86.意気地無し
「儂はこれから殴る奴を探しに行こうと思うが、その前に……そなたたち、【転移】は使えるか?」
「使えます。俺もアナスタシアさんも」
「そうか。ならば、この城にも座標を用意してやろう。ついてくるがよい」
魔王エリシオンはそう言って、玉座の向こう側へと歩いて行く。
ただの壁にしか見えない場所が、エリシオンが近づくと光のカーテンのように揺らめいた。
そこにそのようなものがあるなど、アナスタシアの前回の人生では知ることは無かった。
「この先は儂の結界で、儂の許可した者しか入れぬ。そう簡単には破れぬから、安心するがよい」
エリシオンは光のカーテンをくぐっていく。
アナスタシアとブラントも後に続いた。
その先には廊下があり、どうやら居住空間のようだ。
「そうだな……ここにするか」
少し進むと、百合の模様が刻まれた扉をエリシオンは開け、中に入る。
中にはソファーやテーブルが置かれていて、くつろぐための部屋のようだ。
広々としていて、瑠璃宮の部屋とも少し似ている。
おそらく長期間手を入れていないはずだが、家具も調度品も、どれも埃ひとつかぶっていない状態だった。
エリシオンが壁に手をかざすと、透明な球体がそこに埋め込まれた状態で現れた。
「これで、ここにも転移できるだろう。この部屋はそなたたちで好きに使うがよい。奥には浴室と寝室もある」
そう説明すると、エリシオンはわずかに眉根を寄せてブラントに向き直る。
「ときにブラント……そなた、もっと番いを可愛がってやれ。まだ蕾のままではないか」
「……っ!?」
エリシオンが諭すように言うと、ブラントは絶句した。
強張った表情で固まり、立ち尽くしている。
アナスタシアは意味がわからず、首を傾げる。
ブラントはアナスタシアを一途に想ってくれ、十分に大切にしてくれているはずなのに、何故そのようなことを言うのだろうか。
「儂は番いにも娘にも先立たれ、もはやそなたしかおらぬ。そなたには幸せになってもらいたいのだ」
しんみりとしたエリシオンの言葉で、強張っていたブラントの表情が和らぐ。
アナスタシアも、先ほどの言葉がどういう意味合いだったのかはわからないにせよ、ブラントのことを心配してのことだったのだろうと納得する。
「アナスタシアといったか。そなたは、儂にとっては遠い姪にあたるようだ。ブラントと巡り会ったのは何の因果かわからぬが、二人で幸せになってくれ」
エリシオンはアナスタシアにも優しい眼差しを向けて、声をかける。
前回の人生とはまったく違った関係に、アナスタシアは戸惑う。
だが、今の方がずっと良い。
アナスタシアはブラントに寄り添いながら、頷く。
「これも渡しておこう。通信用の魔道具だ。何かあればすぐに連絡するがよい」
手のひらに乗る大きさの水晶玉のようなものが、ブラントに渡される。
何から何まで、至れり尽くせりだ。
「もし何かに襲われて手に負えねば、ここに逃げ込め。ここには限られた者しか入れぬ。ヨザルードを倒したくらいなのだから心配はいらぬと思うが……念のためにな」
軽く息を吐くと、エリシオンは部屋の入り口に体を向けた。
「さて、では儂は行く。とりあえず近場から探して殴っていくか。そなたたちは、ゆっくりしていくがよい」
そう言って、エリシオンは部屋を出て行った。
残されたアナスタシアはブラントと、顔を見合わせる。
「……何だか、怒濤の展開でしたね」
「そうだね……魔王があんな感じだとは思わなかったけれど……でも、まあ、うん……よかったんじゃないかな」
穏やかに、ブラントは微笑む。
その柔らかい表情を見て、アナスタシアも安心して口元が綻ぶ。
ずっと自分の血筋に悩みを持っていたブラントだったが、どうやらそれなりに折り合いが付いたようだ。
「魔族のことも魔王が乗り出すんだから、何とかなるだろう。ただ……あれは多分、殴ってから考えるタイプだろうな……俺もそういうところがあるけれど、もっとひどいような気がする……」
「それは……」
どことなく遠い目で呟くブラントの言葉に、アナスタシアは苦笑する。
前回の人生で見た威厳ある魔王とはかけ離れた、どこか抜けたとこのあるおじいちゃんというのが、実際のエリシオンらしい。
「まあ……これで、魔族のことはいったん置いておいて、マルガリテスのことに移れるかな。資料はざっと読んだけれど、気になることがあって」
「何かありましたか?」
「マルガリテスって風光明媚な保養地だったっていう話だけれど、帝国の領土となってからはそういう使われ方はしていないみたいだった。むしろ、閉鎖されているらしい。何があったのかなって」
「それは……不思議ですね。閉鎖して、そこで何かをやっているんでしょうか」
「そこまでは調べがつかないみたいだね。だから……あの第三皇子に尋ねてみるっていう手もあるかなと思うんだ」
「なるほど……まだ、宿に滞在しているかもしれませんし、学院に戻って行ってみるのもよさそうですね」
ジグヴァルド帝国の第三皇子エドヴィンは、負傷のために魔術学院都市の宿に滞在して静養中だった。
セレスティア聖王国に来る前にお見舞いに行ったが、もしかしたらまだ滞在中かもしれない。
地下神殿に転移できる場所もあったことだし、行き来は容易だ。
「いちおう、父に地下神殿の転移箇所のことを話して、許可をもらっておこうと思います。そうすれば、行き来が楽になりますから」
「そうだね。もうそろそろ学院も再開する頃だろうし、戻る頃合いだろうね」
二人の話はまとまり、学院に戻ることとなった。
試しに【転移】で今いる部屋を指定してみるが、問題なく使えるようだった。
今いる部屋にも、王城の地下神殿にも、【転移】で移動できるようになったのは便利だ。
「そういえば、奥に浴室と寝室もあると言っていましたね。ここで生活できそうですね」
「……そうだね」
アナスタシアがふと思いついて呟くと、ブラントは歯切れ悪く頷いた。
何かあったのだろうかと、アナスタシアは疑問を抱く。
「それよりも、そろそろ行こうか。学院に戻るなら、準備しないと」
だが、ブラントは話題を変えて、戻ろうとする。
不思議には思ったものの、アナスタシアは特に何も言うことなく、頷いた。
どことなく焦ったように、ブラントは部屋の入り口の扉に手をかける。
そして扉を開けると、そこにはエリシオンが立っていた。
ぎょっとして、アナスタシアとブラントは固まってしまう。
「……そなたらが部屋を移動したら行こうと思ったが……なかなかその兆しがないものでな……」
呆れたように、エリシオンは呟く。
どうやら見送ろうと待っていたようだと、アナスタシアは少し申し訳なってくる。
だが、ブラントは苦虫を噛み潰したような顔をしていた。
「そなた……意気地無しだのう」
哀れむような眼差しをブラントに向け、エリシオンはしみじみと呟く。
アナスタシアは意味がわからずに首を傾げるが、ブラントは俯きがちに拳を握りしめていた。






