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の奇妙な一日が明けた翌日から、寝ても覚めてもフェリクスに思い出されるのはあの温泉にいた、一糸纏わぬ美しい若い娘の姿だ。
いつもであれば、フェリクスを苛む皮膚の疾患で、全く他の事を考える余裕などないのだが、ここの所少しずつ症状が良くなって、皮膚の事以外を考える心の余裕がでてきた事が仇となっているのだ。
(私は、女を寄せ付けなさ過ぎて、おかしくなっているのかもしれん)
フェリクスは誰もいなくなった夜、豪華な自室で一人頭を抱えてしまっていた。
(・・これでは、まるでこの私が、)
フェリクスにも覚えがあるこの感情。心に浮かんできた次の言葉を慌てて否定する。
完全無欠の王太子と呼ばれていたフェリクスの周りには、常にその隣に立ちたいと願う、美しく高貴な娘達の間で実に優雅な戦争が繰り広げられていた。
フェリクスは恋多き男としても知られていたのだ。
王都で流した浮名の数も数知れず、これからようやく本腰を入れて婚約者を選定という時期になって、忌まわしい皮膚の疾患がはじまった。
離宮にその居を移動させてより、フェリクスは一通の手紙も、甘い時間を過ごした女たちと交わしていない。
完全無欠の王太子・フェリクスに恋をした娘達に、今の姿を見せる事も、今の状態を知られる事も、自尊心の非常に高いフェリクスにできる事ではなかったのだ。
(それに、あれはただの、村娘ではないか・・村娘に妙な気持ちを起こすなど、どうかしている)
フェリクスは頭を抱えた。
あの娘は客観的に見て、特に美しくもなければ、身分もない。魔力すらもない事と聞いている。
この国で一番美しいと呼ばれた娘達、この国で一番才気にあふれた娘達、この国で一番高貴な姫君たちが、こぞってフェリクスの愛を得ようと、その甘い愛を与えようと躍起になっていた。
だが、あのただの村娘のように胸を掻きむしるような苦しみをフェリクスに与えた娘はだれもいない。
あの娘は、フェリクスの周辺にいる、どの娘達にも劣る。
(だというのに、なぜあの姿が目に焼き付いて離れないのだ)
フェリクスは気を紛れさせようと、暗い部屋の明かりもつけず、部屋の隅でゴンゴンと頭を壁に打ち付けてみる。
壁から、バラバラと雷石が落ちてきた。
フェリクスは、今はもう一日に5個の雷石を満タンにできるほどに、成長したのだ。
フェリクスの部屋のこの雷石は、フェリクスの努力のまぎれもない結晶だ。
特に使い道はないが、フェリクスは全てを大切に保管しているのだ。
(いや。ただの村娘、という言い方には語弊がある。もっと厄介だ。あれは高名な隣国のサラトガ魔法泊の平民の婚約者だ。私の治療を担当している、恩ある貴人の婚約者だ)
サラトガ魔法伯ノエルは、フェリクスの目からみても魔術の実力は言わずもがな、統治力にも、政治力にも、胆力にも長けた、実に有能な魔術師の上、あの美貌だ。女王との婚姻が成立していれば、理想的な王配となったであろう。正直アビーブ王国の魔術団にもこれほどの逸材はいないと言える。
だが、エリクサーの完成と引き換えに己の魂を女神に捧げてしまったため、気が少しおかしくなったらしく、下働きをしていた田舎の粉挽きの娘に盲目的に恋しているという噂だ。
(他にも、あの男には、一人で温室でナメクジと話をしている変人だ、など妙な話があったな)
あまり信憑性のないタブロイドの話を信じるようなフェリクスではないのだが、いつも冷静で、フェリクスの前では一部の隙すらもない完璧な貴公子の姿しか見せない男が、この娘の事となると少し様子がおかしいらしいとは家令のメイソンからも聞いていた。
(・・・よりによって)
そう。よりによって、だ。
そんな面倒な男の婚約者である、あの地味な娘の姿が脳裏に焼き付いて、フェリクスを苦しめる。
あの不思議な体験をしたその次の日、あの娘は何食わぬ顔をして、いつも通り温室に出勤してきていた様子だ。
ベスと懇意にしているという家令も、メイドも、そしてノエルもいつも通りだった。
もしもあの娘が、フェリクスが目撃したように実際にあの空間に招かれて、温泉につかっていたのであれば、あれほど平静でいられるだろうか。
(私はやはり、夢をみていたのか)
答えの出ないフェリクスは悶々とする心を落ち着かせる為、離宮に居を移動させて以来随分久しぶりにこの国の建国神話の本を開けてみる事にした。
(神の領域の話が、建国神話にあったはずだ)
王太子教育の一環ではあったが、あまり興味をもたずに聞き流していた建国神話の本を開いてみた。
今になって、この離宮に一人ひきこもってから、だれとも交流を断っている事が堪える。
王宮に住んでいた頃であれば、この不思議な体験について相談ができる夢見の専門家や、魔術師、神殿の学者、大勢いただろう。
フェリクスは、心当たりのページをパラパラとめくってみる。
この国の成り立ちは、一匹の黒い亀がはじまりだという神話がある。
(そうだな、この亀がアビーブ山に雷を落として噴火を防いで、という話だな)
ぱらぱらと読むともなくページを捲る。
フェリクスは皮膚疾患が発症してより、全ての読書も、学問も遠ざけていた。
久しぶりに太古の叡智に触れて、フェリクスの心は踊る。
そうして穏やかにページを繰っていたフェリクスだったが、パラパラと流し読みをしてたどり着いた、温泉の章の伝説のページで、ほとんど息が止まりそうになる。
(・・あの温泉の、あの光景だ!!)
そこの挿絵として描かれていたのは、白い岩肌に囲まれた、霧の森の中の、水色の温泉につかる若い娘の挿絵だったのだ。
人あらざるもの達に囲まれて、一糸纏わぬ姿で温泉につかる、赤茶色の髪をした若い娘。
傷ついた、人ならざる生き物に、慈愛の目を与え、水色の温泉につかる美しい娘。
フェリクスは、震える手で本を握りしめていた。
(あの娘は、一体)
神亀は傷ついたその体を癒しに訪れたその温泉で、人間の娘に出会い、恋に落ち、その結実がこの国の王族の始まりだと、そう建国神話では伝えられている。
神亀と人間の娘の出会いの場面だ。
フェリクスは、居てもたってもいられない思いで部屋中を歩き回った。
脳裏に焼き付いた娘の姿が、鮮やかにフェリクスの目の前に現れて、フェリクスの胸を焦がす。
息が浅くなる。
窓を開けて、星を見た。星の瞬きは王都のそれよりよほどまぶしく、フェリクスはこの離宮に居を移して、はじめてこの地の星の瞬きの美しさに気が付いたのだ。
(・・会ってみよう。そして、確かめてみよう)
冷たい夜風は、フェリクスの肌を悩ませる事はなかった。




