90.返還交渉
少々のいざこざはあったものの、予定通りアナスタシアとブラントは【転移】で魔術学院に戻ってきた。
転移場所である図書室の隠し部屋も、久しぶりだ。
まずは寮の部屋に戻って、荷物を置いてくることにする。
寮の部屋は質素で狭く、瑠璃宮とは大違いだ。
こちらの方が落ち着くと、アナスタシアは荷物を置きながらほっと息をつく。
瑠璃宮では常に周囲に侍女が控えていたので、一人の空間というのも久々だった。
だが、すぐにジグヴァルド帝国第三皇子エドヴィンの滞在している宿に向かおうと、ブラントと約束している。
アナスタシアは荷物を置き終えると、すぐに待ち合わせ場所である、学院の門に向かった。
「……お待たせしました」
すでに学院の門ではブラントが待っていた。
まだ学院は授業再開していないようで、生徒の数はいつもより少ないが、それでもちらほらとブラントを窺っている姿がある。
だが、それらの視線など、ブラントはまったく気にしてないようだ。
「じゃあ、行こうか」
ブラントはそう言って、手を差し出してきた。
周囲からの視線が集中するのを感じ、アナスタシアは戸惑う。
「もう知られているから、隠す必要もないだろう?」
穏やかに微笑みながら、ブラントは囁く。
確かに、これまで隠してきたのは、国元に誰かと付き合っているといった噂が伝われば、好ましくないことになりそうだったからだ。
実際には筒抜けだったわけだが、父も婚約者のようなものといちおうは認めているようだし、手を繋ぐくらいは構わないだろう。
「はい……」
アナスタシアは恥ずかしさにやや俯きながら、ブラントの手を取った。
その途端、周囲からどよめきが起こる。
しかし、ブラントはそれらなど何も聞こえていないように無視して、にっこり笑ってアナスタシアの手を握ってくる。
アナスタシアも周囲の反応を詳しく確かめてみる気にはなれず、そのまま二人でエドヴィンの滞在している宿に向かって歩き出す。
宿に着いて尋ねてみると、エドヴィンはまだ滞在しているようだった。
もしかしたら、もう宿を発っている可能性もあると思っていたので、まだだったのは幸いだ。
取り次ぎを頼むと、さほど待つことなく部屋に通された。
「よく来てくれたな、アナスタシア姫……と三年首席。そろそろ体の調子も戻ってきたので、宿を発とうかと思っていたところだ。その前に挨拶に行こうとしたのだが……姫から来るとは、何かあったのだろうか?」
以前よりずっと顔色も良くなったエドヴィンが、不思議そうに尋ねてくる。
ただ、未だにブラントに対しては思うところがあるようだ。
「実は……マルガリテスについてお伺いしたいことがあるのです」
アナスタシアがそう切り出すと、エドヴィンの表情が苦いものになる。
しばし俯きがちに腕を組んで考え込んでいたが、ややあってエドヴィンは決意したように顔を上げた。
「そうだな……姫は命の恩人だ。私が知っていることなら話そう。何を聞きたいのだろうか?」
「今、マルガリテスはどのような状態になっているのでしょうか?」
「現在は閉鎖されている。疫病が流行ったそうでな」
「疫病?」
アナスタシアが眉をひそめると、エドヴィンは苦々しく口元を歪めた。
「……先代皇帝、つまり私と姫にとっては祖父にあたる人物だ。彼がセレスティア聖王国への侵攻を進め、あるときマルガリテスを奪い取った。だが、そのすぐ後にマルガリテスでは疫病が蔓延し、目に見えるほどの瘴気が渦巻いていたという。よって、マルガリテスを閉鎖せざるを得なかったそうだ」
大きく息を吐き出し、エドヴィンはいったん言葉を句切る。
「しかも、先代皇帝も病に倒れ、セレスティア聖王国侵攻から手を引くことになった。セレスティア聖王国の祟り、呪いだという話になったそうだ。結局、そのまま先代皇帝は崩御し、父が新皇帝となった。……このあたりは、わりと機密事項だな。他言はしないでもらいたい」
さらりと機密事項だと付け加えられ、アナスタシアは面食らってしまう。
もちろん他言するつもりはないが、こうも簡単に教えてくれたことに驚く。
「だが……何故、マルガリテスについて知りたいのだろうか?」
「それは……マルガリテスを取り戻して結界を修復するのが、父から出された結婚の条件なのです」
エドヴィンに尋ねられ、一瞬戸惑ったものの、アナスタシアは正直に答えた。
すると、エドヴィンは眉間に皺を寄せて考え込む。
「そうか……マルガリテス返還は、可能かもしれない」
ややあって口を開いたエドヴィンの言葉に、アナスタシアとブラントははっとしてエドヴィンの様子を伺う。
「はっきり言えば、マルガリテスなど邪魔なのだ。いっそ返還してしまったほうが、帝国としての負担も減るのだが……当時は、先代皇帝の病やら面子やらで不可能だった。二十年ほど経っている今なら、認められる可能性は高いと思う」
腕を組みながら、エドヴィンはゆっくりと語る。
その内容は、アナスタシアとブラントにとっては、とても希望あふれるものだった。
「ただ、未だに瘴気が渦巻いているらしい。かつては美しい地だったというが、その面影はないだろう。その状態でも構わないのならば、だが」
「構いません。瘴気については、もし返還されたとすれば調べてみます」
アナスタシアは即答した。
国と国とのやり取りになる、最も面倒な部分を解決できそうなのだ。
他のことは、個人でも調べることができる。
「ならば、帝国に戻ったら掛け合ってみよう。絶対とは言わぬが、十分に勝算はあるだろう」
「エドヴィン殿下……ありがとうございます……」
難題をあっさり請け負ってくれたエドヴィンに対し、アナスタシアは何と言ってよいものかわからない。
ただ礼を述べるので精一杯だ。
「いや、礼には及ばぬ。姫には命を救ってもらったからな」
鷹揚にエドヴィンは答える。
そして、口元に計算高い笑みを浮かべた。
「これからも、友人として親しくしてもらいたい。アナスタシア姫も、そちらの三年首席……ブラント殿もな」






