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26:翡翠の夏休み



 夏休みも後半になり、ローゼスタは一度家族と話をすると言って帰省していった。すでに宿題を終わらせ、クラブ活動のレポートまで書いてある。優等生の名に恥じぬ勤勉ぶり。残りの夏休みを心置きなく遊ぶつもりだ。


 一方でリンダは宿題にまったく手を付けていなかったのがフライヤにバレ、雷を落とされていた。きちんとやるように命じても隙あらば脱走するリンダに業を煮やしたフライヤは家庭教師を召喚、魔法で椅子に縛りつけ、一日に決めたぶんが終わるまで部屋から出られないようにしてしまった。


 前半を社交で潰してしまったフライヤなりの詫びもあるのだろう。家に帰ったら成績が落ちたなんて、リンダに悪いと思ったのだ。

 翡翠はだいたい終わっているが、せっかくの機会なのでリンダと一緒に勉強している。


「別に宿題やらなくても死なないのに……」

「そういう問題じゃない。未提出だと放課後に補講だぞ。飛ぶ時間が減ってもいいのか?」

「……やる」


 リンダは文句たらたらだ。やればできるのに勉強と名のつくものはとことん嫌なのか可愛い顔を歪めている。学校なら座学の鬱憤を実習で晴らせるが、宿題に実習はない。不満は溜まる一方だ。

 とはいえ翡翠は同情している。家庭教師が来ているのでいつもよりきちんとしたドレスだし、言葉使いにも訂正が求められる。あのユニコーンへの罵倒は翡翠も驚いたが、ハーツビートのメイドたちは学校に行ってから姫様はガラが悪くなられた、とフライヤに注進してしまったのだ。

 社交は上手くやっていたから油断した。リンダの活発が粗忽に、明るさが乱暴になる前に、躾直さなくてはと決意したらしい。フライヤの心配はわかるがリンダは窮屈そうだった。


「ねえリンダ。宿題が早く終わったら、迷宮に行ってみない?」

「迷宮? 学校の?」

「そう。最後にソロで潜ってみようと思って申請しておいたのよね。負傷の心配はないとはいえソロははじめてだし、ちょっと不安だったの。リンダがいてくれれば心強いわ」

「行く」


 リンダは喰い気味即決だった。その表情はまだ見ぬ迷宮への期待に輝いている。


「じゃ、早く終わらせること」

「任せろ。いえ、任せて!」


 家庭教師をチラッと見て慌てて言い直した。俄然やる気になったリンダに家庭教師は苦笑する。


 この家庭教師は宿題が終わらない子供専門で、厳しいことで有名らしい。まさかハーツビートの姫に雇われるのは予想外だったのか、ずいぶん気を使ってくれていた。

 やらないと、とわかっていてもやる気にならない子供はいるものだ。どうやる気を出させるかも家庭教師の腕の見せ所。餌は撒いた。後は任せた。翡翠のアイコンタクトを正しく受け取った家庭教師がうなずいた。


「ではお嬢様。まずはこれを片付けてしまいましょう」


 机の上に置かれた宿題のドリルをトレードマークの指示棒でぺしぺし叩く。ひぃ、と情けない悲鳴をあげ、リンダはようやく机に向き直った。


 迷宮を鼻先にぶら下げられたリンダは、三日で宿題を終わらせた。


「やればできるではありませんか。おめでとうございます」

「ふっ。私にかかればこんなものよ!」


 リンダのふてぶてしい笑みにも家庭教師は笑って流すだけだ。内心では冷や汗ものの追い上げだった。一度スイッチが入るとリンダの集中力はすさまじいものがある。リンダはやればできるのだ。言い換えると、やると決めたことはやり遂げる根性があるのだ。


 なにしろ会社を興すために必要な資格はすべて取得したし、実際に起業してからは営業も企画も経理もできることはなんでもやった。嫁と子供の生活がかかっていたのだから、苦労なんか屁でもなかった。そういう男である。


「意味不明な読書感想文とかなかっただけ楽だったわ」

「読書感想文?」


 家庭教師が首を捻った。あれは本当に意味がわからなかった。面白かった、の一言で済むことを、なぜ原稿用紙に何枚も書かなくてはならなかったのだろう。


「本の感想など人それぞれでしょうに、なんのために感想を書かせるのでしょうか? 添削はどうするんですか?」

「さあ? だから意味不明なんですってば」


 その点魔法学校の宿題はドリルだけだ。自由と銘打って子供に丸投げする親泣かせの自由研究もない。ローゼスタはレポートを書いていたが、それは任意だ。


「ま、これで迷宮に行けるわね」


 翡翠はリンダに付き合っておさらいまで済ませている。夏休み中に学校の塔には冒険者クラブの合宿でさんざん行ったが、迷宮はまだ数えるほどだ。


 翡翠が塔ではなく迷宮に行きたいのには理由がある。

 ユニコーン戦で、翡翠はほとんど役に立たなかった。隠してはいるが男の翡翠にユニコーンが見向きもしなかったからなのだが、奮闘したのはローゼスタで、やり方はともかく倒したのはリンダだ。

 冒険者クラブに所属し、三人の中で戦闘経験があるのは翡翠だけだった。それなのにこのていたらくだ。翡翠は自分を鍛え直したかった。


 無事に宿題が終わり、フライヤの許可も得て、二人は翡翠の部屋で作戦会議に入った。


「学校の迷宮には本物の魔法生物は出ないんだよな?」

「ああ。召喚でもない。本物そっくりの幻影だ。それでもダメージを与えないと消えないし、迫力は本物だから初心者は足が竦んで動けなくなる」


 冒険者クラブの負傷原因第一位は逃走中に転んでできた捻挫や擦り傷だ。味方の魔法で火傷をしたり、味方にふっ飛ばされて骨折、などという残念な原因もある。


「ユニコーンとか出てくるの?」

「ユニコーンはないな。あれは上級者でも討伐が難しい第一級危険生物だ。そもそも設定されていないと思う。俺様とリンダは一年生だから、初心者向けのゴーストとかコボルト、ボスにケット・シーってところじゃないかな」


 翡翠はリンダと二人だけだと地が出る。リンダも翡翠とだと気が緩むのか、男口調になることがあった。なにも隠す必要のない友というのは心地良く、くすぐったい気分になる。迷宮探索はきっと楽しいものになるだろう。翡翠はわくわくした。


「ケット・シーって、あの猫のやつ?」

「そうそう。迷宮や塔は元々魔法使いの研究施設だから、使い魔が変質したものが多いんだ」


 魔法使いの使い魔といえばハーツビートや学校にいるようなおつかいにするものからサポート役まで幅広くこなす魔法生物だ。黒猫は賢く魔力慣れしやすいので魔法使いのペットとして人気があった。家事代行の使い魔シルキーは定番である。

 そうしたものたちは遺されても迷宮に留まる。主人の魔力の残滓を啜り、魔力が尽きれば迷宮そのものから魔力を得て存在し続ける。自分が変質しても守っている。だから侵入者を攻撃してくるのだ。


「なるほど不法侵入なわけね」

「身も蓋もない言い方だがそういうことだ。元は猫でも魔力によってはケット・シーになるかサーベルタイガーになるか分かれる。使い魔は魔法使いの魔力の質によって変わるらしい」

「いいな、使い魔か」


 魔法少女のマスコットキャラクターにぴったりだ。トリトは海の民だから猫が似合いそうだ。


「……なに変な顔してるんだ。言っとくけどな、使い魔のいる魔法使いは超一流なんだぞ。俺様たちなんかじゃ手も足も出ないからな!」


 なにしろ魔法学校一年生だ。素人に毛が生えたようなものである。


「えー。やってみなくちゃわかんねえだろ」

「使い魔との契約を甘く見るな! 死後も守られるようなものだぞ、服従呪に失敗すれば魔力ごと引き裂かれて死ぬぞ!」

「えっ、そんなにやばいの?」

「ハーツビート家でさえ一体しかいないって言えばわかってくれる?」

「うわ! そういやそうだった!」


 たしかに、ハーツビートにもジークズルにも使い魔は一体しかいなかった。リンダは目が覚めたように叫んだ。


 あれは家がかりで契約したものなので、個人の使い魔とは厳密には違うのだが、翡翠は教えるつもりはない。失敗してもなんとかなる魔法ではないのだ。

 呪術は二年生からだが契約に必要となる古代魔術と召喚術は三年からになる。言葉の通じないものと心を通わせるのは容易ではない。


「翡翠? どうかした?」

「……本当にわかったのか不安になっただけだ」

「ひどいな。無茶なことなんかしないって」


 全然説得力がない。翡翠の疑いの目にリンダは不満そうに唇を尖らせた。


「兄様やトリト姉様、お爺様とお婆様を残していったりしないよ。それに、嫁ちゃんだって探さなくちゃ。死んでる暇なんてない」


 なんだよ、嫁ちゃんって。リンダは女なんだから夫じゃないのか。翡翠はそう言いかけ、あまりにも真剣な瞳に言葉を飲み込んだ。リンダがこういう瞳をする時は、おそらく別の世界を見ている。

 チリ、と胸の奥が痛んだ。



 ◇



 学校にある迷宮や塔は学習施設だ。将来魔法使いとして探求者になるか研究者になるか、あるいは迷宮を探索するトレジャー・ハンターになるか。いずれにせよ、どういったものなのか知らなくては話にならない。


「そんなわけで外観こそ同じだけど、中身はその時々で変更される。私とリンダは一年生だから初心者向け(ビギナーズ)ね」

「ここって迷宮だったのか。てっきり体育倉庫かなんかだと思ってた」


 迷宮の外観は学校では珍しいレンガ造りだ。窓はなく、三角屋根が可愛らしい。校庭の片隅にひっそりと建つ、別校舎よりもちいさなこの建物にまさか迷宮が入っているとは思わなかった。


「アルバムから地図を作った時に見たじゃない」

「忘れた」

「…………」


 無駄に凛々しく言い切られ、翡翠はツッコミを諦めた。


 学校の施設なので学校に登録してある者しか入れないようになっている。事前予約制で放課後は冒険者クラブが入り浸っていた。魔術研究クラブやパーティを組んで行きたい生徒からはクレームが出るほどだ。

 夏休みも終盤、宿題に追われて迷宮探索に行く生徒は少なかった。今日は翡翠とリンダだけだ。朝の十時から夕方五時までのアタックである。


「他がいないからゆっくり潜れるな」

「時間が来たらどうなるの?」

「転移陣で弾きだされる」


 強制送還である。ただしその場合はアタック失敗と見做されて得点にはならないと翡翠は言った。家に帰るまでが迷宮探索だ。


「まるっきりアトラクションだなー。楽しみ」


 リンダは箒を持ってきている。森には何度も行ったが迷宮ははじめてだ。しかも行ったことのある翡翠でさえ中がどういう仕様になっているのかわからないという。安全対策万全の冒険アトラクションだった。


 翡翠とリンダが学生証を石板にかざして承認されると、観音開きの扉が軋んだ音を立てながら開いていった。


「ずいぶん暗いな」

「こういう時はゴースト系が出やすい。はぐれないようにな」


 シーゲンディで明かりをつけると、外観からはまったく予想ができない石造りの古城のような内装が見えた。

 窓があり、赤い絨毯の敷かれた廊下から先があきらかに物理法則を無視した広さだった。空間がおかしなことになっている。カビ臭い匂いと石の感触まで本物だった。


「すごいな。こんなのが学校にあるのがもうすごい。これ作ったやつ頭おかしいよ」

「失礼なことを言うな。これは魔法の神髄が詰まってるんだ」

「あ、解析してるんだ?」

「なかなか解けないけどな」


 翡翠が目を鋭くした。視線の先、暗闇から白い靄のようなものが現れ、しだいに人の形になっていく。


「ゴーストだ」


 ゴーストは清めの炎で焼くのが基本である。翡翠が魔法を放とうとする横でリュックを漁っていたリンダが、ゴーストに向かって白い粉を投げつけた。


「悪霊退散!!」

『オパァ!?』


 奇妙な悲鳴をあげたゴーストは目を覆って転がり回り、消えた。


「リンダ、なにそれ?」

「塩!」


 出発前、やたらリュックになにか詰めていたと思ったが、弁当だけではなかったらしい。


「塩って……」

「ゴーストってお化けだろ? お化けには塩って相場が決まってる」

「どこの相場だよ!?」


 翡翠は危機感を抱いた。リンダにかっこいいところを見せようと思っていたのに、このままでは活躍することなく終了してしまう。


「クリーネさんちから大量に貰ったから大量に持ってきた。翡翠も使う?」

「いや、いい……」


 せっかく出てきたのに侵入者を脅かすこともなく塩で消滅させられたゴーストよ、安らかに眠ってくれ。幻とわかっていても冥福を祈らずにはいられなかった。


「ま、まあ、ゴーストは迷宮序盤の小手調べでさほど害はない。ポルターガイストや罠なんかには気をつけて」


 翡翠が薀蓄を語る間にリンダは勝手にドアを開けて部屋に入っていた。


「気をつけろっつってんだろ!?」

「あ、翡翠。この部屋どう思う?」


 その部屋の主はおそらく女性だったのだろう。緑地にピンクの小花の壁紙に、猫足の家具が揃っている。チェストと鏡台、そして天蓋付きのベッド。カーテンは閉められており誰か眠っているのかは見えなかった。

 チェストの上には枯れた花が花瓶に飾られ、その隣に片目と片足のないビスクドール。オルゴールらしき小箱があった。ソファの上には編みかけの編み物が無造作に落ちている。

 そして一際異彩を放つのが女性の肖像画だった。顔の部分が黒く塗りつぶされている。


「あからさまだよね。本命は肖像画に見せかけて人形、と思いきややっぱり肖像画でしたーってパターンだと思う」

「まだなにもされていないのにそういう推理はやめてやれ」

「いやコレ部屋に入ったらドアが勝手に閉まって本命倒さないと出られないやつ。だから翡翠は入ってくんなよ」

「えっ?」


 バタン。

 リンダの忠告は一歩遅かった。翡翠が部屋を覗き込んだ途端に体を押し込むようにしてドアが閉められた。

 当然ながら、ドアノブを回しても開かない。

 すると予想通り、オルゴールの蓋が開いて調子の外れた音を奏で、人形が飛びかかり、家具ががたがたと揺れた。


「はっ、入ってくんなって言ったろ!」

「そっちこそ人の言うことを聞け!」


 リンダが怒鳴れば負けじと翡翠も怒鳴り返した。

 パニックルームの狙いはこれである。疑心暗鬼から同士争いを誘発して全滅させる。

 これが幻覚であるとわかっても、怖いものは怖いのだ。


「うわあぁぁぁっ」

「リンダ、うるさい!!」


 飛んできた人形を咄嗟に箒で叩き落としても、再びむくりと起き上がり、ずりずりと床を這いずってくる。首がぐるんと回転して一つしかないガラスの目玉がリンダを睨んだ。人の形をしたものの首と背中が逆、というだけで気味悪さ倍増だ。


「いやああっ、キモッ! コワッ」

「リンダ落ち着け!」

「ムリムリムリ!!」


 リンダはタッジーの怪談で叫びまくるほどホラー耐性が低いのだ。がむしゃらに箒を振り回しているせいで翡翠も近づけない。クソッと悪態を吐いて距離をとると意識を集中させた。幻ならば目を閉じてしまえば害はない。

 リンダが言っていたように、ポルターガイストを起こしている本命がいるはずだ。魔力を辿っていけば突き止められる。


「悪霊退散!」


 リンダがなにやら叫んでいるが無視だ、無視。


「エロイムエッサイム!」


 集中して魔力を辿っていく。まずは肖像画だが、細い糸のようなものが絡みついているようだ。リンダがうるさい。


「臨兵闘者皆陣列在前!」


 リンダがうるさい。


「リンダ! うるさい!!」

「そっちこそ寝てんじゃねえよ!!」


 元ヤンのとった杵柄。なんかそれっぽい呪文とか、漢字が並んでるのは大好物である。夜露死苦。

 翡翠が目を開けるとリンダはネグリジェ姿の骨と格闘していた。なるほど、これは叫びたくなる。背中にくっついた金髪の長さからして女なのだろう。あの人形のモデルかもしれない。


「骨のくせに力強ぇし! おいコイツ本当に幻覚なんだろうな!?」

「幻覚だよ」


 骨なのに動く魔物といえばスケルトンだが、骨から魔力は感じなかった。あれはただの操り人形だ。となると。


「上っ!」


 天井の隅に、予想通り蜘蛛がいた。かなりの大きさだ。

 翡翠が魔法の火を放つと、悲鳴をあげて燃え上がった。


 ふぅ、と息を吐く。が、ポルターガイストはさらに激しくなった。リンダを襲っていたスケルトンの頭蓋骨が大きく口を開けて翡翠に向かって飛んできた。


「なに!?」

「いてっ! むぐぅ!?」


 リンダがいきなり倒れ、くぐもった声をあげた。慌てて見るとあの人形がとうとうリンダに辿り着き、顔に覆いかぶさって呼吸を塞いでいる。


「リンダ! クソ!」


 息が苦しくなったのか、リンダが結界で人形と骨の体を弾き飛ばした。


「ゲホッ。お年寄り相手に魔法使うのもどうかと思ったけど、やべえぞコイツ」

「お年寄りにもほどがあるだろ!? 魔物相手にレディファーストはしなくていい」


 骨である。お年寄りなどと言っている場合ではない。

 翡翠とリンダは背中合わせになり、魔物に対峙した。


 スケルトンの頭部が元に戻り、人形を腕に抱いている。カタカタカタッと歯を鳴らして威嚇してきた。


「どうする? いっそ部屋ごと燃やしちゃう?」

「失敗したら煙に撒かれる。本命を探そう」

「そんなん決まってるじゃん」


 リンダが箒で肖像画を指した。


「一見無害そうなのが本命」


 言って、リンダが魔法を放った。炎ではなく綺麗になれ(グリコナー)だ。黒く塗りつぶされていた絵の具が取れ、醜く顔を歪ませた女が現れる。爛々と光る瞳がこの部屋の魔力の源だった。


「さっきの蜘蛛は使い魔か? いや、コイツに侵食されたんだな。魔力で卵が孵ったならこの女にとって子供みたいなものか……」


 先に仕掛けてきたのはそっちだが、子供を殺されて怒らない女はいない。激怒の魔力で部屋全体が揺れていた。


「どうするリンダ? 塩は効きそうにないぞ」


 立っていられないほどの揺れなら空中に浮けばいい。翡翠は不承不承リンダの後ろに乗った。


「相手は肖像画。となれば、やることは一つだな!」


 そう、芸術であろうと教科書であろうとリンダには関係ない。そこにあるのが運の尽き。

 落書きである。


 リンダは一応念の為にリュックに入れておいたペンを取り出すと、不穏な気配を察知して天井に張り付いた肖像画に向かった。普通の生徒なら手の届かない天井に逃げられたらまさにお手上げだが、リンダは飛べる。心なしか冷や汗を流している女の肖像画にペン先を向けた。ちなみにこのペン、油性である。


「さぁ~て、と。覚悟はいいかな?」


 ガタガタと揺れる額縁をしっかり抑えつけ、リンダが笑った。


「数々の偉人の肖像画を見る影もなくしてやった腕前だ、心配すんな!」


 不安しかない。

 人形、スケルトン、ポルターガイストの攻撃を結界で防ぎつつ、翡翠はさっきのゴーストよりも同情した。リンダは喜々として暴れる肖像画の上から油性ペンで落書きをしていった。


 きゃああ、と悲鳴があがる。あの肖像画のものだろう。ポルターガイストであちこちから物が飛び音が鳴り、スケルトンと人形が必死で暴れているが届かなくては意味がない。翡翠の結界で守られている上に迂闊にリンダに当たれば肖像画の落書き線が一本増えるだけだ。


「よし。美人になったじゃん?」


 やがてゴシックホラーの見本のようだった肖像画が見事なラテンになった頃、ようやく満足したリンダがペンを置いた。ずいぶん前衛的だ。

 気がつけばすっかりポルターガイストは収まり、さっさと出ていけとばかりにドアが開いて揺れている。ほらほら、ここ開いてますよ、と人形がアピールしていた。


「んー、もうちょっと口元色っぽくしたほうが良いかな? どう思う?」

「いや、もう充分だろう」


 リンダがやさしくするべきお年寄り(推定)が部屋の片隅でしくしく泣いている。おそらくあれは元の美人(推定)に戻すのが正しい除霊だったのだろう。ちょっと気の毒になってきた。

 部屋から出ると、ちょうどセーフティゾーンだった。青く光る魔法陣は安全地帯の証だ。


「リンダ、少し休もう」

「そうだね。喉が渇いた」


 あれだけ叫べば喉が渇くだろう。リンダは忘れたようにリュックを下ろすと上機嫌で水筒とコップを取り出した。他にも弁当、おやつ、ハンカチちり紙、ペンとノートも入っている。とりあえず身近にあるものを全部突っ込んできたようだ。


「やたら入ってるな」

「こんなこともあろうかと! って時のために色々持ってきた」

「どんな時だよ」


 ピンチの時である。言ってから気づいた翡翠は渋い顔をした。こんな、一年生向けの迷宮でピンチに陥るのは無能のすることだ。


「リンダ、改めて言うが勝手な行動はしないように。ソロなら自己責任だがパーティだと一人の身勝手が全体を危うくする。なにか発見したら必ず報告! いいな?」

「わかってる。……ゴメン。はじめての迷宮だからちょっとはしゃぎすぎた。悪かったよ」


 リンダは素直に反省した。ゴーストを塩で撃退できたことで浮かれてしまったのだ。


 前世でも、こんなことがあった。主に避難訓練だ。わざとギリギリまで戻って先生を困らせたり、脱出シュートを使いたいと割り込んで迷惑をかけた。

そして大人になり、社員を預かる立場になってようやくあの時の先生の苦労を思い知った。自分と同じように、社会に馴染めない、いわゆる不良を雇い入れ、彼らに常識を叩きこむのがいかに大変か身に沁みたのだ。自分もそうだったからわかる。ああいう人間には頭で理解させるのではなく、心にわからせるしかないのだ。報告・連絡・相談をきちんとしているだけで防げる失敗もあるのに、無駄に頑固な『俺流』があるせいでいらぬ苦労をしている。尖っているのはかっこいいが、時には丸くなることも必要なのだ。


「わかればいい」


 急に物わかりの良くなったリンダに翡翠は怪しんだが、さっきのポルターガイストで懲りたのだろう。ひどいパニックだった。


「で、どうする? このお化け屋敷、どう攻略する?」

「こういうのはたいてい法則がある」


 翡翠は考えながら言った。

 手始めにゴースト。次にポルターガイストとスケルトン。アンデッド系でまとめられている。


「ボスはたいてい一番奥の部屋か、仕掛けに隠されていることもある」

「ボスの予想は?」


 リンダは無造作にクッキーを口に放り込んだ。


「スケルトンが出ちゃったからな……。アンデッド系でいけばグールかミイラだけど、一年生相手に出すか? けっこう上位の魔物だぞ」

「相手が一年生のジェダイト・リリーだとわかってる場合は?」


 はっ、と翡翠が息を飲んだ。

 ジェダイト・リリー。つまりは東覇国の皇子の実力を見定めようとしている場合だ。


「……倒せなくはないけどぎりぎりのところを突いてくるか? ならば東由来のやつの可能性があるな。こちらの実力を測るならキョンシーか牛頭馬頭、……ミサキは危険すぎるよな」

「弱点がわかってて、ある程度いけそうなやつだよな。怪我しないとはいえ魔法使うし。東洋ホラーって見た目綺麗だけど激やばっての多くない?」

「一番めんどくさくて精神的にえぐいやつじゃん! もー! リンダ、なんで悪いほうに考えるの!?」


 そのほうが面白いから。と言えば怒るのが目に見えている。


「私がついてるだろ」


 リンダは当然のように言った。


「このチームのリーダーはお前だ。後ろは任せろ、なにがあっても守ってやる」

「な……」


 リンダはにいっと口角を上げて笑った。


「舎弟が戦うってんなら存分にやらせてやるのが兄貴の役目だ」


 翡翠は呆然と感動に浸っていたが、そもそもたかが学校の迷宮である。それより気になることを言われた。


「ちょっと待て。舎弟って誰のことだ。まさか俺様?」

「そうだよ?」

「ふざけんな! なに勝手に舎弟にしてんだよ、そっちが舎弟だろ!?」

「はっはー。ケツ乗せられてベソかいてた小僧が言いよるわ」

「なっ、だっ、ベソなんてかいてないぞ!」

「ふーん? へーえ? そう?」

「ぐぬぅ……っ。リーダーはお前だって言ったのそっちだろ!」

「今日だけな? 登録したのはお前なんだからリーダーだろ? よっ、責任者!」

「だったら言うことを聞けよ!? ほらもう行くぞ!」

「へーい」


 リンダは素直に立ち上がり、出したものをリュックにぽいぽいと放り込んでいった。

 怒って噛みついたものの翡翠も本気ではない。すぐにいつもの調子を取り戻した。


「次の部屋は先制する。リンダがドアを開けると同時にグリコナーかけるから、続けてアーシャグリークやって」

「了解」


 リンダがドアノブに手をかけ、翡翠が壁に背中をつけて身構える。目を合せてうなずいてから一、二、三、で開けた。


綺麗になれ(グリコナー)!」

護りたまえ(アーシャグリーク)


 二段構えの先制に、いっせいに襲いかかってきていた女の首がぼとぼとと落ちた。


「……飛頭蛮(ひとうばん)か。本当に東大陸のやつが来たな」


 感心したように翡翠が言った。そして、部屋にずらりと並んだ首の主、頭部のない人形を見てうんざりしたため息を漏らした。足元に転がった人形の頭を拾い上げる。

 襲いかかって来た時は人間大のサイズだったが、魔力が抜けて今は人形に戻っていた。


「ここからが大変なんだ。飛頭蛮は体に戻してやるのがセオリーなんだが、この量とはね」

「めちゃくちゃめんどい神経衰弱……」


 リンダもうんざりしながら四方を埋め尽くす人形を見回した。


「魔法で戻す?」

「元の状態は知らないが、数が数だ。そのほうが早いか」

「この感じだとラスボスに続くドアはこの部屋にあるっぽいな。この人形のどれかがスイッチになってるんだろう」


 めんどくせー、とぼやきながらリンダが首を浮かせ、体に近づけた。きゅっぽ、と吸い込まれるようにくっついていく。翡翠はリンダの魔法にも、言葉にも驚いた。


「なんで仕掛けがあると思ったんだ?」

「コレ、この首戻すのに時間かかるだろ? それとボス戦にかかる時間を考えるとけっこうギリギリになりそうだ。あとたぶん途中で嫌気がさして中断することも計算に入れると次でラスト」

「……なるほど」


 ほとんど勘だが、そうかもしれない。この部屋で昼食を摂る気にはなれないが、たしかに今からうんざりしているのだ。途中で投げ出したくなる。

 そうこうしている間にリンダはもう一体の首を戻していた。翡翠も魔法で探しているのになかなか見つからない。苛々してきた。


「リンダ、どうやって見つけてるんだ?」

「えーっと、元に戻れ(エインワーズ)を首にかけて、魔力が引っ張られるのを感じ取ってる? 首と胴は一つになりたがるから、当たりだと反応がある」

「それ……。いや、わかったやってみる」


 リンダは感覚でやっているが、それは非常に繊細な魔力操作だ。再生エインワーズは生活魔法の基本の一つであり、壊れた物を直すのに便利な魔法である。ただし、元の形を知っていることが大前提だった。だいたいの形、箱なら四角いとか、壺なら細長いとかで良い。人形であれば人の形を知っていれば直せる。


 しかしこれだけの数となると正解を見つけるのは難しい。なまじ頭部があるものだから、別の体にくっつけても直ったことにはならないのだ。


 リンダのやっていることはエインワーズと『探査ラーギ』の同時展開だ。一度に二つの魔法というより組み合わせて使っているのだろう。魔法は想像力とはいえたいしたセンスだ。


「…………」


 翡翠も意識してやってみるが、ものすごく魔力を吸い取られる。手の中にある人形の首はそんな翡翠を嘲笑うかのように微笑んでいた。片やリンダは鼻歌まじりだ。


「……駄目だ。リンダ、なにかコツとかある?」

「コツ?」


 リンダは首を捻った。人形の髪をやさしい手つきで撫でている。


「コツって言っても……。可愛いね、とか早く体に戻ろうね、とかそんなん?」

「リンダ、お前ってやつは人形にもレディファーストなのか」

「ちげーよ、持ち主。お人形ってのは女の子の相棒だろ? 返してやんなきゃ可哀想じゃん」

「可哀想?」


 いかにも日本人らしい感性だ。リンダは万物に神宿るという精神をごく自然に持っている。人形といえば雛人形であり、女の子の無病息災を願うものだった。


 結局人形はリンダが元に戻した。翡翠も何度か試したが魔力が飛んで行くだけで、持っていた首の最後の一体を直して終わった。


「大丈夫? お昼にしようか?」

「うん……」


 翡翠は徒労と魔力の消耗に落ち込んでいる。リンダはというとあれだけ魔法を使ったのにてきぱきとお昼の用意をしていた。ノヴァやプルートと森でキャンプをしたこともあるし、元々得意なのだ。


 魔法陣で火が燃え広がらないように固定し、火の用意をする。五徳を置いて火を点け鍋を乗せた。中身はシチューだ。隠し味に味噌を使っている。


「はい、どうぞ」

「ありがとう」


 昼食はシチューとサンドイッチをメインに唐揚げと野菜のソテー。ポテトフライとタコさんウインナーに卵焼き、そしてスパゲッティが入っていた。もちろんナポリタンだ。


「なんでパスタ? 伸びるだろ」

「弁当のパスタって謎だよな。でも入ってるイメージ」


 リンダのリクエストに料理人も不思議そうにしていたが、そういうものという主張に深く聞いてこなかった。

 ちなみにこの弁当箱もリンダが作らせたものである。いわゆるドカベンだ。箸がないのでフォークになったのが残念だ。


「魔力回復した?」

「そこそこ。リンダこそ、疲れてないか?」

「ぜんぜん。しっかし、こんだけ人形あると壮観だな」


 翡翠たちは人形の部屋に留まっていた。ボスへの隠し扉があるかもしれない以上、迂闊に動かないほうがいいと判断したのだ。


「なにかヒントがあるような気がするんだよな。こんな時ローゼがいてくれたらな」

「ローゼなら喜々として謎解きするもんね」


 ずらっと並んだ人形は髪の色も瞳の色もドレスもばらばらだった。年代別でもなさそうである。


「人形……人形ねぇ。この中に一体だけ本物の髪を使ってる人形があります、とか?」

「やめろ」


 リンダが人形の怪あるあるを言えば、翡翠はぐったりと横たわった。そのままごろりと仰向けになる。

 天井が見えた。


「……」


 球体を四つ組み合わせたシャンデリアに蜘蛛の巣が張っている。蜘蛛はすでにおらず、埃が積もっていた。よくできている。今こうしている部屋も、人形たちも、すべては幻影、幻覚なのだ。手を伸ばして指先に魔力を乗せ、解析を試みる。迷宮にかけられた魔法そのものを解いてしまえば話は早い。


「解析できそう?」


 リンダもごろんと寝転んできた。床は土埃や砂で汚れているが気にならないらしい。


「すっごい難しい魔法が何重にも使われてるのはわかる。一枚一枚ひっぺがして読んでみたい……。時間が足りないけど」

「ふーん」


 リンダは魔法を感覚で使う。本能みたいなものだ。これはできる、と思ったことをやる。

 翡翠は理論派だった。なにがどうなってこうなるのかを納得して使っている。だからリンダの真似はできなかった。

 ローゼスタは本人は理論派というだろうが、実は感覚派だ。わからないことはとにかく勉強して、なんとなくわかったつもりで魔法を使う。おいしいとこどりの天才肌だった。


「なあ、思ったんだけど」

「なんだ?」


 リンダが翡翠と同じように手を伸ばして指先に魔力を乗せる。が、それは魔法にもならずに消えていった。


「ここって一種の異世界じゃないか? こっちの能力とか素性とかばれてて同じ力を返してくるって、鏡みたいだ。七不思議にそんなのあったよね」

「!!」


 これだからリンダは怖い。ただの思い付きで本質を突いてくる。


「……なるほど、これも護りの一つか」

「たぶん。万が一のための避難所なんだと思う。もし、学校外から侵入者が敵意を持って入ってきたら、確実に返り討ちにするための」

「異世界の鏡。自分のいない世界を見せられるという話だったが……」

「自分『しか』いない世界だな。えげつないわ、これ作ったやつ」


 避難所だからこそ生徒には解放している。親しみを持たせるのが目的だろう。ここなら絶対に安心だ、という意識があればそれは祈りとなり、力となる。


「これは後宮にあれば無敵だな……」


 翡翠が言った。最強ではない、無敵だ。


「それを踏まえて、ラストクエスチョンです」


 リンダが大真面目に言った。リンダはいつでも真剣だ。ひたすら空気を読まないだけで。


「わかってる。ラスボスだろ?」


 翡翠とリンダの共通点といえば母親だ。翡翠の母は翡翠を守るために体を張り、リンダの母は子供を置いて死んでしまった。母への強烈な思慕がある。

 リンダは少し悲しそうな顔をした。親孝行の記憶さえない、薄情な娘だ。


「黄泉を渡る力まではないはずだ。姑獲鳥か、そのあたりだろう」


 翡翠はあえてある可能性について言葉にしなかった。迷宮が人の心を読むのかはわからないが、言わないほうが良い気がしたのだ。


「リンダ、行けるか?」

「うん。まずはドアを探さないとね」


 ラスボスがなんであれ、辿りつけなくては話にならない。二人はあらためて人形を見回してみた。


「さっき首をくっつけた時、不自然な気配はしなかった」

「そういえば、ラーギになにも引っかからなかったな」


 魔法がかけてあれば、よほど高度な隠し方でもない限りわかるものである。

 ということは、人形そのものではないのだ。


「人形どかしてみるか。後ろにドアがあるのかも」

「盲点を突くか。ありそうだな」


 二人は魔法で人形を浮かせてみた。と、天井からカチッと音がした。


「え?」


 と、思う間もなく床が開いた。


「そっちかよ!」

「カタナ!!」


 落下しながらリンダが箒を呼んだ。右手に箒を持ったリンダは跨るより先に翡翠の手を摑んだ。落下速度が落ちる。


「このまま降りよう」

「ああ」


 天井を見上げると、人形たちがこちらを覗き込んでいた。翡翠が手を振るといっせいに体を震わせた。


 ふわりと降りた先に姑獲鳥はいなかった。

 代わりに鏡があった。古い円形の銅鏡だ。


「鏡……」


 やはり、と翡翠は警戒しながら鏡面を覗き込んでみた。錆の浮いた鏡面は緑青がこびりついている。やがてゆっくりと、なにかが映りはじめた。


「母上……」


 翡翠が呟いた。鏡の中の母は泣きながら翡翠を抱きしめている。強烈な嫉妬と羨望に呑まれた翡翠は、隣でリンダの表情が変わったことに気づかなかった。


 鏡の中に吸い込まれる。咄嗟に目を閉じた翡翠はゆっくりと目を開けた。


『いや、すまんのう試すような真似をして。これも決まりじゃ、許してくれ』


 まったく悪びれない声が軽い詫びをいれてきた。年若い女の声だった。


『わしの正体はわかっておったじゃろ? 東覇国の皇子よ』

「雲外鏡ですね」


 母は翡翠を見つめ、何事かを話している。翡翠はいくぶん男らしい顔つきになり、母に向かって自信に満ちた笑みで応じている。


『さよう、さよう。正体を見破った者の前にしかわしは姿を現せんのじゃ。もどかしいが、誰も彼も相手にするわけにもいかん』


 翡翠が翡翠を見た。挑発するように笑っている。


「母上から離れろ!!」


 雲外鏡は見た者の願望を映し出し、虜にし、鏡の世界に引きずり込む。術に嵌らないためにはこれが嘘だと信じていなければならない。少しでも心を奪われたら、すでに鏡の中だ。

 上を見ると円形の穴からリンダの顔が見えた。彼女にはなにが見えているのか、泣いていた。


『このフレースヴェルクの成り立ちは知っておるじゃろう? 戦災孤児の収容所だったのよ。当時はひどい有り様でのう。よくもまあこんな狭い島国でようも戦争を続けたもんじゃ。憐れなのはいつだってか弱き女子供よ。特に子供らは母を恋しがってのう。見かねてわしもつい映してやったのよ』


 いつの間にか翡翠は歩いていた。足元はまるで雲のように頼りなく、見渡す限りの雲海でどこに向かっているかもわからない。声は続けて語りだした。


『甘い願望は糧となり、辛い過去はバネになる。じゃがそのうちに願望ばかりを映すようになっていったわ。人の子は弱いのう。幸福な夢から覚めようとせなんだ』

「それで迷宮になったのですか」


 おそらく当時の校長や教師、協力したモノたちの苦肉の策だったのだろう。せっかく生き延びたのに、辛い現実を直視できずに夢の中に閉じこもった子供たち。

 人は欲望に弱いのだ。そんなものを見せられたら目覚めたくなくなる。


『そうじゃ。己に打ち克つこともできずに魔法を操れると思うでない。魔法とは突き詰めれば欲じゃ。祈りだの想像力だのと綺麗事で飾ってみても、しょせんは欲望そのものよ』


 声には残念そうな響きがあった。


「でも、あなたは人を見捨てなかった」

『あたりまえじゃ。わしは道具じゃぞ。人に使われてこそじゃ。それにのう、なんだかんだいっても人の子は愛しい。わしは、人がかわゆくてならんのよ』


 やがて翡翠の足が止まった。


「これは……」


 そこには母がいた。正確には、鏡に映った母だ。


『わしは鏡じゃでな。鏡と鏡を繋ぐなど造作もないことよ』


 一時の逢瀬、楽しんでおいで。そう言って、声は消えた。


 鏡の中の黒曜妃は翡翠の記憶にあった、毒にあてられて寝込んだ様子はなく、顔色は悪いものの表情も態度もしっかりしていた。侍女頭の紗周しゃしゅうとなにやら真剣に話しこんでいる。紗周は斎薇の妻だ、警備体制のことかもしれない。


「母上」


 そっと手を当てるとひんやりした感触が伝わってきた。黒曜宮の妃の私室にある鏡だ。


「母上」


 もう一度、今度は大きく呼びかけた。ふいに黒曜妃が顔をあげ、鏡に映った翡翠を見つけて驚愕に目を見開いた。金色の瞳がたちまち涙ぐむ。

 しかしすぐに罠かもしれないと思い立ったのだろう、厳しい目になる。


「母上、私です。雲外鏡が連れてきてくれたのです」


 声が聞こえるかと思ったが、黒曜妃は「雲外鏡?」と呟いた。もしかしたら母は迷宮の正体を知らないのかもしれない。さらに言い募ろうとした時、黒曜妃がハッと息を飲んで走り寄ってきた。


「翡翠殿、まことに翡翠殿か?」

「はい!」


 翡翠はフレースヴェルクの制服にローブ姿だ。黒曜妃にとって懐かしい母校の制服。テュール寮の紋が刻まれた留め具もなにもかも、若い頃の黒曜妃とそっくりだった。


「翡翠殿。ああ、制服のよく似合うこと。もっとよくお顔を見せておくれ」

「母上様」


 翡翠の金色の瞳から涙が溢れた。黒曜妃がもどかしげに翡翠を撫でようとし、鏡に阻まれる。


「母上、お体の具合はどうなのです? またお倒れになったのではありませんか? 私のことならご心配なさらず、ハーツビートの皆はとても良くしてくれます」

「そなたさえご無事であれば母は無敵です」


 黒曜妃は翡翠によく似た瞳を潤ませたが、涙で我が子の顔が見えないのを拒んだのか瞬きで雫を飛ばした。


「ご立派になられた。たった半年で見違えるようです。斎薇からの報告を聞き、頼もしく思っておりましたが、聞くと見るとは大違いですね」

「学校では友を得ました。リンダもそうですが、ローゼスタは女ながらも天才です。彼女に負けぬよう私も勉学に励んでいます。きっと帰った暁には、母上をお守りできるように」

「リリャナの娘ね。活躍は聞いています。翡翠殿、真の友は一生の宝です。大切にするのですよ」

「はい、もちろんです」


 母子は時間を惜しむように言葉を交わした。


「そなたが帰ってくる時にはきちんとお迎えできるように主上も骨を折ってくれています。母は大丈夫です。翡翠殿、存分に学生生活を楽しみなさい。やりたいことをおやりなさい。母は、いつでも、そなたを応援していますよ」

「母上……」


 翡翠はようやく涙を拭い、しっかりと母を見つめた。黒曜妃は皇帝の妃にふさわしい姿で微笑んでいる。気丈な人だ、涙を見せまいとしていた。

 ふいに、足元が揺らいだ。どうやら時間のようだ。


「母上、お元気で!」

「そなたも。体に気をつけるのですよ。リンダ殿によしなに」


 翡翠は一礼すると鏡に背中を向けた。ここでためらっては鏡に閉じ込められる。それにリンダだ。あの時リンダは泣いていた。

 それでも何度も振り返り、母に手を振った。黒曜妃はその度に手を振り返し、ついに見えなくなるまで鏡の前を動かなかった。


 やがて翡翠が鏡の向こうに消えると、そっと口づけを落とした。



 ◇



 翡翠が元の部屋に戻るとリンダが呆然と座り込んでいた。その手には雲外鏡がある。


「リンダ!? リンダどうした!? なにを見せられた!?」


 慌てて肩を揺さぶるとリンダは顔を上げ、翡翠を見てどばっと泣きだした。


「ちょ……っ! リンダ!? こら、雲外鏡! リンダになに見せた!?」


 リンダから鏡を奪って叫べば「ひどい言いがかりじゃ! わしはなにも見せとらん。こやつが勝手に見ただけじゃ!」と言い訳のように返事が来た。慌てているのは翡翠が思いっきり魔力を込めて握りしめているからだろう。気のせいかミシミシと音がしていた。


翡翠びずい~、よっ、よめっ」

「うわ!? リンダやめろ、鼻水をつけるな!!」


 リンダが翡翠に抱きついた。肩に顔を埋め、制服が涙と鼻水でべっとり濡れる。


「嫁ちゃっ、むすっ、めっ、うううううんでっ」

「あーハイハイ。良かったなー?」


 なにがなにやらさっぱりだが、リンダが泣き止む気配はない。引き剥がすのを諦めた翡翠はぽんぽんとリンダの背中を叩いた。


 リンダが見たのは前世の嫁だった。忘れもしない長女の出産。ずっと手を握って励まして、生まれた娘を見た途端腰が抜けるほど泣いた。後で気づいたが握られた手は骨にヒビが入り、痣がくっきり残っていた。その痛みも痣もすべてが勲章だった。

 あの強烈な、愛と呼ぶしかない感動プレイバック。リンダは嫁への愛を再確認した。


 雲外鏡は人の過去や願望を映し出す。しかし雲外鏡でもリンダの見たものは見えなかった。いかに魔鏡といえども異世界、それも過去には介入できなかった。


「ほらリンダ、早くしないと時間切れで強制退去だ」


 翡翠は泣きじゃくるリンダの手を引いて出口を目指した。雲外鏡は倒せなかったがあれは倒すものではないのでこれで良いのだろう。その証拠に出口のドアが開いている。

 長かった迷宮探索は終わった。たった一日のことなのにやたら長く感じた。


 泣きながら出てきたリンダと泣き腫らした目をした翡翠は冒険者クラブの伝説に一ページ加え、翡翠とリンダの連名で提出した迷宮レポートは優を得た。



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