146.婚約解消の約束
チェイスは天人教団以外の心当たりはないようだった。
治療が終わってからも時折、天人教団本部を訪れてはいるが、寄付をして祝福を受けるだけで、変わったことはなかったらしい。
巫女について尋ねてみると、治療のときに一度だけ会ったきりで、その後は姿を見かけていないという。
「巫女さまは顔を隠しておいででしたが、美しい成熟した女性でした」
うっとりと語るチェイスは、すっかり巫女に魅了されているようだ。
顔を隠しているのに美しいとよくわかったものだが、おそらく胸が豊かな女性だったのだろう。
もしかしたら魅了の術もかけられていたのかもしれない。
聞く限りでは相当な額を寄付しているようなので、モリス伯爵家が金銭的に裕福ではないというのも、このためではないだろうか。
「……しかし、今思い出そうとすると、以前のような美しいお姿が目に浮かばなくなっています」
だが、ふと表情を曇らせてチェイスは呟く。
やはり埋め込まれた魔石には魅了の効果もあったのか、どうやらただ魔物化させるだけではないようだ。
時間が経って魔石の影響が抜けていけば、もっとまともになっていくかもしれない。
それからもいくつか質問をしたが、大したことは知らないようだった。
もうこれ以上の成果は得られないだろうと、アナスタシアは取り調べを終えることにした。
あとは、重要な問題を片付ければ終わりである。
「レジーナ・リッチとの婚約を解消してほしいのです」
アナスタシアがそう切り出すと、チェイスは眉根を寄せた。
腕を組んで、考え込む様子を見せる。
「……レジーナ嬢のことは、一目見て運命を感じました。婚約を解消する理由がありません」
ややあって、チェイスはきっぱりと断った。
「もしかして、僕を殴ってきた男と恋仲だとでもいうのですか? それならば、あの男を貴族を殴った罪で死刑にしてしまえばよいのです。そうすれば、レジーナ嬢も諦めるでしょう。それともまさか、あの男も平民ではなく、どこかの王子だとでもいうのですか?」
チェイスは不機嫌そうに尋ねてくる。
貴族らしい言い分ともいえるが、アナスタシアは不快感がわき上がってくる。
「確かに、あなたを殴ったホイルは平民です。では、王女である私のことを使用人扱いして、絶壁の侍女などと罵ってきたあなたの罪状は、どうしましょうか?」
アナスタシアが冷たく言い放つと、チェイスは息をのんだ。
視線が泳ぎ、慌てふためいている。
「どうやら自分の立場をわかっていないようですね。それとも、言葉では理解してもらえないというのなら、共通言語で語り合いましょうか」
アナスタシアが片方の拳を握りしめ、もう片方の手のひらに打ち付けると、目に見えてチェイスの顔から血の気が引いていった。
腰が引けて、アナスタシアから遠ざかろうとしているようだ。
ホイルに殴られたときの様子を思い返しても、チェイスには武術の心得はないだろう。戦闘能力でアナスタシアに勝てるとは、本人も思っていないようだ。
「それと、あなたが魔物化したときですけれど、周辺にも現れた魔物を倒したのは、レジーナ・リッチですよ。間違いなく、あなたよりも強いはずですけれど、それについてはどうお考えですか?」
「え……?」
止めとばかりにアナスタシアが、レジーナにも戦闘能力があることを強調すると、チェイスは唖然として固まった。
セレスティア貴族の女性はか弱いことが美徳であるような風潮があるが、予想以上に効いたようだ。
「わ……わかりました……当主である父に婚約を解消してもらえるよう、願い出てみます……」
とうとうチェイスが折れた。
少しやりきれない思いもあるのだが、アナスタシアは目的を達成するためにはささいな感傷に過ぎないと、飲み込む。
チェイスがアナスタシアを侮辱したことについては、ホイルがチェイスを殴ったことと相殺することにした。
そしてレジーナとの婚約を速やかに解消することを約束させて、チェイスは解放する。
「前から不思議に思っていたんだけれど、この国では強いと嫌われることでもあるの?」
逃げるようにチェイスが立ち去るのを眺めた後、ブラントが首を傾げながら口を開いた。
「この国では、貴族女性はか弱いことが美徳といった価値観があります。魔物を殴りつける私なんて、女としては最悪ですね」
「ええ……理解できないな……」
アナスタシアが苦笑しながら答えると、ブラントは眉をひそめて呟く。
いちおうセレスティア聖王国にも女性騎士は存在はするのだが、武人という枠で見られて女性扱いされることはない。
魔術師はまだ少しましだ。魔道具作成や治癒術くらいならば許容範囲となっている。魔物と戦うにしても通常は後衛なので、騎士ほどではない。
平民の間ではまた違うようだが、貴族女性はそういう価値観で生きている。
「それも力を削ごうとする魔族の策略だったんじゃないの? もともと始祖のセレスティアなんて、おじいさまの妹なんだから、弱いはずがないだろう」
「そういえば、そうですよね……」
その場の思いつきともいえるブラントの言葉だったが、アナスタシアは深く納得していた。
案外、それは正しいのかもしれない。
だとすれば、魔族の影響はかなり根深いようだ。
これまでわかっているだけでもセレスティア聖王国、ジグヴァルド帝国、そして天人教団と、各地に影響を与えている。
根は取り除けたと思っていたが、枝葉はかなり広がっているようだった。






