119.マルガリテスへ
エリシオンが語った内容はあまりにも壮大すぎて、場は静まり返る。
ベラドンナはまったくついていけないようで、ぽかんとした表情だ。
イゾルフもただならぬことが起きているようだとは思っても、実感はわかないのだろう。難しい表情で黙り込んでいる。
理解しているのは、これまで魔族の動きを追ってきたアナスタシアとブラントの二人だけのようだ。
「とはいえ、いくら空間を遮断して瘴気で満たしたところで、神龍が目覚める条件にはまだ届かぬ。目覚めさせようとしている輩も、詳しい条件は知らぬはず。おそらくは試行錯誤しているのだろう」
続くエリシオンの言葉に、アナスタシアは少しだけ胸を撫で下ろす。
油断できる状況ではないが、まだ取り返しのつかないことにはなっていないようだ。
もしかしたら、ジグヴァルド帝国がセレスティア聖王国に攻め込んだことも、マルガリテスを得るための魔族の策略だったのかもしれない。
セレスティア聖王国を王妃デライラを通して操っていたことも、ジグヴァルド帝国に魔族が絡んでいることも、全てがマルガリテスで神龍を目覚めさせるためだったのだろうか。
ようやく魔族の目的らしきものにたどり着いたが、アナスタシアの前回の人生における知識でも知らないことばかりだった。
かつては魔王が諸悪の根源としか思っていなかったが、当時も裏ではこういった魔族の動きがあったのだろう。
真相に気づかず、間違った道を突き進んでしまった、かつての勇者パーティーのことを思うと、アナスタシアは寒気すら覚える。
ただ、当時も神龍のことなど知らないまま、旅の終わりを迎えたのだ。
今から約三年後の時点で神龍は目覚めていなかったのだから、現在もおそらくはそこまで切羽詰まった状況ではないと予想できた。
とはいっても、当時とは状況がかなり違うため、安心はできない。
「これまで殴ってきた連中は、黒い翼の魔王のことしか目的を知らぬようだった。神龍のことなど出てこなかったが……操っている奴がおるのかもしれん。魔族など、考えるよりも先に殴るような連中だからな。操りやすいことだろう」
緊迫感の漂う場ではあったが、アナスタシアとブラントは顔を見合わせて、つい苦笑してしまう。
魔族の王であり、考えるよりも先に殴るエリシオンが言うと、とても説得力のある言葉だ。
「何にせよ、神龍の眠る湖をこのままにはしておけぬ。儂は今から向かうことにする。これは儂の仕事だろうからな」
エリシオンはため息をひとつ漏らすと、地図の置かれたテーブルから離れた。
その姿は、威風堂々とした魔王のものだ。
これまでエリシオンが動いていたのは私怨や、ブラントの祖父としてといった、個人の事情によるものだった。
だが、今回は魔王として動くというのだろう。
「おじいさま……」
ブラントが眉根を寄せて呻く。
今の状況に居ても立っても居られないのと、エリシオンに対する心配とが入り混じっているようで、その表情は暗い。
だが、足手まといになるかもしれないと思い、ついていくとは言えないのだろう。
アナスタシアも同じ気持ちだった。
本当は一緒についていきたいが、エリシオンが魔王として動くというのなら、邪魔になってしまうだけかもしれない。
「ふむ……」
エリシオンはブラントとアナスタシアを見て、しばし考え込む。
「そうだな……ブラント、アナスタシア。いざという時のために、そなたたちも来るがよい」
思いがけない言葉が、エリシオンから発せられた。
アナスタシアもブラントも、驚いてエリシオンを見つめる。
「だが、儂の後ろにいろ。勝手に前に出ることは許さぬ。よいな」
「はい……」
威厳を滲ませたエリシオンの命令に、アナスタシアとブラントは頷いた。
「……マルガリテスは閉鎖されていますが……いえ、天人ならばそのようなこと、関係ないのでしょうね。ええと……私ごときには状況が理解できませんが、とにかくお気をつけて……こちらのことはやっておきますので、ご心配なく」
まだ混乱しているような様子で、イゾルフが口を開く。
それでも自分の仕事はきっちりこなそうとするあたり、有能さが滲み出ているようだ。エドヴィンからどんどん仕事を押し付けられるだけのことはある。
「では、行くか」
エリシオンはアナスタシアとブラントの肩に軽く手を触れる。
そして【転移】を使った。
さすが魔王だけあって、アナスタシアとブラントを同時に運べるようだ。
次の瞬間、アナスタシアは息苦しさに襲われる。
周囲に瘴気が渦巻いているのだ。
靄のように辺り一面を覆っていて、はっきりと目に見えるまでに濃い。
このままでは立っていられないと思い、アナスタシアは術式を構成しようとするが、それよりも早く周辺の視界が開けた。
息も普通にできるようになり、瘴気から遮断されたようだ。
「これは、予想よりひどいな」
ぽつりとエリシオンが呟く。
エリシオンが瘴気を遮断する結界を張ったらしい。
どうやら、すでにマルガリテス内部にいるようだ。エリシオンは一瞬にして、マルガリテス内部まで転移したのだろう。
「ここが……マルガリテス……?」
今いる場所は平坦な道のようだが、瘴気の靄で遠くの様子がよくわからない。
湖があるはずだが、どこだろうとアナスタシアが思っていると、遠くからざわめきのような音と、悲鳴が響き渡った。






