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「・・信じられん」
翌日目覚めたフェリクスは、己の身に起こっている事が、信じられなかった。
朝、自分の体が柔らかな花の香りに包まれて、とても安らかな、平和な気持ちで目が覚めたのだ。
(こんな穏やかな朝は、思い出せない)
いつも熱を持ってジュクジュクとした肌が、今朝は静かに小康を保っている。
朝はいつも肌の症状がひどい時間帯だ。
朝目覚めると、美しい絹でできたフェリクスの寝具は、いつも血と膿と、抜けた髪の毛と皮膚で酷い状態になっている。目覚めた瞬間から不愉快で、惨めな思いであるというのに、今日はまるで、フェリクスの身に何もなかったかのように寝具は清潔なままで、フェリクスの心は、まるで静かな気持ちなのだ。
(自分の体から良い香りがするなんて)
乾いた患部からは、甘い花の香りがする。
フェリクスの視界に、いつも使用している肌の豪薬が映った。
貴重な薬草を利用した、大変薬効の高い豪薬。
この薬は非常に嫌な匂いがする。毎朝身体中に塗り込んで、ようやく少しだけ皮膚の状態が回復するのだ。
フェリクスの美しい両目から、思わずポロリと涙がこぼれた。
この数年、醜く臭い自分が受け入れられなくて、フェリクスの自尊心は傷尽き果てていたのだ。
娘のくれた瓶の中身の効能は薄いらしく、日が高くなってゆくにつれ、ジリジリと皮膚が熱を持ち出しフェリクスは急いで豪薬を肌に塗り込んだ。部屋中にきつい豪薬の匂いが立ち込めて、フェリクスの眉間に皺が寄った。
フェリクスの日常が、戻ってきたのだ。
だが、フェリクスは惨めな気持ちに陥らずに、あの甘美な夜をじっと思い出していた。
痒みもなく、痛みもなく、ただ良い花の香りに包まれた静かな夜。
たった一晩の安らかな眠り。たった少しの間の、穏やかな時間。
(あの娘は森の精霊か何かなのだろう。俺の身を憐れんで、森の恵を与えてくれたに違いない)
フェリクスは決めた。
(あの妖精に、もう一度会いたい)
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一方その頃。
「あー、ベス、今日のお風呂も最高だ。生き返るよ。今日は一体湯船に何を入れたんだ?」
くしゃくしゃのベスの大好きな笑顔で、ノエルはとても嬉しそうだ。
宿の風呂場も、ベスの集めてきた多種多様な植物でいっぱいだ。
ほとんど熱帯の奥地のごとくになってしまった緑の風呂場は案外にも実に居心地良い。
森の中で風呂に入っているような錯覚に陥るのだ。
大きな葉や細かい葉、爽やかな緑の香りが広がって、植物もベスが厳選して、熱い湿気を好むものばかり入れているものだから、ノエルの入浴をお風呂の植物たちが楽しみに待っているような気さえする。
実に居心地の良い風呂場だ。
しかも、毎日の体調や気分に合わせて、香りの良い花を浮かべたり、実を浮かべたりしてくれるのだ。
体の毛穴という毛穴から、何か悪いものが排出されて、とても良い何かが入り込んでくれるような気分になり、最高である。
「今日はね!パルマの花弁に溜まった雨水を集めてきたものを入れたんです。ほら、昨日少しだけ雨が降っていたでしょう?森の中にパルマが咲いているのを見つけたから、集めに行ったところで亀に出会ったんです」
「ノエル様はちょっとお仕事でイライラしていたから、心が落ち着くものを集めてきたんです」
ベスはそう言って、ふわりと笑った。
(まいったな)
ノエルは良い香りのお風呂で溶けながら、頭をガリガリ掻いてしまう。
フェリクス王太子の病状は、思っていたよりも深刻なのだ。
長い医師団との討論の末、治療には、王太子としての体面があるので手術を受けさせないという方向で決定した。
肉体と精神が、フェリクスの強大な魔力を御する事ができるようになれば、手術は必要ではないが、それまでフェリクスは、現在の皮膚疾患と、将来的には内臓疾患のリスクを持つことになる。
ノエルは手術を強く主張したのだが、この国の価値観は美に重きを置く。
体に傷のあるようなものが王座につくなど、王位に着いた後に万が一にでも傷が発覚した時に大変なスキャンダルになるというのだ。
価値観は文化によりけりである事から、ノエルは医師団の意見を優先させたのだが、王太子があの量の魔力を手術の助けなしに御すには、長く根気強い治療と鍛錬が必要となり、痛みも苦しみも伴う。
その上に、体を巡る古い魔力の浄化問題。
ノエルの精神が昂っていたことは、かわいい婚約者にはすっかりお見通しだった様子だ。
ノエルはチャプン、と体を湯船にひたす。
目に優しい緑の植物で満たされた壁に囲まれて、甘いパルマの香りで満たされた風呂は、湯の質まで肌に優しく、心のイガイガが全て、流れいくような気がする。
(最高・・・だ)
ノエルは、大袈裟に自分の事を世界一の果報者だと喧伝して、貴族社会で失笑を飼っているが、ベスとベスの作るこの空間を知っている魔術院の連中に言わせれば、ノエルは罰当たりなほど果報者なのだ。
「ああ、ベス、今日も本当に最高の風呂だ。ところでこの湯船の湯には明日も入っていいのか?」
これだけの素晴らしい湯を、一度使っただけで流してしまうのは、実に惜しいとノエルが思ったほど今日の湯は心と体に心地よいのだ。
パルマの花弁は大きくない。
パルマに溜まった雨の滴を集めてくるのは、実に大変だったろうと、ノエルはベスの優しい心にも溶けてしまいそうだ。
ベスはノエルが心も体も溶けてだらしない顔になっている湯船まで、今度はとても酸っぱい飲み物を持ってきてくれた。
酸っぱくて赤いこの実は、ピクルスに利用するこの村のどこにでも生えている一般的な小さな果実だ。
ベスはピクルスを作った後のこの果物の汁を宿のおかみさんから貰い受けて、砂糖を加えて風呂上がりに飲んでいる。
「うわ、酸っぱい!かー!この飲み物も最高だな。本当に、ベスと婚約できた俺は、なんという果報者だ」
優しい風呂でノエルの溶け切った心と体に、レモンとは違った種類の背骨に響くほど酸っぱい飲み物は、心と身体中の不純物が搾り出されるようで、実に気持ちいい。
機嫌の良いノエルは濡れた手をベスに伸ばして、口づけする。
なんなら一緒にお風呂に入って欲しいのだが、そこは何をどう言っても入ってくれないので、ノエルは色々手を変え品を変えてこのウブな婚約者を籠絡している最中だ。
ノエルの作戦をよく知っているベスは、真っ赤になりながらもパシっとノエルの手を叩いて、言った。
「ダメです。折角の心と体の汚れが全部流れたのに、また明日もこのお湯に入ったら流れた汚れが戻って同じことになっちゃいます。明日は明日のお風呂を作りますので、楽しみにしててくださいね」




