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[書籍化決定・第一部・第二部完結]緑の指を持つ娘  作者: Moonshine
神仙ユリ

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3

ロドニーの孤独な格闘は、三日三晩もの続いた。


その間食事どころか睡眠もろくに取れないので、若いロドニーも流石に目の下をクマで真っ黒だ。

不眠不休で、繊細な氷魔法を圧縮して一定の圧力のまま放出し続けるのだ。

魔力もそうだが、体力の限界と、そして精神の限界のギリギリまで追い込まれたはずだ。


種に魔力を与えてから三日目の朝に、黒い丸薬のような種から淡くて白い、月の光のような発光が確認された。


氷の魔力を触媒とし、種そのものの持つ魔力が覚醒したのだ。


「ロドニー。ご苦労だった。お前は見事に仕事を全うした」


大仕事を終えたロドニーは重責から解放されて、泣きじゃくりながら、その場で倒れ込むように眠りについた。


ロドニーの仕事は完璧だった。

種は一部の欠けもなく、全ての部位で魔力の覚醒が認められている。この状態で後は満潮の時刻の月の光を当てると、発芽が始まる。


ここからが真の勝負だ。


泥のように地面に眠り込んでしまっているロドニーを他の魔術師たちに任せて、ノエルは緊張した面持ちでナーランダに言った。


「ナーランダ。ベスを呼んでくれ。全てはベスに掛かっている」


ーーーーーーーーーーーーーーー


しばらくして、神妙な顔をしたナーランダと、バスケット一杯にマフィンを焼いてきたベスが甘い香りを漂わせながら温室に入ってきた。


ベスは、疲労困憊のロドニーに食べさせてやるマフィンを焼いていたのだと言った。

緊張感の漂う温室に場違いな、甘い懐かしい香りがする。


甘い香りに、緊張感が溶けてゆく。

ベスの小さなおさげが視界に入った瞬間に、ノエルの胸に痺れるような甘い痛みが走る。


(これは末期だな)


これほど緊迫した状態であるはずなのに、痺れるような甘い痛みに体を任せて、ノエルは愚かな己を自嘲する。


「やっと発芽したんですね」


ノエルに痛みをもたらせた大罪人は、そんな事知る由もない。


皆が種の状態に心を持っていかれている中、この三日間ベスはロドニーの体調に一人心を砕いていたらしい。

温めた石を靴の中に入れてやったりやら、朝にはミントの香りのする水に浸した湿布やらを用意してやっていたらしい。片手でも食べられるから、と用意した小さなマフィンまだ温かい。


ノエルは魔術師の世界に生きているので、魔術を最優先させる殺伐とした人間ばかりに囲まれているが、ベスの目を通した世界はもっと優しいものらしい。


エズラが手にしていた瓶の中身の種に変化を認めたベスは、手にしていた焼きたてマフィンの入ったカゴをぐい、と無言で側にいたナーランダに押し付けた。


いつも控え目で穏やかなベスにしては、随分と珍しい。


「どうしたベス? 何か気になるのか」


ノエルの言葉にも反応せず、ベスはじっと瓶の中身を見つめると、独り言のようにつぶやいた。


「…なんて手間のかかる子。エズラ様、いますぐに瓶の蓋を開けてください。新鮮な空気が欲しいんですって」


急なベスの真剣な口調に、瓶を手にしていたエズラがオタオタと蓋を開ける。

そして次は息もつかず、ベスはエズラの側にいたエロイースに訴える。


「エロイース様、すぐに黒松の葉を持ってきて!新しい若葉のやつよ。早く!」


「ええ?はい?」


一瞬ベスから何を言われたかエロイースは理解に戸惑う。

ノエルはベスの言葉を理解して、まだ混乱しているエロイースに告げた。


「エロイース、宮殿の裏の騎士の宿舎の前に黒松があっただろう。悪いがいますぐあそこで、できるだけ新しい葉を集めて来てくれ」


「え?私?嘘でしょ?なんで?」


「質問は後だ。早く行け!」


人に遣われるという経験の非常に乏しい公爵令嬢のエロイースは、顔中にハテナを浮かべ豪華な金の巻き髪を翻して、黒松の葉を探しに走り去っていった。


「・・ベス。始まったのだな」


ノエルの言葉に、今度もベスは返事することなく、瓶の中身から目をそらさずに首だけ縦にふった。


発芽はまだだ。

今晩、満月の、満潮時間の月の光を浴びてようやく発芽となる。


(発芽の後の管理が、非常に厳しいという認識だったが)


だが、発芽前のこの種はすでに命の営みを始めてそして大声で己の望みを全力でベスに訴えかけているらしい。

ベスは種に魅入られたように目を離さない。


「我々の認識は甘かったようですね。ベスの目に見えているものが、私には何も見えていないし、ベスの耳に聞こえているものが、私には何も聞こえていない。この娘は、一体」


ナーランダは小さくため息をついた。

前回の神仙ユリの育成の失敗の際に、ノエルと共同で育成を担当したのは、エズラとナーランダだったのだ。

いずれもこの国の賢者と、最高位の魔術師だ。


ベスはじっと瓶を見据えたまま、ほとんど酩酊状態に入っている。


ナーランダは、瓶の中身に魅入られて、動かないでいるベスにそっと自らのローブを脱いで、その肩にをかけた。そしてそのまま小さく微笑むと、前触れもなく急に魔術をベスに展開した。


「おいナーランダ!」


焦ってノエルが叫び声を上げた。


ナーランダか展開していたのは、術式をかけた人間の思考が一瞬乗り移る、複雑な自白魔法の一種だ。


魔術師とは、自らの好奇心や魔術の探究心が非常に強い。

クラスの低い魔術師の中には、まだ理性と魔術の魅了への抵抗の折り合いが悪く、自分勝手と呼ばれる種類の人間も多く存在する。

時として法を犯してまでも、魔術への探究心を優先させる魔術師が歴史上たびたび存在してきた。


そんな中、身分も知性も申し分のない、魔術師の中では大変理知的と評されているナーランダが、このような暴挙に走るのは実に稀だ。


「‥素晴らしい」


それだけつぶやくと、ナーランダの魔術は一瞬で解かれた。


「お前、この大事な時に一体何を考えている!」


ノエルはナーランダの元に飛んできて、首を掴んで揺さぶってこの暴挙に怒鳴りつけるが、


「申し訳ありません。申し開きの言葉もありません。懲罰はいかようにも」


ナーランダはそう言って、満足そうにノエルに揺すぶられるがままになっていた。魔術師としての好奇心に抗えなかったのだ。


「…答えろ。一体何が見えた」


ベスの頭の中に去来するもの。ナーランダほどの人物が衝動的に自白魔法を展開してしまうほど、知りたいと願ってしまったのだ。魔術師とは、実に業の深い生き物である。


「何も。この娘は、何も考えていなかった。何一つ。頭の中は空っぽだ」


ナーランダの美しい顔は、赤みをさして喜びに上気していた。


「心を明け渡して、意識を明けわたして、そして命との境界を明け渡して、この種という存在と意識の世界で一つになっている。この娘は今、命の真実、に触れているのかもしれません」


魔術の真髄は、命の真実。


魔力も持たないこの粉挽の娘は、自らを明け渡す事で、命の真実に触れているというのだ。


「…持たない事で持つ。知らない事で、知る。なあ、そうなのか、ベス」


大魔術師・魔術師の始祖である、ホークルの有名な言葉が思い出される。ホークルは歴史上始めて不老不死境地まで到達した実在する賢者だ。


ノエルはベスの肩にかけられていたナーランダのローブを忌々しそうに剥ぎ取ると、ベスを後ろから強く、抱きしめた。

ベスはまだ酩酊状態で、種に魅了されている。


ベスの華奢な肩にノエルが顔を埋めると、ローブから移ったナーランダの香りが微かにして、ノエルを苛立たせた。


温室の片隅では朝の冷たい風を受けて、ノコギリ草がざわめきだす。

白い可憐な花をつけるこの草だというのに、一株には変種となって赤い花をつけていた。薬効が変わると、エズラが喜んでいた株だ。


いつも通り赤い実を求めてノロノロとバナナなめくじが、温室を横切った。

このなめくじが好んで食しているこの赤い実が、貴重なクコの実だと知ったノエルは、呆れを通り越して大笑いしたものだ。


ドラ猫はひだまりの中で腹を見せて、リスたちは木の実を求めて追いかけっこをしている。

イモリは訝しそうにソファの人間を見て、そしてどこかに消えていった。


朝の光は温室を満たしてゆき、植物も動物も、実に伸び伸びと、美しい。


人の営みに起こっている、運命の激しい激流など知らない温室は、いつも通りの、穏やかな朝だ。



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