116.混乱のどん底
夕方になり、イゾルフが屋敷に戻ってきた。
もう一人顔を隠した男性を連れていたが、屋敷に入ると彼は顔を晒す。
そこに現れた顔は、第三皇子エドヴィンのものだった。
「……まさかアナスタシア姫が来るとは思わなかった。本来ならば皇城に招きたいところだが、状況が許さない。このようなところに押し込めてしまい、申し訳ない」
「い……いえ、突然押しかけてきた私のほうが悪いのですから、お気になさらないで下さい」
いきなり謝罪されるとは思わず、アナスタシアはやや怯みながら答える。
「それも、返還反対派の連中が暗殺者など送り込んだせいだろう。だが、返り討ちどころか、取り込んだと聞いた。さすがアナスタシア姫だ。間に合わなかった、どこぞの無能とは違う」
「……殿下、そこまで自分を卑下なさらなくても。確かに殿下の対応が遅くて、暗殺者が姫さまを襲うまでに間に合いませんでしたが、殿下が無能とまでは……」
アナスタシアを褒め称え、イゾルフに辛辣な眼差しを向けるエドヴィンだったが、しっかりと反撃された。
白々しく気遣わしげな眼差しを向けるイゾルフを睨むと、エドヴィンは咳払いをする。
「ドイブラー伯爵たちが黒幕だそうだな。元から後ろ暗いところのある連中だったが、この際、徹底的に潰す。連中さえ片付ければ、マルガリテス返還は叶うだろう」
エドヴィンは何事もなかったかのように、話を元に戻した。
「ただ……昨日から連中の姿を見かけていない。それまでは返還反対だとうるさく喚いていたのだが……もしかしたら、何か企んでいるのかもしれない」
「まさか、暗殺失敗をすでに気づかれて、ベラドンナの裏切りについても知られていたとしたら……」
黒幕であるドイブラー伯爵たちの姿を見かけないという話に、アナスタシアは背筋が冷たくなっていく。
もしベラドンナの裏切りまで暗殺組織に知られていたとしたら、彼女の扱いはどうなってしまうのだろうか。
「さすがに、まだ気づかれてはいないと思うが……」
「今日の時点では、あの暗殺者も無事なようでしたよ。便りがありましたから。組織内部で別の重要案件が出たらしいです。詳しくは明日、直接顔を合わせることになっているので、そのときに話すとのことです」
エドヴィンの呟きを肯定するように、イゾルフが説明する。
どうやらベラドンナの裏切りが発覚したわけではなく、別の何かがあったらしい。
もっとも、ベラドンナが泳がされているという可能性もある。
だが、ドイブラー伯爵たちのアナスタシアに関する情報は古かったり、微妙に間違っていたりと、不確かなものだった。
この短期間で暗殺失敗を知り、ベラドンナの裏切りまでたどり着くかというと、考えにくいだろう。
「そうだ、暗殺対策として毒見の指輪を持ってきた。毒を感知すると色が変わる。物によってどれくらいの種類の毒を感知できるかが違うが、これは大体の毒に反応するはずだ」
自慢げに、エドヴィンがずっしりとした重量感のある指輪を取り出す。
武人であるエドヴィンの指には似合いそうだが、アナスタシアの一見たおやかな指には武骨すぎる。
「それ、殿下が普段お使いの物ですよね。ご自分のはどうするんですか。大体、姫さまにそんないかつい指輪は似合いませんよ」
そこに、呆れたようなイゾルフの声が響く。
エドヴィンは余計なことを言うなというように、イゾルフを睨みつけた。
「……他の物もある。見た目がどうであろうと、毒見はあったほうがよいだろう」
やや気まずそうに、エドヴィンはアナスタシアに視線を戻す。
「お気遣い、ありがとうございます。でも、私もそういった魔道具は持っているので大丈夫です」
アナスタシアがそう言って腕輪を見せると、エドヴィンは納得したように頷いた。
「そうか。姫も持っていたか。どの程度の性能だろうか?」
「毒は無効化しますね。毒に限らず、危険が迫ったときには色が変わります。あと、攻撃をそらすなど、守りの効力もありますよ」
エドヴィンの質問に対し、ブラントが淡々と答える。
すると、エドヴィンが一瞬、言葉に詰まった。
「……それは、古代の遺産か?」
「いえ、俺が作りました。最近、魔道具作りも練習しているので」
「もはや、何でもありだな……」
呆れ返ったように、エドヴィンが呟く。
「マルガリテスが返還されたら、よろしければ殿下にもお作りしますよ。俺たちの結婚を応援して下さったお礼として」
「……そうだな。そのときは頼もう」
エドヴィンはほんのわずかに悔しそうな表情を浮かべたが、すぐに打ち消した。
落ち着いた声で、鷹揚に答える。
「さて、それでは私は戻る。また明日来るつもりだが……アナスタシア姫、全て片付けば皇城にも来てほしい。ファティマ叔母上ゆかりの品も残っているはずだ」
「はい……」
母の名が出たことに驚きながら、アナスタシアは頷く。
しかしながら、アナスタシアの母ファティマはジグヴァルド帝国の皇女だったのだ。ゆかりの品が残っていても、不思議ではないだろう。
これまであまり意識したことはなかったが、この国は母の生まれ育った国なのだ。
母ファティマは、アナスタシアが物心つく前に亡くなったので、記憶はない。
だが、こうして母の生きていた証があるのだと示されると、感慨深さがこみあげてくる。
政略結婚で知らぬ地に嫁ぎ、嫁ぎ先では冷遇されて、若くして亡くなった母のことを思うと、アナスタシアは胸が痛かった。
翌日になり、イゾルフがベラドンナと直接顔を合わせるというので、その結果次第でこれからのことを決めようとなり、アナスタシアとブラントは屋敷で待つ。
しばらくして、イゾルフが戻ってきた。
そこにはベラドンナと、エリシオンの姿までがあり、アナスタシアとブラントは混乱する。
「ブラントにアナスタシア。そなたたちも来たのか」
相変わらず堂々としたエリシオンは、さほど驚いた様子もなくそう言った。
アナスタシアとブラントは、思わず顔を見合わせる。
確か、エリシオンは魔族を締め上げに行ったのではなかっただろうか。
それが何故、ベラドンナと一緒にいるのだろうか。
まさか暗殺組織を壊滅させようとしたときにベラドンナと会い、事情を聞いてやってきたということだろうか。
アナスタシアの頭を色々な思いが駆け巡る。
「……あたしが戻ったら、このおじいちゃんが女を侍らせての宴会の真っ最中だったの。まさかと思ったけれど……やっぱり、お姉さまが言っていたおじいちゃんだったのね……」
ベラドンナが口にした言葉は、アナスタシアとブラントをさらなる混乱のどん底へと叩き込んだ。






