表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
19/20

第二帖:「栗皮色の抱擁」


栗皮色くりかわいろは、黒に近いほど深く、落ち着いた赤褐色。それは、派手な輝きこそありませんが、大地にしっかりと根を下ろしたような安心感と、長い年月を経て辿り着いた「本質」を感じさせる色です。


 





 港町に冬の気配が忍び寄り、庭の栗の木が枯葉を落とし始めた頃、工房の空気はかつてないほど張り詰めていました。


「照柿」の熱を追い求めた秋が過ぎ、藍さんが二人に与えた次なる課題は、この季節を象徴する渋く重厚な「栗皮色くりかわいろ」を染めることでした。


「栗皮色」は、ただの茶色ではありません。それは、熟した実が地に落ち、やがて土へと還っていくプロセスを色にしたもの。派手さはありませんが、すべてを包み込み、次の命へと繋ぐための「忍耐」と「包容力」が必要な色です。


 しかし、性格の正反対な二人の修行は、衝突の時を迎えていました。


「八重さん! また目分量で染料を入れたでしょう? 水温もまだ安定していないのに!」


 工房に、和花の鋭い声が響きました。和花は机に広げた記録帳を指差し、眉間に皺を寄せています。彼女にとって、染色は緻密な計算の上に成り立つ「再現性の芸術」でした。


「うるさいなあ、和花ちゃんは。色なんて生き物なんだから、その時の『気分』で変わるのが当たり前じゃない。そんなに数字ばかり見てたら、布が息苦しそうだよ!」


 八重は、染料のついた手を振り回しながら言い返します。彼女にとって、染色は「一期一会の閃き」でした。


 二人の間には、染めムラだらけの布と、濁りきった染料の鍋が、所在無さげに残されていました。






 藍さんは、二人の言い争いを黙って見守っていました。そして、そっと立ち上がると、裏庭にある大きな栗の木の下へと二人を呼びました。


 足元には、役目を終えて茶色く乾いたイガと、艶やかな栗の皮が散らばっています。藍さんは、その中から一つ、深く渋い栗皮色の実を拾い上げました。


「二人とも、自分の正しさを証明しようと必死ね。でもね、染め物は誰かと戦うための武器ではないのよ?」


 藍さんは、二人に栗の鬼皮を剥かせ、それを煮出す準備をさせました。


「和花。あなたは、型に収まらない八重の情熱を『間違い』だと切り捨てた。八重。あなたは、和花が大切に守っている伝統の型を『窮屈な檻』だと笑った。でも、そのどちらが欠けても、この栗皮色は生まれないの」


 藍さんは、二人が失敗して投げ出した濁った染料の鍋に、新しく煎じた栗の皮の汁を注ぎ込みました。


「見ていなさい。失敗も、汚れも、対立も。すべてをこの鍋に入れて、時間をかけて煮詰めれば、それは最高の『土壌』になるの」


 鍋の中で、八重の奔放な赤と、和花の静謐な青みが混ざり合い、次第に深く、重厚な栗皮色へと変わっていきました。それは、互いの個性を消すことではなく、互いを受け入れることで生まれる、圧倒的な包容力の色でした。




「先生……」


 鍋の中に広がる深い色を見つめて、言葉を失った八重と和花。藍さんは、二人の手をそっと取りました。


「八重、あなたの閃きは『光』。和花、あなたの正確さは『器』。器がなければ光は漏れ、光がなければ器はただの空洞よ。今のあなたたちは、自分の色を主張することばかり考えているけれど、本当に大切なのは、相手の色をどう受け止め、どう活かすか。つまり、相手にとっての『土』になることなの」


 藍さんの言葉に、八重は初めて目を伏せ、和花は静かに頷きました。



 二人は気づきました。藍さんがいつも、自分たちのどんな失敗も否定せず、微笑んで見守ってくれていたこと。それが、この栗皮色の土壌のような、深い慈愛であったことに。


 そして、藍さん自身もまた、この瞬間、確かな充足感に包まれていました。


 かつて放浪の旅を始めた頃、藍さんは自分が「唯一無二の表現者」でありたいと願っていた事がありました。自分の色で世界を驚かせたい、と。


 けれど、旅先で色々な人達に接し、弟子という自分とは違う「魂」を受け入れることで、藍さんは自分自身が、かつての師匠のような、大きく温かな「栗皮色の土」へと変化していることを自覚したのです。




(私は、彼女たちが咲くための大地になればいい。それこそが、今の私の『完成の形』なのかもしれない)




 その夜、工房には静かな時間が流れていました。


 八重と和花は、隣り合って栗の皮を剥いていました。言葉は交わしませんでしたが、八重は和花の正確な手つきを盗み見、和花は八重が時折見せる楽しそうなリズムを否定しませんでした。


 藍さんは、二人の背中越しに、庭に広がる夜の景色を眺めていました。


 暗闇に包まれた庭は、すべてが栗皮色の静寂に沈んでいます。けれど、その沈黙の下では、来たるべき春に向けて、無数の命が力を蓄えている。


 藍さんは、自分の心の中に降り積もった、長い旅の記憶を思いました。それらすべてが、今、この栗皮色の土壌となって、若い二人を支えている。その事実に、藍さんは深い安らぎを覚え、同時に自分の役割が次の段階へ進もうとしていることを予感していました。


「和花、八重。明日は、その色に少しだけ『鉄』を加えてみましょう。もっと深く、もっと強い栗皮色になるかもね」


「はい、先生!」


 二人の声が重なりました。

 工房を包む空気は、もはや尖ったものではありませんでした。


 すべてを受け入れ、昇華させ、次へと繋ぐ。


 栗皮色の抱擁の中で、二つの蕾は静かに、けれど確実に、自分たちだけの「色」を形作り始めていました。





栗皮色くりかわいろ


特徴: 栗の実の皮のような、黒みがかった深い茶色。どっしりとした安定感と、渋みのある美しさが特徴です。


象徴: 謙虚、不変、再生の土壌、全ての終わりと始まり。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ