143.切れるホイル
「それにしても、そこの絶壁の侍女も気が利かないね。主人をなだめて、とりなすのが仕事だろう。ああ、それとも僕に追いかけさせようという駆け引きだったのかな?」
アナスタシアに向けての言葉ではあるが、チェイスは自分の世界に浸りこんだままだ。返事などあってもなくても、自分勝手に解釈するのだろう。
つい顔が引きつっていくのを、アナスタシアは感じる。
「……絶壁の侍女?」
ブラントが首を傾げたので、アナスタシアは無言で自分の平たい胸を指差した。
すると、ブラントの顔つきがみるみる変わっていき、敵意をむき出しにした目をチェイスに向ける。
「二度と口がきけないようにしてやろう……」
殺意を漂わせながら、ブラントはチェイスに向かって歩き出そうとする。
アナスタシアは慌てて引き留めようと、ブラントにしがみつく。
「ま……待ってください……! ブラント先輩が殴ったら、多分死にます!」
「あんな奴、生きている価値はないよ。殴った後、跡形も残らないよう、燃やし尽くしてやればいい」
「だ……駄目ですよ! そんな簡単に死なせるなんて! もっと後悔させてからじゃないと!」
必死にアナスタシアが訴えると、ブラントは殺気を引っ込めて足を止めた。
「……そうだね。アナスタシアさんの言うとおりだよ。ちょっと頭に血が上ってしまっていたみたいだ」
すっかりいつもの穏やかなブラントに戻り、少し気まずそうな笑みを浮かべる。
ほっとしながら、アナスタシアはブラントをつかんでいた手を離す。
「使用人どもがごちゃごちゃとうるさいな。こんな連中は放っておいて、僕たちはもっとお互いのことを知るべきだと思わないかな? さあ、早速二人きりで、お互いを深く知ろうじゃないか」
アナスタシアとブラントのやり取りなど、まともに聞いていないチェイスは、未だに唖然としたまま固まるレジーナに向き直る。
そして、レジーナの豊かな胸に視線を固定したまま、手を差し出す。
「……近寄るんじゃねえよ!」
その途端、これまで時が止まったかのように動かなかったホイルが、はっとしたようにチェイスに駆け寄っていって、顔面を殴りつけた。
無防備だったチェイスは、ホイルの拳をまともに食らってしまい、地面に倒れる。
「な……何をする! 僕の美しい顔を……! 許さないぞ! 貴族である僕を平民が傷つけるなど、万死に値する! 死罪だ!」
顔を赤く腫らしながら、チェイスは憤りで歯をむき出しにしながら叫ぶ。
ある程度はホイルも手加減したのか、立ち上がることもできて、かなり元気そうだ。
「うるせえ! レジーナのことを変な目で見るんじゃねえよ! クソ野郎が!」
しかし、ホイルはまったく怯まない。
こちらも憤りを露にして怒鳴る。
「クソ野郎だと……? 侮辱罪も追加だ! 楽に死ねると思うなよ!」
「口先だけの軟弱野郎のくせに黙れよ!」
喚くチェイスの胸ぐらをつかみ、ホイルはもう一度殴りかかろうと拳を振り上げる。その激しく苛立った顔から、今度は本気で殴ろうとしているのが明らかだ。
だが、レジーナがホイルに駆け寄って、後ろから抱き着いた。
「ホイル、もうやめてくださいな! これ以上殴ったら、あなたのほうが……」
レジーナはホイルにすがりつきながら懇願する。
どんなにクズでも、チェイスは伯爵令息という貴族だ。ホイルは平民であり、身分差がある。
貴族が平民を傷つけるよりも、平民が貴族を傷つけるほうが、圧倒的に罪が重くなるのだ。
「今さら謝ったところで許さないからな! お前の死罪はもう決まってるんだ! 平民ごときが、貴族に手を上げたことを後悔しながら死んでいけ!」
勝ち誇ったように叫ぶチェイスを前に、ホイルは悔しそうに歯噛みする。
睨み合う二人に向かって、アナスタシアは一歩踏み出した。
「ホイル、好きなだけ殴ってもいいわよ。王女に対する侮辱罪でも適用してやるから。でも、いちおう殺さない程度にね」
アナスタシアはホイルに許しを与える。
これまでチェイスは、王女であるアナスタシアを侍女と決めつけ、絶壁と罵ってきたのだ。十分に罪に問えるだろう。
「王女……? 絶壁のくせに何を……いや……まさか……そんな……」
馬鹿にするようにアナスタシアを眺めてきたチェイスだが、ここにきて初めてアナスタシアの顔に視線を向ける。
そして、その目が驚愕に見開かれていった。
「その顔はまさか……式典で見た……拳姫……!?」
動転した叫びをあげるチェイスに、アナスタシアは色々な意味で頭を抱えたくなる。
どうやらセレスティアの魔術姫の称号を授けられたとき、式典の場にチェイスもいたらしい。これまで胸だけで判断して、顔を見ていなかったようだ。
しかも拳姫とは何のことだろうか。アナスタシアは魔術姫だ。
「そんな……王女だと……そんなことがあってたまるか……この僕が……」
チェイスは虚ろな目をしながら、ぶつぶつと呟く。
その体全体が、一瞬歪んだようだ。
「ホイル、離れて!」
咄嗟に、アナスタシアは叫んだ。
あっけにとられたような顔をしながらも、ホイルは言われたとおり、チェイスの胸ぐらをつかんでいた手を離して、突き飛ばした。
ホイルを止めようと抱き着いていたレジーナも、すぐに反応して手を離し、ホイルと共にチェイスから距離を取る。
「ありえない……ありえない……」
すると、チェイスが二回りほど膨れ上がった。
全身を黒い体毛が覆いつくしていき、自慢の顔も体毛で見えなくなってしまう。
チェイスは全身が毛むくじゃらの魔物となってしまい、さらに周辺にチェイスの腰ほどまでの大きさの、毛玉に似た魔物がいくつも出現した。






