普通の女の子になれ*2
とりあえず、シベッドは拭いた。丁度、ナビス印の手ぬぐいの試作品が澪の手元にあったので、それでわしわし拭いた。
始めこそ、『自分でやる!』と言っていたシベちんだったが、澪が『よしよしいい子だ』と構わず拭き続けていたら、その内大人しく拭かれるようになった。ただし、その間ずっと仏頂面であったが。……それでも、澪が拭ける高さまで身を屈めてくれていたので、多分、ものすごく嫌という訳ではなかったものと思われる。
さて。こうしてびしょ濡れシベちんが多少乾いたところで、澪は改めて、ナビスに例の案を相談した。即ち、『聖女を神の力で引退させる』という案についてである。
「ううーん……問題は、それこそが信者の信仰を裏切りかねない、ということですよね。聖女の引退を望む信者は、そうは居ませんから」
「だよねえー……むしろ、それが原因で、パディはああなっちゃったわけだし……」
自分自身の信仰を裏切らないことは、まだできる。人の道を外れず、迷いそうになったら誰かに助けてもらう。こんなところでなんとかなるだろう。
だが、他人が自分に向けている信仰を裏切らないことは、難しい。何せ、相手が何を思っているのか分からない。どんな信仰を勝手に持たれているか分からない以上、何をやったら裏切りになるのかすら、分からないのだ。
「過去の聖女達の事例を考えると……えーと、うん、まあ、結構ムズいっぽいなこれ」
聖女モルテに貰ったリストをもう一度確認してみるが、やはり、『引退直後に自死した』という聖女は一定数居る。恐らく、特に人気が高くて人々の注目を集めていたような聖女が、こういうことになっているのだろう。
「逆に、どういう状況になったら聖女が引退することを信者が応援してくれるかなー……」
ということで、逆から考えることにした。『どこまでなら裏切りにならないか』は考えるのが難しい。『これだったら絶対大丈夫っしょ!』というラインを先に見つけておきたい。
「聖女の引退、ですか。ううん……ミオ様の世界でも、似たようなことはありましたか?」
「うん。あった。それで、ファンがめっちゃ泣いたり喚いたりするわけよ。当然ながら……」
澪は、自分の記憶にある自分の世界のアイドル事情を思い出す。
人気アイドルの引退は世間を揺るがすニュースになっていたし、色々と、こう、大変だった。
「それでも死者が出なかったのは何故ですか?」
「いや、こっちの世界は聖女じゃなくてあくまでもアイドルだったから……信仰を裏切ってもそうそう死なないんだよね」
アイドル事情と聖女事情は何かと異なる。人があんまり死なないのがアイドルの良いところだ。
「まあ、そういうわけで、ファン……信者は『諦める』っていう形で、アイドルの引退を受け入れてたのかなあ。多分ね」
「成程、諦め、ですか……」
そう。諦め、なのだと思う。澪の世界で、ファンがアイドルの引退に際して思うことは、『諦め』だったのではないだろうか。
「後は、ほら。『新しいことに挑戦したいので応援してください』って言われたら、本当にそのアイドルを好きなファンなら、応援しなきゃじゃん?」
「新しいこと?」
「うん。アイドルが俳優に転向する、とか。そういうやつ」
「成程……」
諦め以外に何かがあるとしたら、応援、だろうか。アイドルが別の分野へ転向するのは、時々あったと思う。そして、『引退』ではなく『転向』ならば、と、ファンはそれを受け入れるのだ。……大体、その後フェードアウトしている気がするが。
「それから……えーと、諦める、とか応援する、とか以外だと、『お疲れ様でした』っていう気持ちになるとか。『ここまでで十分に楽しませてもらった』っていう気持ちだとか。そういうのも、あったかも」
比較的前向きな感情でアイドルの引退を受け入れた例があるとすれば、後は、そういうことになってしまう。
「ファン側もさ、アイドルって、ずっと続けられるものじゃないって、分かってたから」
「……信者側の理解、ということですか」
「うん。そうかも。信者側に、結構、理解があった」
……残酷なようだが、アイドルというものは、ずっと続けられるものではない。それをファンが分かっている。だから、諦めがつくし、『お疲れさまでした』と引退を見送ることができる。これは、中々酷くて、でも優しいシステムだ。
「となると……ナビスがレギナで話したアレ、よかったかもしんない」
「え?」
聖女が安全に引退するには、信者側の理解が必要だ。それは間違いない。だから、レギナの礼拝式で『聖女と信仰の裏切りについて』を話したのは、良かった。あそこから聖女と信仰心の話が広がれば、それだけで多少、救われる聖女が出てくるだろう。
裏切られたと思わせずに、諦めさせる。或いは、応援させる。送り出させる。……その技量が聖女にあればいいが、無かった場合は最低でも、『聖女の幸せを皆で見守ってあげよう』と思わせなければならない。
……と、考えていたら、もう、澪は何やら面倒になってきた。
どうせ、考えたって分からないことだらけなのだ。聖女が信仰を裏切った時に起こる事象も、聖女シミアの状況も、聖女が聖女を『引退させる』ということの可否だって。全部、詳細になど分からない。分かるはずがない。
だったら、考えたって無駄なのだ。そう。無駄。今の澪達に必要なのは、考えることでも知ることでもなくて……ただ、バカみたいに信じることなのである!
「まあ、聖女シミアは、ナビスよりは弱いっしょ!」
「へ?」
「絶対弱い。聖女シミアは、今、自分を信じる力が絶対に足りてない」
「え?あの……え?」
ナビスが困惑する横で、澪は……唐突に、勝利を確信していた。そう、信じることによって。
信じることが力になるのであれば、信じればいい。それだけでいい。それだけでいける。多分いける。そう信じているから。
「聖女シミアに向けられた信仰心や聖女シミア自身の信仰心が聖女シミアを殺そうとしたっていい!それを上回るパワーが、ナビスにはあるんだから!」
……そう。よくよく考えれば、簡単なことなのだ。
澪とナビスは、聖女シミアには絶対にできないくらいの量の信仰心を集める。そして、その信仰心を聖女シミアにぶつけて……彼女を殺そうとする意志があるなら、それら全てを真正面から破壊していく。
そう。ゴリ押しである。ゴリゴリやって、無理矢理、真正面から、聖女シミアを救ってしまうのだ!
「ねえ、そういう理屈でいけるんじゃないかなあ!聖女シミアが死にそうになってても、もう、ナビスがそれを上書きする勢いで救っちゃえば、救えるんじゃないかなあ!」
「まあ……!確かに!」
ナビスが目を輝かせるのを見つめ返して、澪はナビスの両手を握る。
「ってことで、ナビス!色々と困難だらけな聖女の人生、全部救おう!真正面から!力で!」
そうして翌日。
「準備よし!あとはナビスを整えるだけだ!」
「私も、ミオ様を整えるだけです!」
澪とナビスは全国ツアー最後の礼拝式の準備を終え、今、櫛を手に2人で、じり、じり、と見つめ合っているところである。……互いに互いの髪を整えようとしている姿勢である。
「……何やってんだ、これ」
「あっ!シベちん!やっほー!風邪ひいてない?」
そこへシベちんがやってきたので、澪は明るく挨拶する。途端、ナビスに『隙ありー!』と飛びかかられて、澪は先に髪を整えられることになってしまった。シベちんとナビスのナイスコンビによる見事な連係プレーであった。シベちんは連係したつもりは全く無いだろうが。
椅子に座らされ、髪を整えられる間、澪は手持無沙汰なのでシベッドと話すことになる。……澪の髪はショートカットなので、整えるほどの長さがある訳でもないはずなのだが、ナビスは念入りに澪の髪に櫛を通したいらしいのだ。まあ、それならそれでいいか、と澪は諦めの境地である。
「……聖餐の準備できたって女衆が言ってたぞ」
「わー!おばちゃんズありがとう!」
「ポルタナでの礼拝式は本当に、皆に助けられてばかりですねえ」
シベッドの報告を聞いて、澪とナビスは『ねー』とにこにこ笑い合う。なんだかんだ、ポルタナでの礼拝式が一番、やりやすい。村の皆が助けてくれるし、それが温かくて心地よいから。
「……で、これは何やってんだ」
そんな話をしつつ、シベッドは冒頭の『何やってんだこれ』をもう一度聞いてきた。女子同士が髪を整え合う光景は、シベッドには物珍しく映るらしい。
「ん?これはね、私とナビスとで気合入れてた!」
「今日の礼拝式は、特に信仰心を沢山集めなければなりませんので……ふふ」
澪はにこにこだし、ナビスもにこにこだ。ナビスはにこにこしながら、優しく優しく澪の髪に櫛を通していって……そして、殊更明るく、笑うのだ。
「そして救うのです。民衆も、この国も……そして全ての聖女も!」
夕方の気配が近づいてくると、いよいよ、ポルタナは全国ツアー最終日の様相を呈してきた。
人が、多い。
……この狭いポルタナに、人がぎゅうぎゅう詰めかけているのである!
「めっちゃ多っ」
「わ、わあ……人しか無い光景だなんて!」
舞台袖からこの様子を見ながら、澪とナビスは慄いている。
ポルタナのキャパを完璧に超えているほどの人の入りように、最早、恐怖すら覚えてきた。
「全国ツアーの最終日、というと、これほどまでに人が来るものなのですか……?」
「え、いや、わかんない……」
2人はしばし、ぽかん、と人のざわめきを見守り……それから、2人揃って気を取り直す。
「よ、よし!これだけ人が集まってるんだったら、信仰心だって余裕でいっぱい集まるっしょ!気合い入れていこ!」
「は、はい!たくさん集めましょう!」
そう。ピンチはチャンス。人が多いのは、良いことだ。信者が多ければ信仰心も増える。そして、信仰心が増えれば、できることが増えていくのだ。
「それで、聖女シミアに勝つぞー!」
「おおー!」
澪とナビスは拳を天へ突き上げて、元気に声を揃える。
……ゴリ押しでもなんでもいい。要は、ナビスを聖女シミアに勝たせる。そうすることで、聖女シミアを救うのだ。
開演して最初の演奏は、いつものごとく澪のトランペットだ。
ノクターンの緩やかな旋律が物悲しく会場に響き渡り、静謐な空気が満たされていく。
夜のポルタナは遠くとどろく波の音と星の光に囲まれて、どこか現実離れしたような雰囲気さえ持っているが、その雰囲気は今、澪の演奏によってより一層研ぎ澄まされている。
まるで、ここがポルタナではなく、神の園なのではないかと思わされるほどに。
そうして一曲目が終わる。しめやかに伸び切ったロングトーンが夜空へ掠れて混ざっていく中、会場は拍手に満たされていく。
澪は全身に拍手を浴びて、方々へ礼をする。
……と、そこで澪は、見つけてしまった。
わーお。
澪は表情にこそほとんど出さなかったが、内心で、滅茶苦茶に驚いていた。
何せ……最前列に、変装してはいるものの、聖女シミアが、居る!




