115.嵐の前の静けさ
準備を整え、アナスタシアたちはジグヴァルド帝国へと旅立った。
アナスタシアとブラントはイゾルフの部下の魔術師という設定で、フード付きのローブを纏い、顔を隠しながら進む。
国境を越えるときもイゾルフの部下ということで、怪しまれることもなくすんなりと通ることができた。
イゾルフが第三皇子エドヴィンのお抱え魔術師ということは知っていたが、実際のところはどれくらいの地位になるのか、アナスタシアはよく知らなかった。
国境の兵士の丁寧な態度からしても、意外と地位が高いのかもしれない。
お抱え魔術師だということも知らないはずのブラントは、彼をお付きの一人で使い走りくらいにしか思っていなかったのか、アナスタシア以上に驚いているようだ。
「……私は学院卒業後、帝国の宮廷魔術師になって、そこからエドヴィン殿下付きになったので、そこら辺に落ちていたのを拾われたわけじゃありませんからね。いちおう男爵位も持ってますよ」
アナスタシアとブラントの視線に気づいたのか、イゾルフは苦笑しながら説明する。
どうやら予想以上にエリートだったらしい。
「その割に泥臭い仕事ばかりしているのは、エドヴィン殿下の人使いが荒いからですよ。私は魔力量があまり多くないんで、補うために格闘やら色々やってたら目をつけられてしまいましてね……」
イゾルフは盛大なため息と共に、そう吐き出す。
「それでも、エドヴィン殿下は私にとって唯一の主君ですからね。命を救って下さった姫さまへの感謝を忘れたことはありません。姫さまでなければ、あの深手を治療することなどできなかったでしょう」
以前、エドヴィンが魔物と化したディッカー伯爵によって深手を負ったとき、アナスタシアは禁呪も使用して治療したのだ。
確かにあれはアナスタシアでなければ無理だっただろう。
前回の人生では魔物との戦いで命を落としたエドヴィンが救われたことにより、アナスタシアは未来を変えられると希望を抱いた。
ただ、当時エドヴィンが命を失ったのは、魔物の大発生が発端となった戦いで、大発生の原因は結局不明のままだった。
今回の人生でも、魔物の大量発生の原因を探すことを、目標のひとつとして最初に掲げている。
しかし、魔族が何か関わっていそうだと思いつつ、結局わからないまま今に至っているのだ。
エドヴィンのことも、一度救われたからといって気を抜かないほうがよいのかもしれない。
ふとブラントの様子を窺ってみれば、彼もイゾルフの言葉で何かを考え込んでいるようだった。
アナスタシアは気を引き締めていこうと己に言い聞かせ、一人頷いた。
やがて帝都にたどり着き、イゾルフによって郊外の小さな屋敷に案内された。
やや裕福な商人の屋敷といった風情で、周辺にも似たような屋敷がある。
エドヴィンが名前を隠して所有している屋敷だそうだ。
「こちらでお待ちください。食料などもあるはずなので、お好きに使って下さい。私は色々と報告したり連絡したりすることがあるので、失礼します」
慌ただしくイゾルフは去っていった。
アナスタシアとブラントの二人が残されると、ブラントはほっと息をつく。
「どうやら今のところ、特に事件は起こっていないみたいだね。爆発炎上くらいしているかと心配していたけれど、大丈夫そうで安心したよ」
あまりといえばあまりな感想だったが、アナスタシアも街中を通りながら、似たような思いを抱き、胸を撫で下ろしていたのだ。
苦笑しながら、頷く。
「とりあえず殴るか、吹き飛ばしてしまえっていうくらいの大雑把さを感じますからね……」
「そうなんだよね……何をしでかすかわからないから困るんだよね。さて、また繋がるか試してみるか」
ブラントは通信用の魔道具を取り出し、エリシオンに繋ごうと試みる。
しかし、応答はないようだ。
ここに来るまでの道中でも何回か試してみたのだが、結局反応はなかった。
どうやらこの魔道具は、通信を受け付けないよう遮断しておくこともできるらしい。おそらく、行動の邪魔になるので一時的に遮断しているのだろう。
「やっぱり駄目か……」
ため息を漏らしながら、ブラントは通信を打ち切った。
「先に帝都入りしているはずのベラドンナが証拠を集めるまで、組織を壊滅させるのは待っていてほしいのですけれど……通信が繋がらないっていうことは、その真っ最中なのでしょうかね……」
破壊活動に勤しんでいる最中だとしたら厄介だと、アナスタシアもため息をつく。
「何にせよ、しばらく待つしかないか……。あと、おじいさまの件が片付いたら、マルガリテスも一度見ておきたいな」
「そうですね。せっかく帝国まで来たのですから、どういう状態なのか実際に見ておきたいですね」
「資料によれば、かつては夏に龍神祭りが行われて、湖の魚料理が振る舞われていたってあったけれど、今は湖の魚も獲れなくなっているんだろうな……」
「瘴気に覆われているそうですからね……。私は龍の飴細工が名産品だったっていうのを見て、気になっていたのですけれど……早く元通りにして人々も帰れるようにしてあげたいですね。魚料理も食べてみたいですし」
新鮮な魚を使った料理は、さぞ美味しいことだろう。
普段はせいぜい干し魚で、なかなか新鮮な魚を食べる機会はない。
そうして魚料理に思いを馳せていると、ブラントがアナスタシアの様子を見て、くすりと笑った。
「アナスタシアさん、お腹空いている?」
「……少し」
照れくさくなりながら、アナスタシアは小声で答える。
「食料もあるって言っていたよね。じゃあ、探しに行ってみようか」
ブラントから差し出された手を取り、アナスタシアは一緒に歩き出す。
嵐の前の静けさともいうべき、穏やかな時間だった。






