138話 船をこぐより泳いだほうが速いから
半月後。ゾルタン港区。
ゾルタンの港は河口付近に作られた、他の街に比べれば小さなものだ。
小型の貨物船なら港から伸びる桟橋の近くまで入港できるが、大型船や何百人もの軍人を運ぶ軍用船となると、川には入れず洋上に停泊するしかない。
洋上ではたくさんの小さなこぎ舟が、資材を積んで河口からさらに離れた海の上に浮かんでいるリリンララの軍用ガレー船へと向かっている。
「大変そうだな」
「毎度の事ながらひどく骨の折れる仕事だよ。こうして外からみるとよくアレで作業ができるもんだと感心する」
俺の言葉に、リリンララはそう言って答えた。
「洋上で船を整備するなんて、魔法も使わずよくできるもんだ」
「魔法やスキルを使う事で、船が勝手に直ればいいんだけどね」
リリンララの軍船は人間が動かす櫂を動力源とするガレー船。喫水が浅く、海が荒れることに弱い。
ヴェロニアからゾルタンまでという航海を続けた船は、帰途につく前に一度しっかりとした整備が必要だった。
「で、本来ならあそこで額に汗浮かべて指揮をしているサリウス王子と一緒に手伝うべきあんたが、なんでこんなところで呑気に釣りなんかしているんだ?」
リリンララは、忙しそうに仕事をしているヴェロニア兵達から離れた港の隅っこで釣り糸を垂らし、のんびり……というよりぼんやりと釣りをしていた。
「サリウスには私の船長としての知識をすべて叩き込んだ。あいつなら今からでも歴史に名を残す大海賊になれるさ。何の問題もない」
「王子が海賊にか? ゲイゼリクとは逆だな」
「はは、逆か。そうだな」
「で、話を戻すが、なんでそんな気の抜けた顔してるんだ」
リリンララはゆっくりとこちらを向いた。
片目に走る大きな傷を眼帯で隠しているリリンララの顔は随分と迫力があったはずだが、今は力の抜けた表情をしている。
今のリリンララに比べたら、まだおでん屋のオパララの方が迫力を感じるほどに頼りなく見えた。
「わざわざそれを言うために私のところへ来たのか?」
「まぁな」
「お節介なやつだ」
俺は露骨に嫌な顔をした。
「俺だって何が悲しくて、俺の何倍も生きていそうな伝説の海賊を慰めなくちゃならんのだと、少しうんざりしてるんだぞ。大体あんた俺のこと殺そうとしたし」
「捕まえようとしただけさ。まったく面白いやつだねぇ。だったら放っておけばいいだろう」
「ヴェロニアに戻らずどこか別の町でのんびりスローライフでも送るつもりならとやかくは言わんが、あんたはこれからヴェロニアに戻って王位継承戦に敗れたサリウス王子の立場を守らなくちゃならない。その上、魔王軍につこうとしているヴェロニア王国を変える、つまりは内戦を起こすってことだ。敗色濃厚な状況からの撤退戦も、同胞同士で争う内戦も、心をすり減らすような戦いだ」
「知ったような口だな。その若さで一体どれだけの経験を積んできたんだ」
「俺のことはどうでもいいだろう」
「いいや興味がある」
リリンララの片目に少し力が戻ったように見えた。
困った、本当に余計なことをしてしまった予感がする。
「別にお前の正体を交渉の手札にしようとも、誰かに伝えようとも思っていない。これは個人的な興味だ」
リリンララは俺の腕を掴むと、ぐいと引き寄せた。
「大体なレッド。貴様、人のことを言える面か?」
「失礼な」
「貴様ほどの男が、なぜそんな穏やかな顔をしていられる。英雄なんてものは見果てぬ夢を追いかけて、いつもどこか張り詰めた糸のような表情をしているものだ。その身に宿す加護が、尽きることのない野望の泉を英雄の精神に注ぎ込み続けているもんじゃないか?」
「そんなことを言われてもねぇ。予備の糸と針を分けてくれ」
「別にいいが、釣り竿の予備はないぞ」
俺はリリンララの隣に腰掛けると、銅の剣を鞘ごと抜き、鞘の先端に空いた穴に、糸と釣り針を結びつけた。
「便利だろう?」
「いや、そんな、撓りもしない剣の鞘じゃ釣り竿の代わりにはならんだろ」
「魚を釣るのには向かないかもしれないが、こうしてのんびり川を眺めながら時間を潰すには十分だよ」
「人間の人生は短い。だからこそ命を燃やし短い生でハイエルフにも劣らぬ偉業を成し遂げるのだと、我々は認識しているが」
「誰もが偉業のために生きるわけじゃない。自分や自分の周りの大切な人達が幸せになれば、それでいいと思うやつだっている」
「それがお前だと?」
「こうして釣れない魚を待ちながら、のんびり川の流れを眺めているのも悪くない。釣果という偉業を果たせなくても、釣りをしている時間の楽しさは変わらないだろ」
リリンララは肩をすくめた。
俺は苦笑して、リリンララの釣り糸の先を指差し言う。
「それを言ったら、餌を取られたままいつまでも釣り竿垂らしているあんたはどうなんだ?」
「なに?」
リリンララが竿を持ち上げると、そこには餌を取られた針がふらふらと揺れていた。
リリンララは顔をしかめ、新しく餌のミミズを針に刺す。
「50年前の海賊時代を代表する大海賊が魚に餌を盗まれるとは」
「海賊がみな釣り上手なんていうのは偏見だぞ。そういうのは海戦向けの加護のやつが、水中視界を確保するために仕方なく取るもんだ。私みたいな『海賊』の加護持ちは戦闘に加えて、操船関係のスキルが必要で“釣り”や“漁”スキルなんてとっている余裕があるものか」
ポチャンと川面にリリンララの釣り針が落とされた。
釣り針は川の中でゆらゆらと揺れている。
俺達は並んで一向に引かない釣り竿を、ぼんやりと川を眺めていた。
やがて、リリンララはポツリとつぶやく。
「もし、私があの時、なにもかも打ち明けていればこんなことにはならなかったのだろうか」
「あの時って、ミスフィアがヴェロニアを去る前のことか?」
「そうすればミスフィアはサリウスを受け入れ、レオノールの陰謀は成らなかった。何もかも上手く行ったのではないか、今更ながらそう考えてしまう」
「それで、今ヴェロニアに戻って戦うという選択が正しいのか不安になったってことか」
「そんなところだ。考えていても仕方がないし、今更逃げるべきだと言うつもりもないが。また後悔することになるのではと思うと、どうしても未来から目を背けたくなる」
「まぁ、全部が全部正しい選択をできるわけでもないが……今のミスフィアが受け入れられたからといって、昔のミスフィアが受け入れられたと言い切れないだろう」
今のミスフィアは当時の絶望から十分な時間が経っている。
このゾルタンでミストームと名を変え、冒険者として、魔術師ギルドの長として、そして市長として富も名声も……もちろんゾルタンの基準ではだが、そういった時間を十分過ごしたあとなのだ。
リリンララは、ミスフィアが毒で子供を産めなくなったことを伏せていた。サリウスを預けたのには、レオノールに子供が生まれる前に世継ぎを用意しなければならなかったという建前と、今後子供が生まれる可能性という希望があった。
かつて追い詰められていた頃のミスフィアに、本当のことを伝え、リリンララとゲイゼリクの子供を自分の子供として育てるように言って、果たして受け入れられたのだろうか。
「俺は、ミスフィアとあんたが致命的な決裂を起こしていた可能性も高かったと見ている」
「……かもしれないな」
「それになにより、ゲイゼリク王が問題だ」
「ゲイゼリクが?」
「ゲイゼリクは『帝王』。希少な加護で情報が少ないから確かなことは言えないが、おそらくは40年前の時点ではサリウス王子を受け入れたりはしない」
「ゲイゼリクと会ったこともない貴様がなぜそう言い切れる」
「あの時必要だったのは王家の血を受け継いだ世継ぎだ。ゲイゼリクの血じゃない。ゲイゼリクがサリウス王子の出自を知れば、必ずレオノールの子を優先する」
「ゲイゼリクは情の厚い男だ。ゲイゼリクが黙っていれば問題にはならない。ならばゲイゼリクがレオノールを選ぶ理由はないはずだ」
「『帝王』がそれを許さないだろうさ。『帝王』の加護を持っていたとされる前例は、アヴァロニア王国を建国したロベール王だけだが、ロベール王の晩節は、賢明な英雄だったころの面影無く、猜疑心から功臣や自分の息子でさえ次々に追放や処刑している。『帝王』は自分の王の地位を維持することを何よりも優先するという衝動もあるんだろう」
「ゲイゼリクがそうとは限らん」
「程度の差はあるが、ゲイゼリクも加護の衝動に屈しているはずだぞ」
リリンララは眉をひそめ、俺を睨んだ。
「あくまで予想だがな……だが、もし加護の衝動を抑えられるなら、レオノールと関係を持ったりはしないだろう」
「…………」
リリンララは憮然とした表情を浮かべていたが、反論はしてこなかった。
俺は小さくため息を吐き、できるかぎり明るい言葉で話を続ける。
「まぁそういうわけだから、過去を後悔しても仕方がない。手を抜いたのならともかく、その時最善だと思う選択を続けてきたんだろ? だったらそれも人生だ」
「正しかったかどうかなどデミス神のみぞ知ることか……そうだな、くよくよ考えても仕方がないと割り切るべきか」
リリンララは素早く釣り竿を持ち上げた。
釣り上げられたフナがピチピチと身をくねらせている。
「くく、私の方が先に釣れたな」
「そんな軽口が叩けるならもう大丈夫だろう」
やれやれ。
「今度からはサリウス王子と相談してくれよ、まぁもうすぐゾルタンから離れるんだろうけど」
「もしかしてサリウスから頼まれたのか?」
リリンララの言う通り、昨日の夜に俺は、サリウス王子からリリンララの様子を見てくれと頼まれたのだ。
これまでずっとサリウス王子を守り導いてきたリリンララの苦悩や迷いに、どう接すればいいのか、サリウス王子にはまだ分からないのだろう。
そのことを相談しようにもここにいるサリウス王子の知り合いはリリンララの部下ばかり。彼らもリリンララを慕ってはいるが、リリンララに従うことが当然だと刷り込まれた軍人か海賊だ。
というわけで、俺がこうして励ますことになってしまったのだった。
まぁいいんだが、リリンララはもちろん、サリウス王子も俺よりずっと歳上なんだけどなぁ。
「レッド、貴様実は」
俺の顔をじっと見ていたリリンララがつぶやいた。
「うん?」
「妖精かなにかで私より歳上だったりはしないか?」
「するわけないだろ」
人間の何倍もの寿命を持つハイエルフ、しかもリリンララはハイエルフとしても若くはない年齢のはずだ。見た目は変わらないけど。
そんなリリンララから歳上を疑われるとか、大人びているというレベルではない。
「くくっ、冗談だ」
リリンララは楽しそうに笑っている。ほんの半月前に、お互い敵として命のやり取りをしたとは思えない態度だ。
ハイエルフは相手が信頼できると分かると態度が変わる。
どうやらリリンララの信頼のラインを越えてしまったらしい。
「サリウスも貴様のことを気に入っていたようだが……どうだ、私達は嵐に遭って沈みかけの船だが、もし嵐を乗り切れば財宝も名声も思うがままだぞ。貴様なら公国の王の座すら手に届くだろう……私の船にこないか?」
「遠慮しておく。俺はゾルタンの暮らしが好きなんだ」
「即答か、残念だ……お、貴様の釣り竿、引いているぞ」
「ああ、なんか大物がかかったような……ぐ、重い」
俺の剣の鞘に結ばれた糸がピンと張っている。
撓りのない鞘では、糸にかかる衝撃を緩和できないので魚が暴れるとすぐに切れてしまうだろう。
動きに合わせた竿さばき……ではなくこの場合は鞘さばきが必要だ。
「だからちゃんとした釣り竿を使えと!」
リリンララの言葉にちょっとだけそうかなと思ったその時、俺は川の中に青い影を見た。
うーん、あれは。
「……いや、その、これ」
俺はぐっと両手に力を込めて持ち上げると。
「じゃーん」
糸を掴んで水面に浮かび上がってきたのは、何やらポーズをとっている微表情の少女だった。
「な、貴様は!?」
さすがのリリンララも心底驚いている様子で、口をパクパクさせている。
まぁそうか、船を扱うスキルは持っていないから泳いだほうが速いもんな。
「タオルはいるか?」
「大丈夫」
俺の言葉に少女は首を横に振る。
驚き戸惑うリリンララの姿を見てなぜか満足そうにしているその青い髪の少女は……俺の妹であるルーティだった。
川から上がると、ルーティは息を吸い込み、ぐっと身体に力を込める。
パン!
なにか破裂したような音と共に、水気が細かい蒸気となって消し飛んだ。
「これでよし」
ルーティは服や身体が完全に乾ききったことを確認すると、思考停止しているリリンララへ。
「ヴェロニア海軍がやってきた。ゾルタンまで、大体あと16時間くらい」
淡々と、そう告げたのだった。




