エピローグ キスの値段は……
『君のやったことは社会的に許されない行為だ。しかし舞果の気持ちを尊重し、転校はさせない。経済的な支援はする』
のちに陣野さんが俺に言ったことを要約すればこういうことになる。細かいところは忘れた。もっと厳しめな言葉を言っていたような気はするが、そのわりに声がどこかほっとしたような雰囲気だったことのほうをよく覚えている。
ちらりと反抗心が首をもたげた。しかしせっかく向こうがその気なのに、余計なことを言ってこじらせる必要はない。しっかりと謝罪の言葉を伝えた。
一番大事なのは舞果が遠くへ行かないことで、それ以外は些末なことだ。
無駄になってしまった新幹線のチケット代は舞果を通じて送ってもらった。必要ないとのことだったが、無理を言って受けとってもらった。借りを作りたくなかった。
つぎの月曜日、しれっと登校してきた舞果を見て八宮さんはとても驚いていた。授業中も昼休みも事情を聞きたくてうずうずしている様子だったが、人付き合いの多い彼女はなかなか自由になれないでいた。
「ちょっと待って!」
放課後、並んで下校していた俺と舞果を八宮さんが追いかけてきた。
「なんでいるの。というか、堂々とふたりで帰ってるし……!」
舞果は俺に意味ありげな視線を送ってくる。
「直司に強引に……。ね?」
「妙なところで切るなっ。強引に新幹線から降ろした、ってだけだろ」
「それはそれでたいそう大胆だと思うけど」
「その節はすまん」
「素直で大変よろしい」
八宮さんはそんな俺たちのやりとりを、幸せそうな――なかば恍惚とした表情で見つめている。
「な、なにその顔」
「なにが?」
さきほどまでのだらしない顔が幻だったかのように凛とした表情になる。
「なんかへらへらしてたから……」
「へらへらなんてしてないよ。ただ、また仲のいいふたりが見れて嬉しかっただけ」
そのあとぼそっと「いろいろ参考にできるし」と付け足したのを俺は聞き逃さなかった。そういえばちょっと前にも参考がどうとか言っていた。八宮さんにはまだなにか俺たちの知らない秘密があるのかもしれない。
しかし、彼女が俺たちのために行動してくれていたのは事実だし、おそらく世界で唯一、俺たちのことを好意的に見てくれている人物なのはまちがいない。
「それで、再契約はしたの?」
「してないよ、ね?」
舞果は俺をちらっと見た。俺は頷く。
「スポンサーもできたし」
舞果は陣野さんのことを『お父さん』ではなく『スポンサー』と呼ぶ。彼女の中でなにかが吹っ切れたのだろう。
「ね?」
と、また俺を見る。俺は頷いた。
八宮さんが尋ねる。
「じゃあいまふたりはどういう関係?」
「う~ん、友だち……かな。ね?」
と、上目遣いで俺を見た。
――なぜ何度も俺に確認する。
「友だち……?」
八宮さんはなぜか露骨にがっかりした表情で俺を見た。
――なぜ八宮さんまで。
俺はどう返していいか分からず、やはり頷くしかなかった。すると今度は舞果がちょっとむくれたような表情になる。
「なんだよその顔」
「べつに。もうお金に困ってないし、契約は必要ないし」
ぷいとそっぽを向く。それを見ていた八宮さんがぼそりとつぶやいた。
「まだ可能性はありそうか……」
舞果は眉をひそめる。
「可能性?」
「う、ううん。こっちの話。――今日はふたりでお出かけ?」
「わたし、これからバイトの面接があるから」
「バイト始めるの?」
「スポンサーのお金は必要経費にしか使うつもりないからね」
と、腕時計に目をやった。
「あ、面接遅れちゃう。もう行くね」
舞果は八宮さんを見る。
「じゃあ、いろいろありがとうね。ええと……、八宮さん」
「八宮ね。――え?」
「ん?」
ふたりしてハトみたいに首を突きだす。
「いま、八宮って」
「言ったけど? ――じゃあ、ほんとに遅れちゃうから」
「じゃあね」と言い残し、面接へ向かった。
「八宮って呼ばれた……」
八宮さんは嬉しそうに微笑んでいた。
そのあと、八宮さんと別れて帰宅の途につく。別れ際、彼女は不満げな視線を俺に送ってきた。
「なに?」
「べつに。意見はしないって決めたから」
そう口にしたが、やはりどこか納得いかなそうな顔をしていた。
――分かってるさ、言いたいことは。
俺だって、このままでいることを望まない。
もう流されたり怖じけて尻込みしたりはやめだ。
◇
それから数日がたった。十一月に入り、寒そうに背を丸めて歩く人びとが目につく季節となった。
舞果との関係に進展はない。学校ではよく話をするし、一緒に下校するし、LINEのやりとりもする。しかし契約していたときにあった甘やかな空気はきれいさっぱりなくなった。
しかし俺に焦りはなかった。なぜなら今日、あの計画を実行に移すからだ。
インターホンが鳴る。おそらく舞果だ。前に買ったホットケーキの材料が余っているから食べるのを手伝ってほしいと誘ったのだ。もちろん、本題はそちらではないが。
俺は深く深呼吸をしてから通話ボタンを押した。
「は~い、来てあげたよ~」
と、手を振っている。
「いま開ける」
玄関を解錠する。やがて舞果が部屋にやってきた。
「ん~! なんか久しぶり」
窓の前まで歩いていく。
「あ。いつも帰ってきたらあのソファにダイブしてたから、なんか癖で」
と、はにかんだ。
「そういえばケーキの匂いしないけど。これから作るの?」
「舞果」
思ったよりも固い声が出た。
「……なに?」
舞果もちょっと緊張した面持ちになる。
「とりあえず座ってくれるか」
「う、うん」
素直にダイニングのイスに座る。俺も正面に座った。
「あの……、なに? どうしたの?」
「これ」
ダイニングテーブルの下に置いておいたバッグの中からクリアファイルをとりだし、差しだした。
怪訝な顔をしつつ、舞果は受けとる。
「書類……?」
「ああ。確認してくれ」
舞果はきゅっとくちびるを引き結び、クリアファイルから紙の束を引きだした。
そして読みあげる。
「『サブスクリプション彼女サービス 契約書』……」
俺の目を見て、もう一度言った。
「『サブスクリプション彼女サービス 契約書』?」
俺は頷いた。
「え? あ……、これ、つまり、……どういうこと?」
舞果の大きな目がきょろきょろとせわしなく動く。
この日のために俺が作成した書類。何度も何度も見直したから誤字ひとつないはずだ。
「契約してほしい」
俺は言った。
舞果はしばしぽかんとしたあと、まるで痙攣でもするみたいにこくこくと高速で何度も頷いた。
「う、うん。する。する!」
「嬉しいけど、最後までちゃんと読んでくれよ。力作なんだ」
「でも前と一緒でしょ?」
紙の束を親指でぱらぱらと弾く。
「あれ? 厚い……。規約、増やした?」
「少しだけな」
「少しって量じゃないけど」
「読めば分かるよ」
舞果は小首を傾げたあと、書類に目を落とした。律儀に一枚一枚熟読していき、そしてようやく署名欄のある最終ページに到達した。
彼女の顔がハテナマークでいっぱいになる。俺はしてやったりという気分になってほくそ笑んだ。
「まだ倍くらい残ってるけど……」
「むしろ舞果に読んでもらいたいのはそっちだ」
俺の顔を見てから、おそるおそるといった様子で紙をめくる。
その目が、こぼれ落ちそうなほど大きく見開かれた。
「なに、これ……」
舞果は書類の一行目を読みあげた。
「『サブスクリプション彼氏サービス 契約書』……?」
「ああ」
彼女はもごもごと口の中で規約を読む。
「『有永直司(以下『甲』とします)は小瀬水舞果(以下『乙』とします)に対し、本規約に基づき、『サブスクリプション彼氏サービス』(以下『本サービス』とします)を提供します』……」
早い話が『サブスク彼女』の反対だ。舞果が俺に提供していたサービスを、今度は俺が舞果に提供するということである。
舞果がもう一度、俺を見た。
「ど、どういうこと?」
「だから、今度は俺も提供側になるってこと」
「それは分かってるっ。そういうことじゃなくて、――だって、つまり、お互いに同じ金額を払うってことはプラスマイナスゼロってことで……」
舞果は核心を話そうとしている。しかしそこは口に出さなくていい部分だ。
「それってもう、ただの彼氏彼じ――」
「舞果!」
俺は堪らず大声でかき消した。
「舞果が俺に金を払う! 俺が舞果に金を払う! この金は消えてなくなるか!?」
「な、なくならない」
「じゃあゼロじゃないだろぉ……!」
「う、うん……」
「分かればいい……」
なんて偉そうに言ったが、自分でも顔が真っ赤になっていると分かる。うつむいた舞果の顔も真っ赤だ。
「『サブスク彼女』の書類、くれよ」
「うん」
舞果は紙の束の上半分を俺に渡す。俺はバッグからボールペンを二本とりだし、一本を舞果に渡した。
署名欄にサインしようとした舞果が声をあげた。
「そういえば、金額まちがえてる」
「え!? そこは一番まちがえたらまずいと思って三十回は見直したぞ?」
「それは見直しすぎでしょ。ゲシュタルト崩壊起こして逆にまちがえそう」
俺は首を伸ばして舞果の書類を覗く。
「なんだ、まちがってないだろ。三万四千円で合ってる」
「まちがってるよ。三万五千七百円じゃないと」
「値上げか」
「違う。ハグの分」
「あ、なるほど。しっかりしてるな」
「ほら、訂正して。わたしも訂正するから」
「いや舞果が払う必要ないだろ」
「あるよ。だってハグは抱きあうものでしょ?」
「まあ、そうだけど……」
「ちなみにこれもサブスクだから」
「はい?」
「千七百円でハグし放題」
「まじか」
そんな甘美なサブスクがあろうか。
金額を訂正し、署名も終え、俺たちは契約書を交換した。
「なくすなよ」
「分かってる」
緊張したりどぎまぎしたりしたせいで喉が渇いた。
「お茶でも飲むか?」
「うん」
俺は席を立ち、キッチンへ向かう。
「あ、ちょっと待って」
呼びとめられて振り向いた、その瞬間。
舞果が俺に抱きついてきた。
「な、な……!」
俺は身を固くする。
「ど、どどどうした突然!?」
「どうしたって……、さっそくハグをしたんだけど?」
「ええ……? そんないきなり抱きつく感じでいいの?」
「もちろんそういう気分じゃないときだってあるだろうし、相手の意志は尊重しないといけないけど」
舞果はちょっと拗ねるみたいに上目遣いで俺を見た。
「嫌?」
「まさか」
即答した。嫌なわけがない。しかし、ちょっと怖い。なにが怖いって、歯止めが利かなくなりそうだからだ。
舞果は艶然と微笑む。
「もしかして、ハグだけじゃ不満? キスのオプションもつける?」
「ええっ!?」
思わず舞果のくちびるを凝視する。『る?』の口の形がまるでキスをせがんでいるみたい見えて、心臓が爆速で鼓動する。
「いくらにする? 前は一万円って言ってたよね。わたしはもっと安くてもいいと思うな」
「た、たとえば?」
「う~ん……。五百円くらい?」
「ワンコイン!? 価格破壊が過ぎるだろ!」
「だって考えてもみて。ハグは胸、お腹、腰、腕、あとほっぺたもくっつけるでしょ? でもキスはくちびるだけだよ? 面積から考えて価格は下がらないとおかしい」
「面積の問題じゃないだろ……。キスは、ほら……、粘膜の接触だし」
「粘膜って……。なんかやらし~」
悪戯っぽい笑みで俺の顔を覗きこむ。
「と、とにかく! ハグより安いなんてあり得ない!」
「じゃあいくら?」
「五千円とか」
「高い。二千円」
「四千五百円」
「二千円」
「四千円」
「二千円」
「さ、三千五百円」
「二千円」
「三ぜ――」
ふいに舞果の顔が近づいて、俺のくちびるを舞果のくちびるが塞いだ。
「……」
俺の身体も思考も完全にストップした。もしかしたら呼吸も止まっているかもしれない。
顔が離れる。舞果は悪戯っぽく笑った。
「びっくりした?」
俺はさっきの彼女みたいにこくこくと頷いた。
「いまのはお試しだからノーカンでいいよ。キスのサブスクは、まあ来月までに考えておいて」
舞果は「あ~、喉渇いた」なんて言いながら冷蔵庫のほうへ歩いていくが、なんだか足どりがふらふらとしている。そして戸棚の角に足の小指をぶつけて、
「んぎゃあ!」
と猫みたいな叫び声をあげてうずくまった。
「だ、大丈夫か?」
「大丈夫大丈夫。は、ははっ」
振り向いた顔がさっきよりもさらに赤くなっていた。
「や、やっぱりスポーツドリンクが飲みたいからコンビニ行ってくる!」
と、舞果は出ていってしまった。
取り残された俺はしばらく呆然としたいた。
指でくちびるに触れる。
柔らかさと、なんだか甘い香り。よくファーストキスの味について議論があるけど、味はなかったと思う。そのかわり、なんだか弱い電流を流されたみたいに、身体がじんと痺れるような感覚があった。
――やられた……。
今日は俺が仕掛ける側だったのに、結局舞果に持っていかれてしまった。
以前の俺なら積極的な彼女に気圧されてしまっていたことだろう。しかしいまはそんな弱気は微塵も湧いてこない。
俺たちの関係は、距離を保って相手の様子を窺うアウトボクシングから、がっぷり四つの相撲に移行したのだ。
――つぎは絶対に負けない……!
俺は舞果を骨抜きにするためのつぎなる方策を練りはじめた。




