大きな神霊樹の下で*4
澪は、間近で自分を睨む龍の眼を見た。
その目は金色。ただ、澪のことを捕食対象として見ているような、随分と思い切りの良い……思い切り以外のものは憎悪以外何も、読み取れない目だった。
そして、速い。
龍は一瞬で水上へと姿を現し、そして、澪へと襲い掛かってきた。
「やばっ」
そのほんの一瞬で判断した澪は、即座に地を蹴って横へ飛ぶ。すると澪のすぐ横、つい一瞬前まで澪の頭があった場所に、龍の牙が迫り、ばくり、と龍の口が閉じられる。
「って……!」
逃げ切れなかった左脚を、龍の牙が掠めていく。痛みと衝撃、そして何より、『一瞬遅かったら死んでいた』という恐怖。それらが澪の背筋を駆け抜け、ぞわり、と肌を粟立たせた。
「ミオ様!」
「あー、だいじょぶ、だいじょぶ。掠っただけ」
すぐさまナビスが駆け寄ってきて、澪の脚を見る。澪もそれにつられて見る。そして、『あ、これ見ない方がよかったやつだ』と後悔した。
思っていたよりも深く、肉が抉れていた。どくどくと流れ出す血が、地底湖のほとりに血だまりを作っていく。それらをうっかり見てしまった澪は少々気が遠くなるような感覚を味わいながら、しかし、ここで倒れるわけにはいかない、と気合を入れて持ち直す。
「す、すぐに治療します!」
「ありがと……うわホントにすぐだ」
ナビスも緊張しながら相当に気合を入れたと見えて、ぱっ、と強く強く光が杖先に灯った。その光は龍の目を眩ますことにもなったらしく、がう、と龍の悲鳴が聞こえてくる。
だが、それよりも大切なのは、澪の傷だ。
……ナビスの祈りは確かに届き、澪の脚の傷は、瞬時に再生されたのである。
傷が消え、痛みも癒えて、澪はぽかんとしながらこの奇跡を受け止めた。……と同時に、『こりゃシベちんも治った時にびっくりしただろうなー』としみじみ思う。シベッドはかつて、片腕を失った状態でナビスに治療されたことがあるわけだが、治療された側としてはさぞびっくりしたことだろう。
それほどまでに、ナビスの治療の効果は大きかった。先程まで自分の中にあった『ああこれはもう脚、ダメかも』といううっすらとした絶望を全て、すぽん、と消し去られてしまったような、そんな感覚だった。シベッドの場合は、『もう命ダメかも』だったわけで、それが急に治されたら混乱もするだろう。
「ミオ様、ミオ様……大丈夫ですか!?」
「あ、うん、大丈夫。ただ、急に治ってびっくりしてる」
澪は頭の中で『びっくりした!』とよく驚いている鉱夫の姿をなんとなく思い出しながら立ち上がる。『ほらもう大丈夫』とナビスに示すべく、ぴょこ、と飛び跳ねて見せもした。
実際、傷は『大丈夫』だった。すっかり癒えてしまった傷は、そこに傷があったことも分からないほどになっている。脚を動かしてみても、まるで違和感が無い。
「よ、よかった……」
「へへ、ありがとね、ナビス。さて……」
緊張が解けたのか少々脱力気味になっているナビスを支えつつ、澪は改めて、龍の姿を見る。
……龍は、地底湖の上、中空に浮かんでこちらを見ていた。鱗は灰色で、尾の先に行くにつれて黒くなっている。実に、『龍』らしい。
「あいつ、どうしよっか」
さて。澪達は、あの龍を何とかしなければなるまい。
恐らく、神霊樹の元気が無い原因は、この龍だろう。よくよく見れば、天井から伸びてきている根っこのようなものが地底湖の端に触れている。あれが神霊樹の根だとしたら、ここの水の影響をもろに受けていることになるだろう。
そして今、この湖には龍が住み着いている、という訳だ。あの龍がいつから住み着いているのかは分からないが、あの龍が神霊樹に影響を及ぼしている可能性が高い。
……ということは、まあ、あの龍を何とかしなければならないわけだが。
「許せません!」
澪が動くより先に、ナビスの杖が強く光り輝いていた。
「ミオ様を!ミオ様を食べようとしたんですか!?駄目です!」
そして、びたん、びたん、と、杖で龍の尾を叩き始めた。
「おーいナビスー、ちょっとそれ無謀じゃない?」
「ミオ様は!食べちゃ!いけません!許しません!」
こんな光景、月鯨の時にも見た気がするなあ、と思う澪であったが、ひとまずナビスは止めた方がいいだろう。何せ、眩んだ目が戻ったらしい龍が、ぎろりとこちらを睨んでいるのだから。
……実際、ナビスのびたんびたん攻撃は効いているようであった。聖なる魔除けの光を強く纏った杖は剣のようになり、龍の鱗を剥ぎ落していたのである。
だが、このままナビスに攻撃させていては、龍が反撃してきそうである。澪はナビスを引っ張ってそっと下がらせる。……すると、龍は案の定、するりと宙で体勢を変えて、ぐわ、と襲い掛かってきた。
「二度目は許さないから!」
だが澪とて馬鹿ではない。一度目は脚をやられたが、二度目はあんなことにはさせない。
身を低くして、ぎりぎりのところで龍の突進を躱す。そしてすれ違いざま、龍の体へ、ドラゴン牙のナイフの刃を滑らせてやる。
すると、鱗と鱗の間に潜り込んだ刃が、容易く龍の体を切り裂いた。そう深くは切れなかったが、案外、いけるものである。澪は内心でガッツポーズしつつ、二撃目に備える。
案の定、龍はぎゃおう、と声を上げ、くるりと宙を旋回するとまた、澪に襲い掛かってきた。
「させませんよ!」
だが今度は、ナビスが出る。ナビスは杖から魔除けの光の壁を生み出すと、それで龍の突進を防ぐ。龍は、びたん、と壁にぶつかって宙でもんどりうった。
「これでも食べていなさい!」
更に、龍の口の中へ、ナビスは魔除けの光の球を打ち込んだ。……すると、魔除けの光をもろに呑んでしまった龍は、遠吠えにも似た声を上げながらバタバタと宙で暴れるのだ。
……そして、暴れながら、龍はじっと澪とナビスとを見て……それから、ナビスへと襲い掛かっていく。
その速度は、先程までより、更に速い。龍の眼光は、いよいよ鋭い。
ナビスに襲い掛かる龍は……まるで、不倶戴天の敵へ襲い掛かるかのようであった。
「させないよ!」
だが、ナビスが狙われているというのなら、澪が前に出ればよいだけのこと。
そう。今度は、澪の出番だ。澪はナビスの魔除けの光を身に纏いながら、龍の下に潜り込んで……下から、龍の腹へと斬り込んだ。
それからは、少々泥仕合じみた戦いになった。
ナビスが歌を歌って魔除けの光を溢れさせ、龍の弱体化を図った。一方で、澪が3度ほど龍に斬りつける間に1度は龍から攻撃を受けていたので、ナビスは澪の回復にも力を使うことになる。
龍の鱗は硬く、魔除けの力が効いて尚、龍は素早く、力強い。一太刀浴びせるだけでも相当な苦労で、しかも、相手は巨体だ。ナイフで斬り付けた傷程度、何ということは無いとばかりに宙を泳がれては、澪もナビスも、気力を失いかける。
……だが、傷つきながらも澪は龍に向かっていった。極度の集中の中で必死に龍の動きを読み、避けては斬り付け、避けられないとなったら少しでも重傷を避けるべく動き……と、懸命に戦っていた。
また、ナビスは澪を傷つけさせまいと、必死に祈り、魔除けの光と癒しの術とを交互に放った。これほどまでに神の力を連続して行使することなど、まず通常ではありえない。それ故に、ナビスには重く色濃く、消耗が圧し掛かっていったが、ナビスはそれを気力だけで耐え忍ぶ。
……そうしてじわじわと消耗戦になっていき……やがて倒れたのは、回復手段を持たなかったらしい、龍の方だったのである。
「いやー……キツかった……」
澪は肩で息をしながら、龍の喉に、どす、とナイフを突き入れた。既に龍は動かなくなっていたが、一応念のためのとどめ、というわけである。
「ああ、ミオ様、ミオ様……お怪我をさせてしまい、申し訳ありません」
「いやいや、別にナビスが申し訳なく思うことじゃないっしょ。それに、すぐ治してくれたじゃん?おかげでほとんど痛くなかったし。助かったよナビス。ありがと!」
ナビスは、澪が何度か攻撃を受けたのを見て、すっかり精神をすり減らしていたらしい。戦闘中は気丈に祈り続けていたナビスだったが、龍が倒れた後はもう、只々澪を抱きしめ、緊張の糸が切れたようにずるずるとへたり込むばかりである。
……そして澪としても、同じような状況だ。
何せ、消耗した。ナビスによって、傷は即座に癒されていたが……それでも、極度の緊張に曝された精神はすっかり疲れ果て、そして、痛みを失って尚、体は傷ついた時の恐怖を思い出して震えている。
「……もうちょっとこのままでいよっか?」
「はい……どうか、このままで」
ということで澪は開き直ってナビスに抱き着いた。きゅ、と抱き着けば、きゅ、と抱き返される。結局、2人は座り込んだまま、お互いに、きゅ、きゅ、と抱きしめ合ってお互いのぬくもりを楽しむのだった。
さて。
抱き着き合うことで、精神が次第に凪いで、落ち着きと元気を取り戻してきた2人はようやく離れる。
ナビスをそっと離すと、少しばかり、肌寒く感じた。つまり、その分、今まではナビスで暖を取ってぬくぬくできていた、ということだろう。案外、人にくっつくとあったかいのである。
離れがたかったが、澪とナビスはそっと離れて、そして、地底湖を覗き込む。さっきまで龍が居た湖だ。警戒は怠らない。
「……もう、いないかな」
これでもう1匹龍が居る、などということになっては大変だった。そうなっていたら、次は勝てるか分からない。澪とナビスは龍1匹相手でもこれだけ苦戦したのだから。
「居たら仲間にできたかもしれませんが……仕方ありませんね」
ナビスは湖を覗き込んで、残念そうにため息を吐いた。
……それについては、澪も考えないでもなかった。スケルトン達やブラウニー達のように、龍も仲間になってくれたら、と。
だが、どうやらそれはできなかったらしい。
「でもあの龍、魔除けの歌をナビスが歌っても反応なしだったよねえ……」
「そう、ですね……うーん、やっぱり、できないこと、だったのでしょうか」
もしかしたら、龍を手懐ける手段もあったのかもしれない。だが、どうも、2人にはそれができなかった。
スケルトン達と同じようににこにこと友好的に働いてくれる魔物がもう1匹増えるかもしれない、と期待していただけに、少々残念ではあるのだが。
「あの龍、何しにここに居たんだろうねえ……」
「うーん……とりあえず、湖の底に何か沈んでいる可能性がありますよね。ちょっと見てきます」
……龍が一体、どのような用事でここに住み着いていたのかは分からないが。だが、ひとまず、確認すべきことは残っている。
龍が出現する前、幽霊めいた人影が湖に落とした、何か。それは確かめてみるべきだろう。
「では、潜ってみますね」
ということで、ナビスが湖に潜ることになった。
ナビスは少々恥じらいながらも下着姿になると、そのまま、とぷん、と湖に入っていく。
「いってらっしゃーい」
水に潜ったり泳いだり、というのは、やはり、澪よりも海育ちのナビスの方が得意なのだ。澪が見送る間にも、どんどんナビスは泳いでいく。
透明な水の中、のびやかな腕が水を掻き、白くほっそりとした脚が水を蹴って、白銀の髪がゆらりと水に揺らめく。
「……きれー」
ナビスが泳ぐ姿は美しい。澪は暫し、それに見惚れてから、『水から上がったら寒いよね』ということで、タオルや上着の準備をしておくのだった。
やがて、さぷ、とナビスが水面に顔を出す。そのままさぷさぷ、と泳いでやってきたナビスは、ざぱ、と水から上がってきた。澪は早速、ナビスをタオルで包んでやりつつ、ナビスが拾ってきたらしいそれを、見る。
「ミオ様。どうやら、これが落ちていたようです」
「これ……おおー、指輪だ」
それは、美しい細工の指輪だった。白金の細工に勿忘草色の宝石があしらわれたそれは、ナビスによく似合いそうだ。
……だが。
「あれっ、刻印があるね」
「へ?あら、本当……ええと」
指輪の内側には、刻印があった。澪とナビスは寄り合って刻印を覗き込む。
……指輪の内側には、『アンケリーナへ』と、打刻してあった。




