78.一度殴ってやりたい
会場は騒然となり、悲鳴が響き渡る。
魔物と化したデライラは、真っ赤な目をアナスタシアに向けて、ゆっくりと動き出した。
皮膚は硬質な輝きを持ちながら、短い体毛がびっしりと生えているものの、顔自体にさほど変化はない。
そのため、デライラの顔は憎悪に歪んでいると、判別がついた。
これまで状況についていけずに固まっていた、デライラを見張っていた騎士たちが、正気づいてデライラを取り押さえようとする。
だが、デライラの長い鎌を打ちつけられ、騎士たちは軽々と空中に投げ飛ばされてしまう。
騎士たちは床に叩きつけられ、衝撃で動けなくなっていた。
「こ……ろ…………す……」
段を上ってこようとするデライラに、控えていた騎士たちが駆け寄ってきて槍を突き立てる。
しかし、槍は刺さることなく弾かれ、穂先が歪んでしまう。
戸惑う騎士たちに向かい、デライラの鎌が襲い掛かる。
だが、デライラの動きは邪魔者を振り払うといったもので、戦線離脱した騎士たちを追いかけて攻撃するようなことはなかった。
デライラが見据えるのは、アナスタシアただ一人だ。
他の相手にはまったく構うことなく段を上り、デライラはアナスタシアを目指す。
「王女殿下が……!」
「このままでは国王陛下も……!」
人々がざわめく中、アナスタシアは自分から段を下りて、デライラに近づいていった。
誰もアナスタシアを押しとどめることなく、固唾をのんで見守る。
アナスタシアにとっては、もしかしたらあり得るかもしれないと思っていた展開だった。
先日、学院対抗戦の後に追い詰めたディッカー伯爵が魔物と化したことから、デライラもそうなる可能性はあると思っていたのだ。
ただ、おそらくデライラは自分のお抱え占い師が魔族であることに、気づいてはいなかったと思われる。
ということは、この魔物化も自分の意思ではないだろう。
誰かが魔物化を操作したのか、それとも何らかの行動や感情がきっかけになるのか、意思以外の働きかけがあるはずだ。
人が魔物と化すなど、物語ではよくある話だ。
しかし、アナスタシアが実際に目の当たりにしたのはディッカー伯爵以外では、前回の人生で一度きりだった。
それは、魔術実験の失敗で魔物と化したフォスター研究員である。
もっとも、魔物と化す場面を見たわけではなく、魔物となったところを勇者シンが討ち取り、灰となって崩れていくところを見たのだ。
それは本当に魔術実験の失敗だったのだろうかという疑いが、アナスタシアの心に芽生える。
フォスター研究員とは、ブラントのことだ。
ブラントが魔術制御を失敗するなど考えにくい。
仮に失敗したとしても、そこまで致命的な状況に陥らないよう、対策を施すくらいのことはするだろう。
当時は何も知らなかったから疑問を抱くこともなかった。だが、ブラントのことを知る今となっては、違和感しかない。
もしかしたら、フォスター研究員は自身の魔術実験の失敗ではなく、誰かの手によって故意に魔物化させられたのではないだろうか。
目の前のデライラを見ながら、アナスタシアはその疑念が強くなっていく。
そして、もしそうだとすれば魔物化する原因や対策を知っておく必要がある。
魔物と化した後、人間に戻ることができるのかも調べたい。
そのためにも、目の前にいるデライラは生け捕りにするべきだろう。
アナスタシアはこれまでの思いを振り払い、デライラに集中する。
「私を殺したいですか?」
静かなアナスタシアの声が響く。
殺意を向けられながら、アナスタシアは平然としていた。
むしろ、これまでのように真綿で首を締めるようにじわじわと悪意を向けられるよりも、さっぱりとしていてわかりやすいくらいだ。
それでも、かつては気に入られたいと思っていたこともあった。
愛情を求めてもがいていた時期もある。
だが、それも全ては過去のことだ。
今はただの敵であり、デライラから何かを欲しいと求めることなどない。
「…………」
デライラは何も答えることなく、ただギラギラと光る目をアナスタシアに向けながら、距離を縮めてくる。
やがてデライラの六本の鎌がぴんと伸びて、先端部がアナスタシアに向けられた。
だが、鎌が振り下ろされるよりも早く、アナスタシアは床を蹴ってデライラの懐に潜り込む。
そして魔力を込めた拳を、デライラの顔面に叩きつけた。
デライラの体が宙を舞い、放物線を描いて段の一番下まで吹き飛んでいく。
周辺が静まり返る中、デライラが床に叩きつけられる音が響いた。
見守っていた人々が、唖然として立ち尽くす。
槍が通じないくらいの硬い魔物と化したデライラを、か細い少女にしか見えないアナスタシアが拳の一撃で吹き飛ばしたのだ。
何が起こったのかわからないといった様子で、人々は固まっている。
段の一番上にいるメレディスですら、あっけにとられていた。
「……実は私も、一度殴ってやりたいと思っていたのですよね」
床に転がるデライラに魔術で束縛の檻を作りながら、アナスタシアはぼそりと呟いた。






