最終帖:「深緋と溢れる色彩』
深緋
色彩: 茜と紫で染められた、深く重厚な赤色。
象徴: 再生、覚悟、永遠の情熱。
「絹色物語」最後の物語が、幕を開けます。
冬の夜気が工房の隙間から忍び込み、炉の火が時折ぱちりと爆ぜる音だけが響いています。
藍さんは一人、大鍋の前に座っていました。手元には、旅の始まりから持ち歩いていた茜の根と紫根。これらを煮詰め、自分自身の思いの色「深緋」を染め上げ、明日にはまた一人で旅に出る──それが、彼女が描いていた本来の「終わり」の形でした。
しかし、いざ染料を調合しようとする時、藍さんの手は止まってしまいました。
「……何かが、足りない」
かつての藍さんなら、迷わず自分の「意志」を布に染め付けたでしょう。しかし今、彼女の脳裏をよぎるのは、自分一人の思いではなく、この数ヶ月、工房に彩りを与えてくれた二人の弟子の姿でした。
直感に溢れ、時として暴走する八重の「熱」。
理論を尊び、時に自分を縛り付けてしまう和花の「静寂」。
その時、背後で戸がそっと開き、温かな茶を持った二人が入ってきました。
「先生、まだ起きてらしたんですか? その色……なんだか、すごく寂しそうな赤に見えます」
八重が、その鋭い感性で見抜きました。
「先生、もし宜しければ、私たちの考えた調合を試させていただけませんか。先生がおっしゃった『深緋』には、まだ重なりが足りない気がするのです」
和花が、慎重に、けれど確かな意志を込めて言いました。
藍さんは、思わず手を止め、二人を見つめました。そして、ふっと肩の力を抜いて微笑みました。
「そうね。私はまだ、自分一人で完結しようとしていたのかもしれないわ」
藍さんは二人を鍋の周りに呼び寄せました。
「八重、和花。私がこれまで旅をして、あなたたちと出会って気づいたことがあるの」
藍さんは、棚からこれまで出会った人々の「色の記憶」を取り出しました。
「和の色というのはね、他の色を否定したり、上から塗りつぶしたりすることじゃないの。どんなに強い色も、どんなに淡い色も、互いを受け入れ、そこに在ることを認め合う……そうして生まれる『調和』こそが、和の色の本質なのだと思うの」
二人は、藍さんの言葉を噛みしめるように頷きました。
「私たちの仕事は、誰かを別の色に変えることじゃない。その人が本来持っている色にそっと寄り添い、その人自身が『ああ、私はこんなに綺麗な色をしていたんだ』と気づくための、ちょっとしたお手伝い。……言わば、ささやかな魔法なのよ」
藍さんは、自分の手を二人の手に重ねました。
「この魔法はね、一人でかけるより、誰かと想いを重ね合わせた方が、ずっと優しく、深く届く。だから私は、旅に出るのをやめるわ。あなたたちと一緒に、この場所で、誰かの心に寄り添う魔法を磨き続けたいの」
八重の目に涙が浮かび、和花がその手を強く握り返しました。
「はい……先生、私達もお手伝いしたいです!」
三人は、誰からともなく動き出しました。それは、儀式のように厳かでもあり、ダンスのように軽やかにも見える作業でした。
大鍋の中には、まず藍さんの「深緋」が核として据えられました。そこに八重が、弾けるような「照柿」の熱を注ぎ込み、和花が、すべてを落ち着かせる「栗皮色」の深みを加えました。
「もっと入れましょう! あの『山藍摺』の切なさも、『秋桜色』の優しさも……全部、ここに」
工房にあるすべての染料が、次々と桶の中へ溶け込んでいきました。
普通なら、これほど多くの色を混ぜれば、色は濁り、黒ずんでしまうはずです。しかし、三人が「互いを認め、生かし合う」という心でかき混ぜるたび、不思議なことが起きました。
桶の中の色は、濁るどころか、光を湛えて輝き始めたのです。
深い赤の中に、瑠璃紺の青が瞬き、金茶の黄金が揺れ、孔雀緑の静寂が潜んでいる。
それは、これまでこの物語を彩ってきたすべての人生が、一つの「和」となって共鳴している、奇跡のような瞬間でした。
「見て……すべての色が見えるのに、一つの『深緋』になっているわ」
三人が一斉に布を浸すと、布は見る見るうちに、命の脈動を打つような、神々しいまでの赤へと染まり上がりました。
翌朝。
港町の通りに面した工房の軒先には、三反の「深緋」の布が、朝日に照らされて誇り高く揺れていました。
それは、遠くから見れば一つの確かな意志の色。けれど、風になびくたび、見る者の心の機微に応じて、淡いピンクや深い青、温かな橙色があふれ出す、不思議な布でした。
店の前には、三人が新しく書いた小さな看板が掲げられました。
『あなたの心、染め直してみませんか』
看板を掲げ終えた藍さんの元に、町の人々が一人、また一人と集まってきます。
「藍さん、新しいお弟子さんかい?」
「いい色だねえ、なんだか元気が出るよ」
藍さんは、両隣に立つ二人の弟子の肩を抱き寄せました。
「ええ。これからは三人で、この町のみなさんの心に寄り添っていきます」
一人の女性が、迷いながら店に足を踏み入れました。
「あの……私、自分が何色なのか、分からなくなってしまって」
藍さんは優しく微笑み、八重と和花に目配せをしました。
「大丈夫ですよ。ゆっくりお話ししましょう。私たちは、あなたがすでに持っている『綺麗な色』を見つける、お手伝いをさせていただく事が仕事なのですから」
工房の奥からは、新しい染液を準備する水の音、薪がはぜる音、そして三人の笑い声が響き始めました。
否定せず、受け入れ、調和する──その「和の色」の魔法は、今この瞬間も、三人の手によって、世界中の誰かの心に、新しい希望の色彩を灯し続けています。
(絹色物語・完)




