Ep.20 滑稽
勢いのまま屋敷内を歩き、セシリアの部屋の前に辿り着いた時には息が上がっていた。
何度か深呼吸をして動悸を鎮めてから扉を叩くと、少しの間をおいて、中からはいつも通り黒髪の執事が現れた。
「……辺境伯閣下。いかがなさいましたか?」
執事の瞳には、明らかにいつもと違う俺の様子を警戒する色が滲んでいる。
この執事は、決して俺のことを『旦那様』とは呼ばない。
主であるセシリアが俺を夫と認めていない以上、この執事もまた俺を認めることはないのだ。
「……セシリアと話がしたい」
端的に用件を伝えると、少しの沈黙の後、「……少々お待ちください」と言い残して一度扉を閉じた。
扉の前で待ち続ける間、胸を締め付ける緊張感とは裏腹に、頭の中だけがひどく冷静になっていくのを感じた。
やがて扉が開くと、そこにはセシリアと執事が立っていた。
「ごきげんよう、閣下。私にご用と伺いましたが?」
「…………入っても、いいだろうか?」
淡々と告げる彼女の顔を見た瞬間、ここへ来るまでの焦燥感は急に萎み、声は掠れ、視線は自然と足元に落ちた。
彼女が怪訝そうな表情を浮かべているのが、見ずとも伝わってくる。
「……何もお構いできませんが、それでもよろしければどうぞ」
促されるまま、俺は部屋の中へと足を踏み入れた。
「……君が、以前の魔獣討伐の際に、負傷者を治療してくれていたと聞いた……」
向かい合わせにソファへ座ると、呟くような声が漏れた。
セシリアは表情ひとつ変えず、淡々と「そうですか」と短く答える。
「今まで知らずにいて、礼が遅れてしまった。……ありがとう。君のおかげで、一人の死者も出さずに済んだ」
「ギルドマスターからの依頼を受けただけですので、お気になさる必要はございませんわ」
早く話を切り上げようとする彼女の視線を避けるように、俯いたまま言葉を継いだ。
「……君の助力があったことを領民が知り、噂が嘘だったことが知れ渡った。そして……俺が君を蔑ろにして、女遊びに耽っていたことも……」
彼女は黙って俺の話に耳を傾けている。
「……今までの行いが、非難の対象になった……俺を好意的に見ていたはずの目が……一変して、軽蔑の色に変わっていた……」
胸の中に蓄積されていた毒を吐き出すように語り続け、ようやく俺は視線をセシリアに向けた。
「……君が今まで受けてきたであろう視線を向けられて、ようやく少し……いや、ほんの一欠片だろうが、君がどれほどの苦痛を抱えてきたか、分かった気がしたんだ……」
再び視線を落とし、沈黙が流れる。
だが、その沈黙を破ったのは、頭上で響いた「くすっ」という笑う声だった。
驚いて顔を上げると、セシリアがくすくすと笑っている。
初めて見る、感情を露わにした彼女の顔に、目を見開いてしまう。
しばらく笑い続けた後、彼女は深く息を吐き、俺の瞳を真っ直ぐと見据えた。
「申し訳ございませんわ。あまりに滑稽で……私が抱えてきた苦痛を理解したと仰るのが可笑しくて、つい」
堪え切れぬように再び小さく笑い、それから一転して、冷ややかに嘲笑った。
「私のことを理解されたつもりでいらっしゃるようですけれど、閣下は何も分かっておりませんわ。あなたが感じた視線など、この領内だけの、ごく限られたもの。そして、向けられた非難はすべて『事実』でしょう?……私とは前提が違いますわ」
セシリアが初めて棘のある視線を向けられたのは、アシュフォード公爵邸の中だった。
昨日まで優しかった家族や使用人の眼差しが、一人、また一人と冷たく濁ったものへと変わっていった。
やがて婚約者の視線が悪意のあるものに変わると、それは透明な水に一滴の黒いインクを落としたかのように、留まる事を知らずに滲み広がっていった。
「社交場へ出れば令嬢たちの軽蔑に晒され、学院へ通えば生徒たちの嘲笑の的になりました。貴族子女の間で始まった噂は、やがてその親や兄弟へと伝播します」
領地を持つ貴族は、社交期間が終われば、それぞれの領地へと散っていく。
「お分かりいただけます?私は王都だけではなく、国中の貴族からその『視線』を向けられておりましたの。それも偽りの噂によって……約十年もの間、ずっと」
「たかが数カ月。それも領内にいる程度の人数に背を向けられただけで、私の苦しみを理解した気になられては困りますわ」と、セシリアは吐き捨てた。
その間、見開いた目を閉じることも、衝撃で固まった表情も動くことなく、彼女の言葉は次々と胸に突き刺り、抉るように深く沈み込んだ。
俺が感じた孤独感など、彼女が味わってきた地獄の砂粒一つ程度だったのだろう。
「もう、お話は済みましたわね。ノイン、閣下をお送りして」
これ以上、下らない対話には付き合いきれないとばかりに、セシリアは執事に命じると、背を向け立ち上がった。
今まで何度も言葉で拒絶されてきたが、これほど明確な『嫌悪』を態度で示されたことは初めてだった。
今の自分の顔を鏡で見たら、さぞかし情けない顔をしているだろう……
「閣下、どうぞ」
黒髪の執事が「さっさと出て行け」と言わんばかりに扉を開けて待っている。
体に力が入らないまま、ふらふらと入り口まで移動し、振り返ってセシリアの姿を見たが、彼女は変わらずに背を向けたままだった。
何も言うことが出来ないまま部屋を出ると、パタンと冷たく扉を閉じられたが、どうしてもその場から動くことが出来なかった。
⸺⸺⸺
「セシリア様」
はっと意識を引き戻されると、デスクの前にノインが立っており、私の手元には紅茶のカップが置かれていた。
「ありがとう……」
温かい紅茶を口に運び、湯気とともに立ち上る香りをゆっくりと吸い込む。
その間、ノインは何も語らない。
悲しい時も、苦しい時も、どんな時も何も言わない。
ただ、黙って傍にいるだけ。
それでいい……むしろ、その静かな存在を感じるだけで心が安らぐ……
先ほど、転移魔法で辺境伯邸から別邸へ戻って来た。
あの男が噂を知り、周囲からの視線の変化にショックを受けたようだった。
たかがそれだけの事で、私のすべてを理解したかのように語ったあの男が、あまりにも滑稽でつい笑ってしまった。
「……少し、感情的になりすぎたかしら?」
紅茶を飲み込みながら、ぼそっと呟く。
「たまにはよろしいかと。閣下が愚かな事を仰ったのが、きっかけです。はっきり教えて差し上げた方が、変に勘違いさせずに済んだでしょう」
ノインは淡々と言葉を紡いでいるが、そこには確かな気遣いが篭っていた。
「そうね」と、私は一言返し、少し冷えかけた紅茶を再び口にした。




