離れることで*9
それから1時間もしない内に、馬車がセグレードを出発した。
馬車は、ナビスが持ってきたものを使う。最初はクライフ所長がギルドの馬車を使おうと提案してくれたのだが、なんだかんだ、ドラゴンタイヤの馬車の方が速度も乗り心地も良い。結局、馬だけ交代させて、馬車はドラゴンタイヤのものを使う。
馬はセグレードギルドが所有する馬の中でも良く走り体力のあるものが選ばれた。そのためか、普段以上に速度の出ている馬車の中、ナビスは緊張の面持ちで幌の外を見つめることになったのである。
馬車は、セグレードから西……王都方面へと向かって走っていた。どうやら、そちらにロウター・レクスファミラの実家があるらしい。ロウターが戻るならばそこだろう、とはカリニオス王子の見解である。
ナビスは、こちらの方面へ来たことは今までに一度も無かった。……そもそも、ナビスは今まで、ポルタナ近郊の村や町……コニナ村やメルカッタを訪れるくらいにしか、遠出したことがなかったのだから。
それがどうしてか、レギナへ赴き、ジャルディンやセグレードに赴き……そして、王都カステルミアの方にまで、今、赴こうとしている。
ナビスの行動範囲が広がったのは、間違いなくミオの影響だ。
ミオは、ナビスから見て眩しいほどに行動的で、活力にあふれている。だから、ミオと一緒に居ると、ナビスは軽々と、あちこちへ向かえてしまう。以前のナビスであれば間違いなく躊躇していたであろう距離の移動をも、簡単に決断してしまえるのだ。
……だからこそ、流れる景色を見つめるナビスの心は、不安に波立って仕方がない。
ミオが居ない。だから、ナビスは今、不安に揺れている。今までミオに引っ張ってもらっていた手を引っ張ってくれる人は、今、隣に居ない。
「ミオ様……」
どうか無事で、と祈る。同時に、自分がミオを助けるのだ、と決意を新たにする。……だがそれでも、ナビスの心は嵐の海のように激しく波立って、只々、押し寄せてくる不安を拭うのに精いっぱいだった。
「少し、休んでいるといい」
そんな折、ふと声を掛けられてナビスは振り向く。そこには、カリニオス王子が居た。
「私を救うため、ポルタナからずっと休みなくセグレードまで来たのだろう?」
カリニオス王子の目は、優しくナビスに向けられている。ナビスはその目を見てどこか安心し、しかし同時に、また不安をも思い出す。
「ええ……その、お言葉はありがたいのですが。でも、休めそうに、なくて」
そっと目を逸らして、ナビスはそう、言った。
……カリニオス王子の言う通り、今のナビスは間違いなく疲れ切っている。ただでさえ、ポルタナからセグレードまで、ほとんど休みなしで来たのだ。勿論、ジャルディンからセグレードまでの間は澪に御者を任せて馬車の中で仮眠を摂っていたが、それだけしか休めていない。
更に、その後、ありえないほどの奇跡……死に瀕したカリニオス王子とクライフ所長を治す、という術を使ってしまっている。その分、ナビスは疲労に侵され、集中力は擦り切れかけている。
だから、休むべきだ。分かっては、いる。分かっては、いるのだが……。
「……心配か」
「ええ」
どうにも、心配だった。ミオのことが心配で、心配で、ナビスは到底、休む気になれなかったのである。
ナビスは馬車の床に視線を落として、自分を責めた。
ミオを連れていかれてしまった自身の不甲斐なさを責めて、今ここで気持ちを切り替えて休むことができない自分の弱さを責めて……心がますます、荒れ狂う。
……こんな時、ミオならどうするだろう。
ナビスは、そう考えて、しかし、ナビスはミオのようには上手くやれないだろう、とも考えて……。
「なら……そうだな。少し、話を、しないか」
「……へ?」
考えを優しく遮るような言葉を投げかけられて、ナビスは、ただきょとんとするのだった。
「話、を……?」
「ああ、そうだ。……君の気を紛らわす手伝いくらいなら、私にもできるかと思ってね」
ナビスは、ぽかんとしたままカリニオス王子の瞳を見上げた。
琥珀色の瞳は、心配そうに、それでいて優しくナビスを見つめていた。そこには、居丈高な様子も無ければ、自らの地位を驕る気配も無い。……それどころか、いっそナビスの機嫌を窺うような、そんな素振りをみせているのだ。
……王子様って皆こういう方なのかしら、と、ナビスは少々不思議に思う。
カリニオス王子はとても優しくナビスを気遣ってくれて、いっそ献身的なまでに見える。命を救った年若い聖女を気遣ってくれているのだろうな、とは思うのだが、それにしても……王子様なのだからもっと威張っているものではないのかしら、とナビスは思うのだ。
「その、もしよかったら、君の、ポルタナの話を聞かせてくれないか」
「ポルタナの?」
「ああ。……いや、他にも、君が話していて落ち着くものがあれば、それでもいい」
ナビスが不思議がる一方、カリニオス王子は、相変わらずの調子である。
……彼を見ていると、ナビスはなんとなく、シベッドを思い出す。カリニオス王子はシベッドのように不愛想ではないが、どこか、少々不器用なように見える。それでいて、人を気遣う優しい心があって……心配してくれるのだ。
「それでは、僭越ながら、ポルタナの話を……」
「ああ。是非、聞かせてくれ」
だから、ナビスはほんの少しだけ、落ち着いた。優しく話を聞いてくれるカリニオス王子のことをありがたく思いながら、彼の提案通り、話をしてみることにする。
「ポルタナは小さな村です。海がとても綺麗で……」
……ナビスが話す間、カリニオス王子は静かに聞いていてくれた。時々相槌を打ったり、質問を挟んだりしてくれる。
『魚か。今の季節はどんな魚が獲れるんだ?』『鉱山では昔は聖銀が採れていたと聞くが、今はどうだ?もしや、その杖は、鉱山で採れた聖銀か?』『製塩も盛んにやっているのか。素晴らしいな』と、反応をくれるのが嬉しくて、ナビスはどんどんポルタナのことを話していく。
大好きな故郷の話は、次第にナビスの心を落ち着けていった。海の音を思い出し、風の声を思い出して……そして、そこで笑うミオのことをも、思い出していく。
魚の話をする時は、ミオと一緒に魚のスープを作った話もした。
鉱山の話では、ミオが活躍してレッサードラゴンやゴブリンや、様々な魔物を倒していった話もした。
製塩については当然、ミオが発明した技術で製塩が進められていることを話した。
……そう。ナビスの大好きなポルタナの話には、しばしば、ミオが出てくるのだ。
ミオと共にポルタナを興してきたことを思い出して話せば、それは次第にナビスを勇気づけていく。『勇者』ミオは、彼女について語る者にまで勇気を与えてくれるのだ。
そうしてナビスが一頻り話した後で、カリニオス王子は水筒の水をカップに注いでナビスに差し出しつつ、にこにこと何故か嬉しそうに、優しい笑みを浮かべて言った。
「君は、本当に勇者ミオのことが好きなんだな」
「へ!?」
突然のことに、ナビスは驚き、戸惑い……受け取った水のカップを両手の中に包みながら、その水面に視線を落として……『ああ、私ったら、本当に……』と確かめる。
「……はい。その、ミオ様は……ミオ様は、私の憧れでもあって、共に歩む仲間でもあって……」
ナビスは、熱くなっていく頬を自覚しながら、そっと、囁くように続ける。
「その、大好き、なのです」
自らの心を確認して、ナビスは胸の奥が暖かくなるような、そんな気分になった。
ミオは、ナビスの憧れで、仲間であって……そして、大好きな存在なのだ。
大好きなのだ。ナビスはもう、ミオ無しで元気にやっていく自信がない。今やミオは、ナビスにとって唯一無二の存在なのである。
「それはいいな」
カリニオス王子は、そんなナビスを見てにこにこと嬉しそうにしている。
「信頼できる者が居る人生は、良いものだ」
「ええ。本当に……」
そう。ナビスは、ミオを信頼している。信じている。
そして……ミオもきっと、ナビスを、信じてくれている。
そう思えば、ナビスの胸の内にはまた、炎が温かく燃え上がっていくようだった。不安の波は相変わらずナビスの心を乱していたが、それでも……それでも、信じ、信じられているのだということが、ナビスを強くしてくれる。
「ありがとうございます、王子様。少し、落ち着いてきました」
「それはよかった。なら、少し休むといい。寒くはないか?ほら、毛布がある。使いなさい」
やがて、ナビスは落ち着いてきた心を自覚して、王子に断りを入れつつそっと横になる。不敬よね、とは思うが、今は緊急事態であったし……何より、王子はナビスの不敬など、まるで気にする様子が無いので。それに甘えて、休むことにした。
……元々、疲れが酷かったこともあり、ナビスはすぐ、寝付くことになる。
なので、ナビスは知らなかった。……王子が、寝付いたナビスを見下ろして、『本当にそっくりだ』と寂しげな笑みを浮かべていたことを。
「そろそろ到着だ」
「……へっ?」
ナビスは、優しく揺すられて目を覚ます。がばり、と身を起こせば、そこには驚いた様子のカリニオス王子が居た。どうやら、突然ナビスが起き上がったので驚かせてしまったらしい。だが、ナビスとしては相手を驚かせてしまったことよりも……幌の外がどうも薄暗くなってきているということの方が、重大なのだ!
「い、今は何時ごろですか!?」
そう。ナビスが眠ったのは、セグレードを出発してそう経たない頃。つまり……どんなに遅く見積もっても昼前、という時刻だったのである。それが今、夕方になっているのだから……。
「もうそろそろ夕方だが……ああ、そうだな。えーと……君が眠ってから、まあ、6時間程度は経過していることになるか」
カリニオス王子が笑っているのを見て、ナビスは一方で青ざめる。
「あ、わ、私……すっかり、眠ってしまって……!」
すっかり、眠っていた。そう。ナビスはすっかりぐっすり眠っていたのである!この国で2番目程度に偉い人の前で、ぐっすりと!
「ああ。良く寝ていたな。……いや、気にしなくていい。眠れたのは良いことなのだから。ほら、そう落ち込むな」
「あわわわわわ……私ったら……私ったら……」
カリニオス王子は励ましてくれるが、ナビスは冷や汗をかかんばかりである。
……だが、どうやら冷や汗をかいてばかりも居られないようである。
「さて。まあ、よく眠っていたところ申し訳ないが、君を起こしたのはそろそろ到着だからでね」
王子がそっと指し示す幌の外。
そこには、徐々に夕焼けの色に染まりつつある空を背景に聳える、立派な城のシルエットがあった。
「私も実に久しぶりだが……あれが王都カステルミアだ」
王都カステルミア。この国の中心が、今、目の前に迫っている。
そして……きっと、連れ去られたミオも、ここに居るのだ。




