15
「行ってらっしゃいませ奥様!」
久しぶりのネリーの外出に、館の皆は嬉しそうだ。
ネリーは気分が優れないながらも、なんとか侍女を一人伴って、黒いドレスと黒いヘッドドレスという葬列のような姿で、秋祭りにでることにする。
外出自体、ネリーにとって実に久しぶりの事だ。
ここの所は部屋のカーテンを開ける事すら億劫で、化粧もせずにぼんやりと部屋に一日閉じこもって使用人を随分心配させていた。
ネリーはどうしても、店の娘の言っていた事が気になるのだ。
(生まれた事の喜びを、もう一度思い出されるような、そんな山車なんですって!)
ーそんな感情を呼び起こしてくれるものがあるなら、縋ってみたいー
己の人生に虚無感を覚えていたネリーは、切にそう願う。
久しぶりの外出の上、途方もない人混みにネリーは気が遠くなるが、なんとか気を持って、エズラの屋敷の前の山車まで辿り着いた。
ネリーの店は、エズラの管理する地区にある。
エズラの屋敷の前は、評判の山車を見ようと押すな押すなの大賑わいで、老若男女の長い列ができていた。
「おや、これは珍しい」
列の最後尾に並んでいると、実に機嫌の良いエズラ本人が現れてきた。
ネリーにはよくわからないが、魔術師という人々は、目に見えるものではなく、魔力で物事を察知する能力があるという。ネリーには少し魔力があるので、エズラはネリーの魔力が近づいてくるのを察知したのだろう。
「ネリー殿、随分久しいですな。しばらく外出なさっていないと聞いておったが、お体はその後どうですじゃ?それにいてもさすが目利きの商人の奥様ですな。ワシの素晴らしい山車を今日は商人として一眼見にこられたというわけですな」
「エズラ様。お久しぶりですわね。店の娘達が噂をしていた通りの美しさですわ。。。ああ、あれがユージニア様のマリーゴールドですのね」
ユージニアの魔力で美しく輝くマリーゴールドは、黒い山車の屋根の上で、黄金の屋根飾りのように鈍く光を帯びて輝いていた。見事な魔術だ。
「本当にユージニア様がお目覚めになられて、臣民にこのように挨拶の心配りをいただくなど本当にめでたい事ですじゃ」
「‥これほどユージニア様が魔術に長けておられるとは、失礼ながら存じませんでしたわ」
魔術とは、魔力の質や量も要素ではあるが、魔術を展開する人間の精神状態にひどく出来が左右される性質がある。
ユージニアが施した保存魔術は、簡単な魔術であるが、みる人がみればどれほどの強固な精神を持つ人物が展開した魔術であるのかが透けて見える。
「一度黄泉の門を叩いた事のあるお人というものは、黄泉から色んな宝を授けられて帰ってくると言いますのでな。きっと黄泉の眠りより目覚められたユージニア様には、色んな宝を持って帰ってきておられるのでしょう」
カカ、とこの国の賢者と呼ばれるエズラは、大きく笑う。
「お陰様でこのように、今年の山車は大評判でしてな。ネリー殿も楽しんでいってくれ」
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「お待たせしました」
半日は待つかと思われたほどの長い行列だったが、案外と早くにネリーの順番は回ってきた。
(と、いう事は団体に一気に利用できる魔術を応用しているという事ね。楽しみだわ)
「では奥様、後ほど中でご一緒に」
ネリーは侍女と分かれると、美しい山車をの黒い扉を開く。
去年のエズラの山車は、幻影魔法が扉を開けた瞬間から発動する作品だった。
何かが飛び出すだろうと身構えて扉を開き中に入ると、そこは何もない広い空間にただ四面、見渡す限り霧に覆われた滝の幻影が広がる部屋になっていた。
(面白い趣向ね)
やはり、今年も趣向を凝らした幻影魔法なのだろう。
ネリーは挑戦された気持ちになって、滝をくぐって、滝の向こうに歩みを進めていった。
幻影魔法なだけあって、滝をくぐっても体は全く濡れていない。
ネリーはスカートの裾すら濡れていない事を確認して、少し心が躍る。エズラは何を仕込んでいるのか。
滝を抜けると、裏は体をかがめなければいけないほど狭く、暗い洞窟だった。
ジメジメとした洞窟の奥には光が見える。
どうやらどこかに繋がっているようだ。
ネリーは光を目指して、屈みながら洞窟の穴を抜けてゆく。
(・・ここは、どこに出たのかしら)
狭い洞窟を出ると、そこは、まるで別世界のように広く、深い、緑の森の空間だった。
深い、深い、薄暗く、ひんやりとした静かな森だ。
古い森なのだろう。人の手が入っている気配は一切しない。
樹齢を重ねた大きな木々が、ただ静かに存在している。音のない、静寂な森だ。
滝からの霧が森の方にも漂い、空気は水を含んでとても甘い。
霧が丁寧に育てているのだろう、生い茂る木々の肌にも美しい苔がびっしりむしていて、苔の緑で深く覆われていた。
深い緑の海の、濃い清浄な空気に、ネリーは思わず大きく深く息を吸い込む。
気がつくとシダの群生の周りに丸く、ぼんやりとした光がふわり、ふわりとこの薄暗い森のあちこちに音もなく浮かんでいた。
(ここは、精霊の森なのね)
ネリーは悟った。
この森は、清浄な霊力に満たされている。
空気には、生き物達の声なき気配に満たされている。空気には、生きている喜びと暖かみが満ちている。
命の生まれる喜びに、満ちている。
ネリーが動くたび、息を吐くたびに、この聖なる森の湿気が、喜んでいるのを感じる。
湿気はネリーの動きに寄り添い、ネリーの吸い込む息に合わせ、吐き出す息に合わせ、形になったり光になったりする。その中には小さな光の粒の命に変わったり、消えたり、また湿気に戻っていくものも、ある。
ネリーは慎重に、ゆっくりと森の奥へと足を進めてゆく。
奥に進むと、森の木々の間にふわふわと浮かぶ光に、少し大きくて強い光の塊が増えてきた。
光の塊は、輝きが強くなるとポ、ポ、と小さき人に蝶の羽を持つ、妖精の形に姿を成すもの出てきた。
形を成さずに、光がそのまま消えるものもある。
生まれたばかりの妖精の中でも好奇心の強いものは、ネリーの周りを物珍しげに飛び回って、そしてどこかに飛んでゆく。
ネリーは足元にも目をやった。
足元の土の上にも、丸っこい形をした小さな茶色い光や黒い埃のようなものが転がっていた。
茶色い光のいくつかは、そのままコロコロと丸まって、赤い帽子を被った小さな土の精霊となる。
そして揃いの赤い帽子を被った小さな土の精霊達は、右に左に一定のリズムをとりながら、行進を進めている。
先頭の精霊は、小さなキノコを頭上に抱えて、皆でどこかに行くところの様子だった。
黒い埃はそのまま影の中にコロコロと転がって姿を消していった。
空を見上げてみた。
鬱蒼と茂った森の木々の中に、大きな鳥の影が見える。
鳥には人の顔がついていた。
(人の世界ではない、世界)
薄暗い森に、大きな光の束が急に入ってきた。
ネリーの目の前に、急にそこだけポッカリ木々の代わりにクローバーの生い茂る、美しい下草の原っぱが現れた。
ここだけは、人の手で整えられている様子だ。
ネリーは歩みを進める。
原っぱの真ん中には、ひっそりと二つの墓碑があった。
苔に覆われた岩の墓碑。一つは地面から生えてきたような荒い肌をした黒とオレンジの斑らの岩で、一つは白くて丸い、小さい石。
荒い肌の岩にむした苔の上には、とても小さいキノコの子供がひょっこりと生えていた。
(誰のものかしら)
ネリーはそっと、岩に手を触れてみた。
水分を多く含むこの森の空気は、岩の表面をやさしく侵食しているらしい。岩の角は鋭さを失い、優しい曲線を描いている。
小さく丸い、白い石には、(イー・ハン1歳)
荒い肌の、まだらの岩には (ジバゴ62歳)
それだけ、小さく彫られていた。
空からは、光の階段が降ろされたように、眩い光が入って、墓標を照らす。
夜になれば、月の青白い明かりがこの原っぱを明るく照らすのだろう。
ネリーは、ここが墓地である事を理解した。
だが、ネリーは恐ろしいとも、不気味だとも感じなかった。
むしろ、ここに眠る故人に、ネリーは親しみを感じた。
(こんにちわ)
そっとネリーは墓標に刻まれた、名前に触れる。眠りを妨げないように。
墓標をくるりと囲むように、リンドウが鮮やかな青い花を咲かせていた。
誰かが故人の慰めに、植えたものだろう。
ネリーはしばらくその静謐な空間の中で、ただじっと呼吸をしていた。
ふと、ネリーの後ろから、動物が動く音がした。
振り返るとウサギか子鹿でも訪ねてきていたのか、大きめの動物が森に消えていった影が見える。
(・・あら)
振り向いた目の前には、とても大きな杉の大木が鎮座していた。ちょうど墓標を見守るように、大きな枝を空に向かって悠々と雄大な姿だ。
樹齢は数百年は有に越すだろう巨木だ。
おそらくこの森の主だろう。
いくつもの節のある根には、ツル科の植物が幾重にも重なって巻き付いている。
根元には大きなうろがあり、うろはちょうど、大人が体をかがめて入ることができる大きさだった。
うろの内部は暗い小さな空間となっていて、中には柔らかそうな枯草がふかふかに積もっていた。
ネリーは思わず、ふらふらと誘われるように、体を丸めウロに入って、枯草のベッドに体を預けてみた。
(気持ち、いい)
すっぽりと体がウロに収まって、心地よい。
ウロの中は杉の香りで満ちている。
ウロに身を預けると、ちょうど目の前には二つの墓標が寄り添っているように見えた。
暗い杉の大木の胎の中。ネリーはゆっくり目を閉じた。
いく百年という年月をこの杉の大木は何を思い、何を見てきたのだろうか。
ネリーは永遠とも思えるこの大木の、時の流れに思いを馳せる。
そっと耳をうろに近づけてみた。
(‥生きているのね)
轟々と樹液を吸い上げる音が聞こえる。
この静かに森に鎮座する樹齢数百歳の杉の巨木は、静かに、だが強い生命力に満ちていた。
そして遠い奥から、キツツキがこの木のどこかに穴を開ける音がする。
ネリーの両目からは、涙が溢れていた。
心には、何も浮かんでこない。
ただ森の命を感じて、そして震えるほどに、自分の生きている喜びを、命の尊さを、感じていた。
ネリーは木のうろの中で、子供のように安心して深い眠りについていた。




