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[書籍化決定・第一部・第二部完結]緑の指を持つ娘  作者: Moonshine
緑の指を持つ娘 温泉湯けむり編

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斜面を転がるだけ転がると、どうやらベスはどこかに止まったらしい。

べスは田舎娘だ。山を歩いていると、よく斜面をすべり落ちる事はあるので、ちゃんと流れに逆らわずに上手に転んだため、少し足を打った打ち身以外は、ケガ一つなく無事に立ち上がった。


パンパン、とよごれたスカートをはたくと、目の前に広がった光景にべスは目を輝かせる。


(・・なんて、綺麗)


そこには、真っ白なアビーブ山脈の岩肌に抱かれた、真昼の空のような、南海の海のような水色の温泉が目の前に広がっていたのだ。あの亀に誘われてやってきた温泉だ。


どうやら、亀が案内してくれた場所とは、別の入り口があったらしい。

前に訪れた時は水たまりのような小さな場所だったが、その奥には広々とした、王都の温泉広場ほど広い天然の温泉が広がっていた。


水色の温泉には、様々な動物がその身を預けていた。


「あ! あなたはここに来たかったのね」


ベスが追いかけていた蛇が、水色の温泉の水面を、ひらひらと心地よさそうに泳いでいるのが見えた。

ウロコとウロコの間の出血はどうやら止まっているようにみえた。


他にも、角が折れた白い鹿。翼が曲がったフクロウ。はては、瀕死のユニコーンや、肉食獣であるはずの狼の魔獣まで、どこかに傷のある動物たちが、争う事なく、静かに体を、水色の温泉に預けていた。


やがて白いサギがどこからか飛んできた。

足を怪我しているらしい。


べスが温室に連れて帰った黄色い多肉植物が、温泉の側に群生している。


サギは、怪我をした足を苦労して折り曲げて、体全体を温泉に浸すと、黄色い多肉植物をついばんで、そして心地よさそうに目をつぶった。


白いサギは、しばらくするとゆっくりと目をあけた。

そしてベスの目の前で、ゆっくりと、幻影のように、美しい女の姿に姿を変えて、立ち上がり、空にふわりと飛んで行った。


(ああ、ここは、女将さんが言っていた場所だったのね)


今目にした現実とは思えない夢のような光景に、どこか納得している自分がいた。


ここは、間違いない。

神々の癒しの温泉だ。


女将さんによると、この国には、一匹の黒い亀によって建国されたという、建国の神話があるのだそうだ。


アビーブ山の噴火によって苦しんでいた人間を、哀れにおもった黒い神亀はその身を盾に人を噴火から守り、安全で豊かな平地へといざなった。そこが現在のアビーブ王国の王都とされる地だ。


そして人の盾となり傷ついたその身を温泉で癒した際に、温泉で人間の美しい娘に出会ってそのまま恋に落ち、そして生まれた子供、それが王族の始祖であるという話だ。


「神亀様は雷の神様でね。雷を噴火口に落として、アビーブ山の噴火を止めたそうなのよ。だからこの辺りでは、雷が落ちるとアビーブ山の方向に3礼するっていう風習があるわ。どうか噴火しないでくださいってね」


「いやだわママ、そんな事するの年寄りだけよ。へんな事ベスに教えないで! 私はそんな事した事ないわよ。でも、この村でのプロポーズは、雷のお守りを贈ってもらう事なのよね。どんな苦難がきても、俺が雷をおこして守ってあげるっていう感じみたいな?はやくくれないかなあ!」


ミリアとオリビアの会話をベスはぼんやりと思い出す。


ざぶり、と大きな音がした。

体中に傷のある、大きな一つ目の、赤い鬼が温泉に入ってきた。


びくり、とべスは少し、緊張する。

ヒトを食べるという魔物の一つ目の赤鬼だ。だが、逃げ出す事も、大声をあげる事もなく、じっと、静かに草陰に座ったまま、ベスは温泉を見つめ続ける。


鬼はよろよろと温泉の中に倒れこんだ。

どの生き物も、少しだけちらりと鬼を見たら、その存在を気にとめる事もなく、再び目をとじて湯を楽しんでいる。


やがて鬼は体を温泉の中からおこした。体中を覆っていた惨い傷は、すっかりと癒えていた。

赤鬼の大きな一つ目からは、ぽろりと涙がこぼれ落ちていた。


しばらくすると、赤鬼は満足したのか、ゆっくりと体を温泉から引き上げ、何事もなかったかのように、どしどしと、大きな足音を立てて森の中に消えていった。


鳥の声が響く。

何もなかったかのように、あたりには静寂が戻ってきた。


気がつくと、ベスは、勢いよくその場から立ち上がっていた。

ベスの近くにいた羽虫が、驚いたように四方に飛んで行った。


ベスは、何か見えない衝動に駆られて、外だと言うのに、身に纏っていたワンピースを脱ぎ捨てて、そして丈夫な黒い革のブーツも脱ぎ捨てた。

下着もなにもかも、みな脱ぎ捨てて、温泉に駆け寄り、そっとその小さな足を、ぽしゃんと温泉につけてみた。


(気持ち、いい)


先ほど坂を転がって打ち身になっていた足の青い跡が、みるみるうちに消えてゆく。

べスは湯に誘われるように、その小さな体の全てを恐る恐る、水色の温泉に預けてみる。


温泉の先客たちは、ちらり、とべスを見て、後はまた、べスの存在を気にとめる事もなく、目をとじて湯を楽しんでいた。


水色のその湯は少し滑りがあって肌に柔らかく、熱い。


いや、熱いと感じるだけなのかもしれない。

少しだけ、ピリピリとした電気の刺激が感じられる。


水色の湯は、べスの体を受け止めると、少し、ふわりと白く発光したように感じた。


おそらく岩肌のどこかで、雷の魔力が発生して湯に成分として溶け込んでいるのだろう。


ほう、と大きなため息をつく。

ため息とともに、ベスの体の一番奥の、その奥の、固まっている、冷たい芯になっている、なにかが解けてゆく。

解けていったその後に、暖かいなにか、忘れ去っていたとても大切な物が、蘇ってくる。


目を閉じると、生まれる前の、その前の、その前の命の存在に戻ってゆくような気がした。


時間を超えた遠くの、そのまた遠くの昔から、何か、大きな存在に呼ばれたような気がする。


呼ばれた遠くの存在に、べスの魂は包まれて、全てが洗われる。

存在の罪の記憶も、生の悲しみの傷も、何もかもが赦され、癒されてゆく。


気が付くと、べスは、泣いていた。

それは、何の感情をも伴わない涙だった。

ぼたぼたとほほを伝う涙に押し出されて、流れたなにかが水色の温泉に吸い込まれ、小さく発光した。


そして、べスはゆっくりと目を開いた。


魂にしっかりとへばりつき、枷となって、重荷になっていた何か。


名前もつけられない何か、だが存在のその奥で、鉛のように冷たく、固まっていたその全てが、溶けて流れて、消え去ったような気がしたのだ。


(まるで、ノエル様が直してくださった水車のよう)


ギシギシと、不愉快な音を立てながら巡っていた命は、今、黄金の水車に乗って巡り出したような、そんな気さえする。


(体は・・そうだ、体はどうかしら)


大急ぎで、裸になった己の体をマジマジと見てみる。

べスが子供の頃に、木から落ちて腕を折った時に動かなくなった小指の関節。

大きな犬にかまれて残ったふくらはぎの傷跡。

粉ひきをしている時に、職業病のように固まってしまった肩の筋肉。


(うそ・・)


全ての体の傷も、不調も、嘘のように、まるで最初から存在しなかったかのように溶け去っていた。

豆のひとつもない、美しい手を見て、べスはため息をついた。


(まるで生まれ変わったかのようだわ)


遠くの水面で、火の精霊が遊んでいるのが見える。


瀕死だったユニコーンが、湯から立ち上がった。

すっかりとその毛皮に輝きを取り戻し、金色のたてがみを夜風にたなびかせて、まるでなにもなかったかのごとく、振り返りもせずに空に駆けて行った。



どれだけの時間を、その水色の湯に体を預けていただろうか。

東の空には、いつの間にか大きな満月が浮かんでいる。小さな星のまたたきまで、姿を現しはじめていた。


(帰らないと)


愛おしいあのお人は、そろそろ宿に帰る時間だ。

べスは、そっと光を帯びた、優しい湯から立ち上がった。


服を着終えたベスの前に、3匹の黒いカラスが待っていた。

べスは、このカラス達についていけば、愛おしいあの人の元に帰る事ができると、なぜか本能的に知っていた。


カラスは、森を歩くベスの前を入れ替わり立ち代わり、歩いたり、飛んだり、カアカアと忙しく霧の深い王家の森の入り口まで誘い、ベスを連れて行ってくれた。


遠くから、ベスを探す声が聞こえた。

やはり、あの過保護気味なお人は、べスを探しにきてくれていた。


ベスは大きな笑顔になる。

大きく息を吸い込むと、べスは、一歩、森から足を踏み出して、叫んだ。


「ノエルさま!ただいま!」

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