王子に近付こうとした令嬢がもたらした事
※物理的に人が傷付けられます。
ある一人の女子生徒が学内で切りつけられて重傷を負ったという話は瞬く間に広まった。
その令嬢はとある男爵家の庶子で、平民から貴族社会に足を踏み入れてまだ一年も経っていなかったという。
男爵家で教育をきちんとしておかなければならないのだが、学園には平民向けの男爵家相当の礼儀作法講座があるのでそこで学べばいいと言う、ある意味甘ったれた考えがあった。
その令嬢は貴族になったのだと浮かれ気分で調子に乗っていた。奇しくも下級貴族や平民の間で、身分差を越えて下位貴族の令嬢が高位貴族の令息と結ばれる下克上の物語が人気を博していた。
その令嬢は自己投影して、この主人公は私だわ、と思い込んで学園内にいる高位貴族の令息に猛烈なアタックをしていた。
本来ならばそこで令息が彼女を拒絶すれば良かったのに、毛色の変わった珍獣で遊ぶことにした令息達がこの令嬢を持て囃した。
彼らの婚約者は趣味が悪いし無知な令嬢が憐れだったので、親切心で彼らから離れる事を勧めたのだが、肝心の令嬢が「悪役令嬢も必死ね。私に取られたくないんでしょ?女として負けたくないって?ふふ、選ばれたのは私よ!」と上から目線だったので早々に手を引いた。
令息達がこの令嬢を選ぶはずが無いことを分かっていたが、当の本人が分かっていないのに勝ち誇って高位貴族の令嬢を貶したのだ。
恩には報いるが、屈辱には社会的な死で返すだけだと放置した。
調子に乗った令嬢は、侯爵家の令息では我慢出来なくなった。目指すならば頂点。物語でも見たことの無い、王族の妃、それも王妃になるしかない、と。
それ故に、偶々学園に公務の一環でやってきた、立太子の儀を控えた第一王子を目にして駆け寄ったのだ。王子の目の前で転んだら、きっと助けてくれるはず、と。
物語ではそんな出会いがよくあったから。
物語は所詮物語でしかないのに、令嬢は自己投影していたから現実を見ていなかった。
王子に辿り着く前、転ぶ前に令嬢は王子の護衛騎士に切り伏せられた。当然だ。王子はこの学園の生徒ではない。厳重に守られた未来の国王だ。そんな王子に無礼にも近付いた令嬢が暗殺者でない保証はどこにもなかった。
この国の頂点たる王族、それも間もなく王太子となる王子を前に、礼節を弁えた令嬢はまず深く頭を下げる。そうして王子から許可を得て話す事ができるし、距離もそれなりに離れてお互いに立つ。それがマナーだからだ。
それが出来なかった令嬢は血を撒き散らしながら地面に倒れていた。息が出来ない。痛い。なんで。たすけておうじさま
震える手で救いを求める令嬢に王子の冷たい視線が注がれる。
「なんだ、これは。私の目の前からどけよ。穢らわしい」
王子は平民相手でもここまで嫌悪を表さない。平民は貴族を恐れ王族に対しては近付いてはならないと言い含められて育つので、目の前で粗相をするということもないから王子も寛大な気持ちで対応する。
ここまで無礼な対応をされたのは初めてだと怒りを露わにする王子の視界から排除するように、令嬢は物を運ぶような感覚で学園内を警備する騎士に牢へと放り込まれた。
学園にも一応は地下牢がある。たまに仕出かした学生が放り込まれるのだが、滅多にないことなのでそこそこに汚い。
大怪我を負った令嬢は学園の医師に応急手当を施され、連絡を受けた男爵が慌てて迎えに来るまでそこに居た。
男爵は王子から問われた。
「教育を何故家でしなかった? 学園で平民向けに開かれる礼儀作法講座は、優秀な平民が貴族相手に誤った対応をせぬように教えるもので、意欲のある彼らの為のもの。貴族として迎え入れたのであればまずは家で教えるものだろう」
男爵は思い違いをしていた事実に震えた。貴族が通う学園に平民ながら入学を認められた者は基本的に優秀なのだ。学ぶ機会を最大限に活かそうと、無理をしてでも学ぶ意欲がある。
対して男爵の娘は平民から貴族になった。それだけ。貴族であれば無条件に入学が許されるからと入れたことがそもそもの間違いであった。
「話を聞けば、言わずともわかる爵位の違いすら理解していなかったようだな。確かにそなたの娘を持て囃した令息にも問題があるが、近寄ったのはそなたの娘からと言う。親切にも彼らの婚約者が酷い目に遭う前にと忠告したにも関わらず、そなたの娘は令嬢達を侮辱した。証言と証拠がある。分かっていると思うが、高位貴族の令嬢達を男爵家の庶子が侮辱して何も無く済むと思うか?」
そんな事はありえないと男爵は震えが止まらない。厳格な身分制度のある国で、遥かに上の身分の令嬢に礼を尽くすどころか非礼をするなど。
「そなたの娘は突如私の前に飛び出してきた。私の護衛騎士は私を守る事が仕事だ。当たり前の事をなぜそなたの娘は理解していない。そんな者を何故入学させた」
男爵がまだ若い頃に手を付けたメイドの子供。娶った妻は子が出来ずにいて離婚する事になり、急に辞めたメイドの行方を追えば子供が出来ていた。だからと二人を引き取ったのだが、それが間違いだったのか。
「まあ良い。令嬢達の家とのやり取りはそなたの仕事だ。あとは適切に対応せよ」
貴族間の揉め事に王家は口を出さない。国を揺るがしかねない案件ならいざ知らず、今回は個々で対応出来るものだ。まあ、慰謝料等で家が潰れるかもしれないが、その後の事は役人達が処理するのであって、王子は静観するのみだ。
王子の執務室から出された男爵の足取りは重い。これからの事を思うと、いっそ娘が亡くなっていた方がマシだと思ったからだ。治るか分からない怪我を治療する為の費用に娘が貶した令嬢達への慰謝料。確実に家は傾くだろう。
娘が学園で何をしていたのか男爵は詳しく知らなかった。聞こうともしなかったから。その結果が今、押し寄せている。後悔するには遅すぎたのだ。
「ダニエル様、よろしくて?」
「ハリエラ!待っていたよ」
「あら、嬉しい事を。書類はよろしいのですか?」
「勿論。今は次の会議で提案する議題の見直しをしていたところだったよ」
王子の執務室を訪れたのは彼の婚約者である侯爵令嬢のハリエラ。まだ学園に通う学生で、彼女はそこで令嬢達と交流しながら人脈を広げている。
公爵家には歳の合う令嬢がいなかったので、侯爵家から選ばれたが、中立派で侯爵の人柄も有り大きな反発は無かった。王子自体もハリエラの穏やかな気質を好ましく思っている。
「ダニエル様の護衛騎士が学生を切ったとか」
「声掛けも無く駆け寄られたからね」
「それならば仕方ありませんわね。職務に忠実ですもの。ゴードン卿、ダニエル様を今後もお守りしてくださいませね」
執務室の扉近くに立つ王子の護衛が微かに頷く。
お茶は侍従自らが淹れ、毒味を目の前で済ませた後、二人に提供される。
「助かりましたわ。あのご令嬢は学園内の規律を乱しておりましたの。令息の方も悪趣味な振る舞いをしていましたからね」
ハリエラの溜息はささやかで切実なものだった。学年は違えど同じ敷地内で問題を起こす令嬢。関与が無いからこそ手を出せなかったのだが、まさか王子に突撃するなど想定出来るはずもない。
それこそ、あの場にいた誰もが同じことを思ったはずだ。ハリエラは公務が一段落した王子と昼食を共にするはずだったのだが、知らせに来た教師の助手からその予定が無くなったこと、別室に昼食を用意するのでサロンには向かわないようにと告げられた。
何かが起きたことは簡単に想像はついても何が起きたかを知った時は絶句した。
「婚約者の令嬢方はこちらで手を打ちましたわ。令息方に関してはダニエル様の方でお願いしますわね」
「分かっているよ。考えの浅い者は困るね」
物珍しさから遊んでいたのだろうが、それがあの令嬢を増長させる事になった。厳しい現実を教えていればこうはならなかっただろうに。
「物語は所詮物語。現実には起こりえないからこその幻だと分かっていなかったのでしょうね」
その後、一つの男爵家が潰れ、大怪我を負った娘は満足に動けず家族にとっての負担となった。ある時を境にその娘が居なくなったこと、かつての男爵と後妻がどこかへ姿を消した事を知る者はいない。
また、一人の少女を持て囃した令息達は全員婚約を解消され、それぞれの家で処罰を受けた。平民に落とされた者はいないが、学園は退学し領地に移動して二度と華やかな貴族社会に出てくることは無かった。
王子には護衛がいるし、怪しいものは警戒するけど、あまりにも不用意に近付かれたら咄嗟に切り捨てちゃうよね。
一応殺さないようにはしていたけれど、守るべきは王子なので。
そもそも、とても偉い方に近付こうとする方が間違えてるよね。




