さよならの代わりに*2
「思ってはいけないということはないだろう。どんな感情であっても」
ナビスは、何か禁書でも開くような気持ちで、カリニオス王の言葉を聞く。
「思っても……よいのでしょうか?」
ナビスは自分の中に在るものを直視するのが怖い。一度見てしまったら、自分自身に心底失望しそうだったし、ミオに合わせる顔が無いようにも思われたから。
だが。
「良いも悪いも、思ってしまうものは止めようがないだろう?在るものを無いと言ってみたところで、実際のところそれは在るのだから仕方がない。どんな思いであれ、思うことに善悪は無いはずだ」
カリニオス王はそう言って、それから、ふ、と表情を寂しげなものへ変えていった。
「そして、伝えてはいけないということも、無いはずだ。……無論、伝えることでミオ君の重荷になってしまうと考えて、君は何も言わずに居るのだろうが」
「ええ……」
そう。ナビスは、ミオの重荷になるわけにはいかない。大切な人の枷にはなりたくない。だから、笑って送り出さなければと心に決めているのだ。そう、理性で理解しているからこそ、ナビスは何も言わずに居る。
「……伝えておけばよかったと、その後10年も20年も悔やみ続けるのは、辛いぞ」
……それでも、カリニオス王がそう言って苦笑するのを見ると、どうしようもなく心が揺れた。
「アンケリーナは……まあ、ポルタナの聖女だった。そして私は、この国の王子として生まれた。どう考えても、重荷になってしまうだろうな、ということは分かっていた。分かっていたが……今考えてみると、やはり、伝えておくべきだったような気がしてならない」
ナビスは、自分より先をゆく者の意見として、カリニオス王の話を聞く。自分の父と母の話というよりは、ただ、賢人の言葉を聞いているような、そんな気分で。
当時の王子と小さな村の聖女は、結ばれるにはどうにも、お互いに重荷になるものが多かっただろう。
小さな村の出であるアンケリーナが王子と結ばれるとなったら、王家も、王家の周辺組織も、皆が巻き込まれた大騒動になっていたことは間違いない。
そして人々に愛される聖女を娶るとなったら、カリニオス王は……まあ、刺されていた可能性がある。信者は時に暴走する。刺される勇者が多いのだから、勇者でもないのに突然聖女と結婚する男が居れば、まあ、刺される可能性はより高いだろう……。
だからこそ、カリニオスもアンケリーナも、どちらも何も言わなかったのだろう、ということはナビスにも分かる。そしてそれが妥当だろう、とも思われた。
だが。
「少なくとも、そうすれば2人で苦しむことができた。1人と1人ではなく、2人で」
そう言って只々苦笑するカリニオス王を見ていると、どうも、決意が揺らぎそうなのだ。
「なあ、ナビス。君が何もミオ君に言わないのは、君が寂しいと言えば、彼女の重荷になってしまうと考えているからだろう?」
「はい。私は、ミオ様をほんの少しだって苦しめたくありません」
ナビスは即座に答える。これもまた、ナビスの本心だ。こちらは揺るぎ無く、ずっと、ナビスの中にあるものだ。あってもよいものだ。
「だろうな。人の気持ちというものは重い。善かれと思って伝えたものが相手にとって重荷にしかならないこともままある」
彼にも何かそういった経験があるのか、カリニオス王は深々と頷いて……ちら、と、後方に控えているクライフ所長を見た。クライフ所長は、ふい、と気まずげに視線を逸らしていたが、カリニオス王はにっこり笑う始末だ。
まあ……要は、カリニオス王が呪いに臥せっていた間、彼を励まし続けていたのはクライフ所長であったが、それもある種、カリニオス王にとっては重荷だったのだろう。尤も、その重荷によってカリニオス王はまだここに留まっているとも言えるわけだが。
「……だが、そうだな。私は、もしアンケリーナが苦しんでいたのであれば、それを分かち合いたかったと思う。同時にアンケリーナも、そう思ってくれていたのではないかと、今になって思う」
カリニオス王はそう言って、ナビスを見た。
「なあ、ナビス。この件について、君ではなく……ミオ君は、どのように考えているだろうか」
……そしてナビスは、その問いに答えられない。
「……分かりません」
ナビスには、澪の気持ちが分からない。
澪は、元の世界に帰ることをどう思っているのだろう。或いは、この世界のことを。そして、ナビスのことを。
……それが、分からないのだ。ずっと一緒に居たのに。この1年、ずっと、ずっと、一緒に居たのに。
「まあ、だろうな」
だがカリニオス王はあっさりとそう言うと、苦笑しつつナビスを思いやるように優しい視線を向けてくれる。
「どんなに仲が良くても、付き合いが長くても、血のつながりがあっても、完全に相手の心情を測ることなどできないのだから。常々忘れないようにしなければ、と思う」
「ええ……」
ナビスは少し考えて、不思議だなあ、と思う。どうも、澪の心の一番奥までは分からないのに、カリニオス王については、最奥にあるのはナビスへの愛なのだろうなあ、と感じられるので。
「もしかすると、ミオ君は君が苦しんでいるならばそれを分かち合いたいと思っているかもしれない。或いは、ミオ君自身も、苦しんでいるのかもしれない」
そして、カリニオス王からもたらされた言葉に、ナビスはまた、迷うことになる。
澪の重荷になりたくないと思うし、同時に、どうしようもない寂しさを抱えてしまっていることにも気付いている。そしてそれを分かち合いたいとは、まだ、思えないが……これを言わなかったのが後で発覚したら、澪のことだ、『どうして早く言わないの!もう!』と言いそうな気がした。
あくまでも、ナビスの希望的観測だ。根拠など無く、頼るべき勘はまるで働かない。そんな中で、ミオの気持ちを推し測ることなどできようもなく、しかしどうにも苦しい。
「まあ、確かめないのも1つの手段ではある。確かめようとするだけでも負担になることはあるからね。だが……私個人の見解を述べるなら、ミオ君は知らずにいるよりは、知った上で対処を考えたい性質であるように思われるな」
「……そう、でしょうか」
「案外、2人揃って同じことを考えていたりするのかもしれないぞ。私とアンケリーナのように」
カリニオス王はそう言って、それからふと、表情を曇らせる。
「……と私が言うのも、君の負担になってしまっているだろうか」
「へ?」
考え込んでいたナビスはぽかん、としてしまう。……何せ、さっきまで色々と喋っていたカリニオス王が、なんだか、しょんぼりした顔をしているものだから!
「しかし、どうにも君達を見ていたら、これを言わなくては、という気分になってしまって……君には、私のような思いはしてほしくなくて……」
「い、いえ!あの、負担になっているなどということは……!」
慌ててナビスはカリニオス王に弁明しようとして、しかし、しゅん、としている王を見ていたら、どうしていいものやら、よく分からなくなって……。
「……あの、お父様」
「うん」
なのでナビスは、居住まいを正して、改めてカリニオス王と向かい合う。カリニオス王はこれから叱られる子供のように、しょぼん、としているので非常にやりづらいのだが……。
「負担になっていないか、ということでしたら、負担になっています、とお答えします」
「あああ……うん、そうだな、すまない、本当にすまない……」
「しかし、これはきっと、私には必要な負担です」
しょぼしょぼしょぼ、と萎れていくカリニオス王の手を握って、ナビスは真剣に、必死に言葉を投げかけていく。どうすれば上手く伝わるだろう、などと言葉を弄する余裕もなく、ただ、思ったことを、思ったままに言うことしかできないけれど。でもきっと、これが最善なのだろう、とも確信していた。
「物事を知って、考えて、慮って……全て、重いことです。だから投げ出したくなってしまうけれど、投げ出してはいけないのだと、分かっています。それに……錨のようなものではないか、とも」
「錨?」
「はい。重荷であって、枷であって……でも、流されていくのを留めてくれるものです」
ナビスの中には、少々の覚悟が芽生えていた。
それは、果てを確認することなどできないものを知る覚悟。考えても分からない他者のことを考える覚悟。正しいのか分からない方法でも慮る覚悟。そして、分かち合う覚悟……他者に迷惑を掛ける覚悟だ。
「これは重いけれど、私にとって、大切なものです。船を支える錨だから……ありがとうございます」
ナビスは未だ小さく、しかし確かに自分の中に確認できたそれらの覚悟を胸に、カリニオス王に微笑んだ。
「……君は思慮深くて、賢くて、強い。アンケリーナそっくりだ。私は臆病で、後悔してばかりだからな……私に似なくてよかったよ」
カリニオス王は緊張がほぐれたのか、『ああよかった!』などと言いながら、ずるずるとソファの上で姿勢を崩してしまった。
「ああ、なんだか疲れてしまったなあ。不慣れなことをしようとするものだから!それに、やはり考えたり慮ったりすることにはどうも、気力と体力を使う!」
「私もです……」
そしてナビスもである。ナビスも、考えて悩んで、疲れてしまった!
ということで、2人揃って、くて、くて、とソファの上で姿勢を崩す。見る者が見れば『王族が2人揃って情けない!』とでも言われそうな様子であるが、今この場に2人を見咎める者は居ない。クライフ所長はこういう時に注意などせず、むしろ面白がって眺めているような性質であるらしいので、本当に誰も見咎めない!
「……あの、お父様。私がお母様似だと仰いましたが、私達、こういうところはそっくりなのでは?」
「ああ……確かにそうかもしれない……。私は肝が小さいからな。そして君も案外、そうなのかもしれない。そして互いに、気疲れしやすい性質、と……すまないな、こんなところが似てしまって……」
「いえ。全く悩みなく全てを切り捨ててしまえるよりは、こちらの方が性に合っています。ふふ……」
ナビスとカリニオス王は顔を見合わせて笑って、それからまた改めて、『くてっ』とソファの上にとろけた。
「まあ、これはこれで……」
「うん、これはこれで……」
……まあ、こういうところも含めて、どうも自分達は似た者親子らしい。
ナビスはそう感じて、なんだか嬉しくなるのだった。
それから、少しだけ、元気も出た。
その後、カリニオス王の部屋を辞してからもナビスは1人、廊下を歩きながら考えていた。
何かを感じることと、伝えることはまた別。そして、伝えたとして、それを叶えようとするか、それが叶うかどうかも、別。
思っていても言わないことだって、思っていないことを言うことだって、できてしまう。思うことと、実行することはまた違って、どちらが正しいとも言えない。
何をもってして、人は人を思いやっていると言えるのだろう。相手のためを思って取った行動が、本当に相手のためになるかどうかも分からないのに?
善意が人を傷つけることだってあれば、無関心が人を救うことだってある。それでいて、ナビスの一挙手一投足に、何かの結果が付いてくる。どう思おうが自由であっても、それによって取った行動、取らなかった行動で何かが変わってしまって、それらは取り返しがつかない。
そしてナビスは……そしてミオは、互いに何を、望んでいるのだろう。
ミオの思っていることなど分からず、更に、ナビスはナビス自身のことすら……。
「あれ?ナビス。カリニオス王への報告、もう終わってたの?」
「わっ」
考えながら歩いていたら、なんと、すぐ目の前にミオが居た。丁度ミオのことを考えていたものだから、ナビスの動揺は大きい。
今ここはどこだろう、と見てみれば、玉座の間の前にある室内庭園の、噴水の横である。人気は無く、明かりもあまり無いため1人になるには丁度いい場所だ。どうやらナビスは無意識の内に休憩できそうなここへ歩いてきていて、そして、ミオもまた、ここで丁度休憩していたところだったらしい。
「あっ、あの、ええと、終わりました。その、神霊樹のことなども、一通り……」
ナビスはなんとか、しどろもどろになりながらもそう伝える。伝えつつ、視線を床に落とす。窓から差し込む月光が影を作るほど明るく、床材の大理石が白く眩しい。
ミオが目の前で『おや?ナビスの様子が変だぞ?』というように首を傾げているのも分かっていたが……分かってはいたが、ナビスにはこれ以上上手く取り繕うことなどできそうにない。視線を床に落としたままで居ることしかできない。
パディエーラならもっと上手に誤魔化せるだろうか。マルガリートならそもそも、誤魔化さなければならないような状況にならないのだろう。
ナビスは、ナビスだから今、言葉が出てこない。
だが、言葉が出ずとも、思いはある。
そしてカリニオス王の言葉が、ナビスの胸の奥、錨のように沈んでいる。
『伝えておけばよかったと、その後10年も20年も悔やみ続けるのは、辛いぞ』と。
「ミオ様!」
思い切って言葉を発しながらもナビスはまだどこか、『こんなの間違ってる』とも思っていた。
だがそれでも、窓から差し込む月光に照らされたミオの顔を見ていたら、その続きまで、口を開いてしまっていた。
「やっぱり……やっぱり、私、嫌です!」
言わないのは違うでしょ、と、ミオなら言ってくれるんじゃないかと、そう、思ったのだ。
言わずに抱え込むより、2人で解決しようよ、と。そう言ってくれるんじゃないかと、期待している。
だってミオはずっとそうだった。ナビスはミオと一緒に、ずっとそうしてきたから。
……信じているのだ。
ナビスは、ミオを、信じているのだ。
「ミオ様とお別れしたくない!本当は私、ミオ様を元の世界へお帰ししたくないのです!」
だから、ナビスは言葉を自分の外に出す。
我儘で、行儀の悪い……自分の、心からの言葉を。




