73.怪しいお茶
ややあって、会場が設置された。
とはいっても庭園の一画に置かれていた物を取り払っただけで、魔術障壁があるわけでもない、ただの少し広い場所だ。
その頃には何事かと、王女宮に勤める手の空いた侍従や侍女たちが、遠巻きに様子を窺っていた。
「勝利を我が姫に捧げましょう」
騎士ヘクターがジェイミーの前に跪き、恭しく手を取ると、手の甲に口づける。
よくやるなと呆れ気味に眺めていたアナスタシアだが、同じくそれを見ていたブラントは口元を悪戯っぽく歪めた。
そしてブラントはアナスタシアの前に跪くと、その手を取った。
「これより姫に勝利を捧げましょう」
そう言って、ブラントはアナスタシアの手の甲に口づけた。
アナスタシアは頭が真っ白になって、固まってしまう。
これまで王女らしい扱いをされていなかったアナスタシアには、免疫のない出来事だったのだ。
遠巻きに窺っている侍女たちが、きゃあきゃあと騒ぐ声が聞こえてくる。
戸惑うアナスタシアを見て楽しそうに笑うと、ブラントは用意された舞台に向かっていく。
騎士であるヘクターの武器は木剣で、魔術師であるブラントの武器は無い代わりに、開始時の距離が多めに取られている。
「さあ、覚悟はいいか。殺しはしないが、腕や足の一本二本は諦めるんだな」
ヘクターはニヤニヤとしながら高慢に言い放つが、ブラントは平然としたまま、何も答えない。
「ヘクター! 顔は傷つけないようにするのですわよ!」
そこにジェイミーからの声援も飛ぶ。
アナスタシアはそれを横目でちらりと眺めただけで、何も言わない。
「では、開始!」
審判役の侍従の声が響き、手合わせが始まった。
余裕を見せながら、ゆっくりと近づこうとするヘクターだが、一歩を踏み出したところで、突然前のめりに倒れる。
「……え?」
ジェイミーを始め、見ていた人々があっけにとられる。
だが、アナスタシアにはブラントが【麻痺】を使ったのだとわかった。
地面に突っ伏すヘクターはそのまま動かず、やがて顔面蒼白になって泡を吹き出した。
「死にかけていますよー、解いてあげないとー」
どこかで見た光景だと思いながら、アナスタシアは間延びした声をかける。
それを聞いて、ブラントが【麻痺】を解いた。
途端にヘクターが激しく咳き込み出す。
「き……貴様……何だ、今のは……卑怯な手を……」
苦しそうではあったが、ヘクターはブラントを睨みつける。
以前、同じ目に合った魔術学院の生徒たちは動くことも出来なかったが、さすが騎士だけあって鍛えているようだ。
「【麻痺】の魔術を使っただけですよ。いちおう手加減はしたのですが、あまりにも弱かったもので」
「ふ……ふざけるな……こんなのが認められるか……」
「だって、殺傷力の強い魔術なんて使ったら、今の魔力抵抗力を見る限り、一瞬で死ぬと思いますよ。しかも魔術障壁もないこの庭園じゃあ、周辺もめちゃくちゃだ」
「そ……そんな卑怯な手など、認めない……魔術そのものが、卑怯なんだ……だから、負けたわけじゃない……」
ヘクターは敗北を認めようとせず、ぶつぶつと呟く。
その見苦しい様を見て、ブラントは大きなため息をつく。
「では、魔術も武器も無しの素手で戦いますか? それなら、まったく同じ条件でしょう」
「ふん……後悔するぞ……」
ブラントの提案を、ヘクターは受け入れる。
呼吸を整えてヘクターは立ち上がり、先ほどよりも両者の距離を縮めた状態で仕切り直しとなった。
「で……では、開始!」
審判役の侍従の合図で、ヘクターが動き出す。
先ほどのジェイミーの言葉も頭に残っていないようで、ヘクターはブラントの顔面目がけて拳を繰り出す。
だが、ブラントは軽くかわした。
「ちっ……ちょこまかと……!」
その後も、ブラントはヘクターの攻撃をかわし続ける。
騎士とはいえ、実戦経験は乏しいのだろう。動きが単調で、かわすのはたやすいだろうとアナスタシアも冷静に見ていた。
やがて攻撃が大振りになってきたところで、ブラントが蹴りを放つ。
まともに食らってしまったヘクターの体が宙を舞い、仰向けに地面に落ちていった。
大きな音が響き、地面に頭を打ち付けたらしいヘクターは意識を失ったようで、動かなくなった。
あまりにも魔術師らしからぬ戦いをしたブラントの勝利に、周囲は静まり返る。
ブラントは静寂の中を一人歩き、アナスタシアの元に戻ってきた。
「勝利を、姫に捧げます」
恭しく跪くと、ブラントはそう言った。
その途端、侍女たちが騒然となる。
だが、アナスタシアはとても落ち着かない気分で、困り果てていた。
こういうときはどうすればよいものか、わからない。
「あ……ありがとう……」
とりあえず礼を言ってみると、ブラントはにっこり笑って立ち上がった。
早くなっている心臓の鼓動を意識しながら、アナスタシアは心を落ち着かせるために深呼吸してみる。
そして、ジェイミーの様子を窺ってみた。
どれほど苛立っているだろうかと思ったが、予想に反してジェイミーは落ち着いていて、アナスタシアは訝しく思う。
ジェイミーは侍女に命じて、お茶の準備をさせる。
倒れたヘクターは運ばれていったが、ジェイミーはそちらには目もくれない。
「……どうやら、護衛として十分な力量を持っているようですわね」
これまでのやり取りなどなかったかのように、平然とジェイミーはそう言いながら、手ずからお茶を淹れる。
そして、お茶をブラントに差し出した。
「勝者に、私からもこちらをどうぞ。まさか、王女が手ずから淹れたお茶を飲めないなどということはありませんわよね」
あからさまに怪しい態度だ。
アナスタシアは、まさか毒でも入っているのだろうかと不安になる。
これだけ人目があるところで毒を盛るとは、考えにくい。だが、致死性ではなく、腹を下すような嫌がらせ程度ならば、十分にありえる。
「もちろん、毒なんて入っていませんわよ。……ほら」
ジェイミーは同じポットから淹れたお茶を、一口飲んでみせる。
目の前で毒見までされては、飲まないわけにもいかないだろう。
ブラントはわずかに眉根を寄せながら、お茶を受け取って飲んだ。こくり、とブラントの喉が動く。
それを見たジェイミーの唇の端が、にいっとつり上がった。






