう』という、予想に基づいたものである。
もう分からない。これが信頼なのか、甘えなのか。正直なのか、我儘なのか。
「どうか軽蔑してください、ミオ様。どうか、怒って。それで……」
どうしようもなくなって、ナビスはただ、ミオに懇願することしかできない。
いっそ嫌いになってほしい。そうして、ナビスを置いて、元の世界へ帰ってくれたら。
だがミオはそんな風には、してくれない。
「……どうして抱きしめてくださるのですか、ミオ様ぁ」
ナビスの視界が、どうしようもなく滲む。その内ぼろぼろと、涙が落ちていく。『ミオ様の肩を濡らしてしまう』と思いながらも、どうにも止めることができない。
「そんなの同じ気持ちだからに決まってんじゃん!」
そして、ナビスの耳元で聞こえる声も、なんだか揺れて聞こえた。ナビスの知る限りずっと気丈で、明るくて……そんなミオの声が、まるで泣きそうなくらいに滲んでいる。
ナビスを抱きしめる腕が、細かく震えている。今まで、ナビスが苦しくないように加減して回されていたのであろうその腕は、苦しいくらいに強く、強く、ナビスを抱きしめていた。
「……別れたくないよぉ」
そうして聞こえた言葉は、もう隠しようもなく揺れて震えていた。ミオの顔は見えないけれど、ナビスの肩に、背に、ぽたり、と落ちてくる温かな雫がある。
「だって、折角、折角できた、最高の友達じゃん……」
「……ミオ様」
「めっちゃ、大好き、なのに……」
「私もです。私も、大好きです。ミオ様……」
ナビスは、自分が救われたことを知った。やはりミオ様は、神にあらせられるのではないかしら、とも。
……2人はそのまま、抱き合ってその場で泣いていた。
ナビスもミオも、わんわん声を上げて泣いた。
こんなに泣いたのは、母が死んだあの日以来だった。
「……あー、ちょっと、落ち着いてきた……」
やがて、ぐす、とやりながらもミオがゆるゆる、とナビスから体を離す。
ナビスもゆるゆると腕を緩めれば、ミオも同じようにして……そして2人、座り込んだまま、お互いを見てみた。
「……美少女は泣いても可愛い」
「えっ!?」
涙の残る顔で言うのがそんなことなので、ナビスは大いに虚を突かれてしまった。ぽかん、としていると、やがて、澪は小さく噴き出して、そのまま笑い出す。そうなってしまったら、ナビスだって笑い出す。だって、泣くのにはもう疲れた。
それに、1人じゃない。
1人と1人だったし、今は、2人だ。
……一番大切な人と心が同じくあるということがこんなにも嬉しいことなのだと、ナビスは初めて知った。
それからナビスとミオは、噴水の縁に座り直して話すことにした。こう、いつまでも床に座り込んでいるのはどうかと思われたので。
月光がはっきりと明るく降り注ぐ中、小さな噴水の音がさらさらと耳に優しい。茂る植物も、咲き誇る花も、全てが夜と月光で満たされた空間の中、只々静かだ。
「えーとね……どっから話そうかなあ」
そんな中、大理石の床の上、ミオの長い脚が揺れて靴もふらふらと揺れる。ナビスも同じように脚をふらり、とさせてみたのだが、ミオのようにはならない。精々、ふりふり、といったくらいだ。
「私だって帰りたくないよ、ナビス!……いや、違うな!ナビスを連れて帰りたい!」
「へっ!?」
が、揺れていた靴が、ぴこん!と元気に動いたかと思えば、ミオからはさらに元気よく言葉が発せられていた!
「うん!連れて帰りたい!攫って行きたい!そんなかんじ!」
「あっ、あの、ええと……」
ナビスは困惑しながら、同時に何か、妙な嬉しさを感じてしまう。だって、ミオが言っていることは、ナビスが『ミオ様を帰したくない』と思っていることと同じなのだから!
「いや、私の世界はこっちの世界ほど大らかじゃないから、ナビスを連れて帰っちゃうと、ナビスに絶対にすっごい不利益被らせることになるから、できないけど……でも、私は元の世界に帰らなきゃならなくて、でも、ナビスとは……離れたくないな、って……」
ミオの言葉を聞きながら、ナビスは『ああ、私、夢でも見ているのかしら』と思う。
実際、ナビスの目の前にあるミオの黒い瞳は、未だに涙に潤んでどこまでも澄んで、現実とは思えないほどに美しい。長い睫毛に乗った涙の雫の1つすら、神の創り給うた奇跡のように見える。
「……なんかね?不思議なんだけどさ。私の人生で一番、ナビスが仲のいい友達なんだよね」
そうしていよいよ、ナビスの鼓動が速まる。
「元の世界でも、友達、居たけどさ。でも……なんとなく疎遠になったりとか、部活のあれこれで気まずくなってたりとか、そもそもそこまで仲良くないとか、そういうので……」
「……私が、ミオ様の、いちばん?」
ミオが上手く言葉を選べない様子である一方、ナビスは我儘に、傲慢に、そしてどこまでもいじらしく、ミオの気持ちを受け取っていた。
「そうなのですか?ミオ様」
「うん。そう!そうなんだよ!一番!ナビスが一番なんだよ!だから余計に別れたくないっていうかぁ……ナビスと別れて元の世界に帰った後、私、ナビス以上に仲良くなれる誰かに出会える気がしないっていうかぁ……」
ナビス自身、なんて傲慢な、という自覚がある。だというのに、ミオは『我が意を得たり!』とばかりに喜ぶものだから……。
「……うれしい」
ナビスの口から、ついつい、そんな言葉が出てしまう。
出てしまってから、はっ、と気づいて、ナビスは慌てて両手を目の前で振った。
「あっ、いやっ、あのっ、違うのです!違うのです、ミオ様!その、ミオ様に私以上の仲良しが生まれないことが嬉しいわけではなく……あ、も、もしかして私、それも嬉しいのかしら……!?ああああ、なんてこと!」
「お、落ち着け落ち着けナビスナビスナビス。どしたのどしたの」
心臓はとくとくといつもよりずっと速くて、ミオにかくかくと肩を掴んで揺さぶられるのすら嬉しくて、嬉しくて……ナビスは言葉を用意するのに少し時間がかかった。言葉より先に、気持ちばかりが溢れて、喉が詰まってしまうのだ。
「あの、つまり、その……」
「うん」
「私も、ミオ様がいちばん、なのです」
そうしてようやく言えた言葉を聞いた途端……ああ、なんということだろう!ミオが、ぱち、と目を見開いて、ほわあ、と嬉しそうな顔をするのだ!
「勿論、私はミオ様のように明るく社交的な性分ではありませんし、友人と呼べる方はミオ様よりずっとずっと、少ないのですが、でも、その中で、ミオ様が一番に仲の良い、お方だと……思っております」
見つめられるのがなんだか恥ずかしくて、口早にそう言い訳のように言って、それからナビスはミオを見ていられなくなって、窓を見上げる。
「……だって、こんなにも別れが辛いのですもの。まるで、自分の体の一部を無理矢理切り離すかのよう」
窓の外、遥かな空にぽつんと浮かぶ、明るい月。ナビスは、こういう月を見ていると少し落ち着くのだ。
ポルタナでも、夜の海辺や教会の窓から、1人、ぽつりと月を見上げていた。そうして孤独な聖女業を1人、こなしてきたのだ。その頃のことを思って、それから今を思って……ナビスはまた、ミオを見つめる。
「でも、でも、こんなにも別れを苦しく思えるあなたと出会えたことには、意味がある。絶対に、無駄じゃなかった。……そうですよね?」
出会わなければ、きっと、こんなに苦しくなかった。でも、出会わなければよかったなどとは到底思えない。
ミオと出会ったことには、意味があった。無駄じゃなかった。ナビスの中で、一生、宝物だ。そしてきっと、ミオの中でも。
「うん……うん!無駄じゃなかった!」
ミオはそう言うと、ナビスの手をぎゅっと握って、ナビスを見つめて……やはり、手だけでは足りなくなったようで、すぐさま、ナビスに抱き着いてきた!
「……うおお、嬉しいぃ……嬉しいねえ、これ……一番の友達が同じように思ってくれてるのって、すっごい、嬉しい……」
「ふふ、私も嬉しいです、ミオ様」
ナビスもミオを抱きしめ返して、また2人は『きゅう!』『きゅう!』とお互いにくっつき合うことになった。
こうしていられるのもあと僅かだ。互いに、忘れないように、強く強く、きゅうきゅう抱きしめ合うのだった。
「……まあ、これも前、話した気がするけどさ。いつかは、別れる日が来るよ。私達、不老不死じゃないし」
きゅうきゅうやりあいながら、ミオはそう言って、へらりと笑う。へへ、と笑い声が少し寂しく耳元で聞こえてこそばゆい。
「でも……その後に、さ。こう、死んじゃった後とかに、もう一回会えるかもね、って信じてるのは、自由だよね」
それから少し小さな声で聞こえてきた言葉は、夜の光のように優しい。
「そういう信仰を持ち続けるのは、悪くないよね」
「信仰、を……」
……ナビスはようやく、『信仰が人を救う』ということを心から理解した。
悲しくて、辛くて、でもどうしようもないことを受け入れるために信仰がある。
叶うかなんて分からないし、むしろ、現実的に考えるならばきっと叶わないことなのだと理解しながらも、それでも、神に祈り、救いを信じるのだ。
それが、信仰なのだ。
……これから、ナビスを救ってくれるものは、きっと、これなのだろう。
「……はい。私も、信じます」
だからナビスは信じる。世界で……否、世界を超えても、たった、2人だけ。たった2人だけ、ナビスとミオだけを信者とする、小さな小さな信仰。それを2人で抱き続けていくのだ。
「世界が私達を隔てても、いつか、死が私達を再び引き合わせてくれるのだと」
そう、信じることは、自由なのだ。たった2人だけの信仰をずっと続けていくことは、できるのだ。たとえ、どんなに遠く離れたとしても。
「ね、死んだら何する!?やっぱお花畑とかあるのかなー?」
「ええと、ええと……そうですね、お花畑があったら、その横にテーブルセットを出しましょう。それで、ゆっくり焼き菓子でも作って、お茶を飲んで……」
「……やること、今とあんま変わんないねえ」
「ええ。でも、そう信じてみるのも、悪くないのでは?」
死後の話など、不謹慎かもしれない。或いは、あまりにも暗すぎるのかも。だが、そこに救いがあるのだからナビスとミオの表情は明るいばかりだ。
「……っていうかさー、どーせなら死ぬ前にもっかい会える!って信仰してた方がいっか!?」
「そ、そうですよね!そう、そうでし……ん?」
……が。
ナビスは、ふと、思った。
……そもそも、ナビスの知る『信仰』とは、どういうものだったか。
「……本当に、そうなのでは?」
「ん?」
ナビスは見つけてしまった希望を信じて、叫ぶように言う。
「あ、あの、ミオ様!?も、もしかして私達、そういう風に祈れば……そういう風に、できてしまうのではありませんか!?」
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