第一帖「藤紫の残り香」
新しい物語は、紅藤よりも少し青みが強く、高貴さと神秘性を湛えた「藤紫」から始まります。
藍さんが今回たどり着いたのは、古びた石畳が続き、幾筋もの水路が町を縫うように流れる、歴史の香りが残る城下町。
水路に沿って柳が揺れ、夕刻にはどこからか三味線の音が聞こえてくるような、しっとりとした空気が流れる町です。
藍さんは、古い蔵を改装した小さな店に、山藍摺の暖簾を掲げました。
ある雨上がりの夕暮れ時、一人の若い女性が飛び込むように店へやってきました。
彼女は地元の伝統芸能を継承する家に生まれた舞踊家でしたが、その表情は、今にも消えてしまいそうなほど頼りなげでした。
「あの……。私、舞台に立つのが怖くなってしまったんです。完璧に踊ろうとすればするほど、自分という形がバラバラに崩れていくようで」
彼女が手に持っていたのは、かつての名優であった祖母が愛用していたという、古い扇。その骨に微かに残っていた色が、高貴でいて、どこかこの世ならぬ妖艶さを秘めた藤紫でした。
「祖母はこの色を『自分の魂の色』だと言っていました。でも、私にはこの色が、あまりに遠くて、重たすぎるんです」
藍さんは、その扇を広げ、静かに扇ぎました。
ふわりと、何十年も前の舞台の白粉の匂いと、春の終わりの藤棚の香りが混ざり合って漂います。
「藤紫は、天と地をつなぐ色。気高くあろうとする意志と、移ろいゆく儚さが同居する色です。お祖母様は、完璧であろうとしたのではなく、その『揺らぎ』さえも慈しんで踊っていらしたのでしょう」
藍さんは、彼女のために、藤紫色の薄い絹の襟を染め上げました。それは、深い紫の中に、雨上がりの空のような澄んだ青みが差した、不思議な透明感を持つ色でした。
「これを着物に合わせてみてください。形を作るのではなく、この色に、あなたの心をそっと委ねるだけでいいのです」
彼女がその襟を首元に添えた瞬間、鏡の中に映る彼女の姿が、ふっと柔らかく滲みました。
「あ………」
頑なだった肩の力が抜け、指先がしなやかに、まるで風に揺れる藤の花のように動き始めます。
「私、踊るってこういうことだったんだと思い出しました。自分を消すのではなく、この色と一緒に、ただ流れていればよかったのですね」
彼女の瞳に、藤紫色の火が灯ります。それは、誰かの真似ではない、彼女自身の情熱の色でした。
彼女が店を出たあと、水路の向こう側に広がる空が、見事な藤紫色に暮れていました。
「この町には、古い記憶がまだたくさん眠っているようですね……。さて、次はどんな色が目を覚ますかしら」
藍さんは、新しい町の空気を深く吸い込み、微笑みました。
藤紫
特徴: 藤の花のような、少し青みを帯びたあざやかな紫色。平安時代から女性の最高の憧れの色とされました。
象徴: 高貴、感性、癒やし、神秘、伝統。




