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緊張の極みいるロドニーは、ノエルの言葉を受けて、箱から魔術の仕掛けられた特別な瓶に種を入れ替えると、静かに魔術を落とした。
大きく圧縮した魔力を糸のように指先から紡ぐ。
ロドニーの見事な赤毛は、繊細な氷の魔力を帯同して、まるで氷でできた炎のように宙を舞った。
ロドニー・ガルシア。
稀代の天才魔術師と呼ばれた、若き天才の魔術の腕に、魔術師達は矢のさすような羨望と嫉妬の入り混じった目線を送った。
これほど見事な氷魔法の遣い手は、この国には彼を置いて存在しない。
いつもヘラヘラと冗談ばかりの若いこの男の、魔術師としての実力を目の当たりにした魔術師たちの間に思わずピリリと険悪な緊張感が走った。
魔術師とは本来馴れ合うような性質のものではないのだ。
ベスが温室にやって来てより、魔術院はなんとなく穏やかな雰囲気に満たされているが、本来魔術師同士というものは、お互いの技を盗み合い、魔術を競い合う性質だ。
人としては皆穏やかな性格の魔術師達だが、こうして魔術師としての本来の姿に立ち返ると、そのサガに引きずられ、抗えなくなる。
「ロドニー様がんばってくださいねー」
見えない緊張の糸の張り詰めた温室で、そんな時、魔力すら無いベスの、実にのんびりとした声が響いた。
魔術師達はふと我にかえる。
嫉妬している場合ではない。今願うべきは、この種の発芽だ。
瓶の中は、ロドニーの展開した繊細な魔術で、弱く、青白く光り輝いていた。
皆が固唾を飲んで見守る。
小一時間ほどすると、瓶の中に鎮座していた黒い丸薬のようなユリの種は、うっすらと青い光を帯びて光を発光するようになった。
第一段階の突破の瞬間だ。
ロドニーを見守っていた魔術師達が、小さく拍手をし、安堵の吐息を吐く。
この後は、一定の温度と魔力の供給で、数日このまま安定した状態を固定させる。
出力する氷の魔術の魔力の持ち主は変わらない方が好ましいとされているので、ロドニーはこのまま数日は不眠不休で繊細な氷魔法を紡ぐ事となる。
青い魔力が種に定着したこの時点で、ほかの魔術師にできる事は何もない。
皆ロドニーに激励を送ったり、差し入れを置いていって、それぞれの研究に戻ってゆく。
温室には、ロドニーと、ベス、そしてノエルの3人が残った。
「こうしてロドニーの氷の魔力を触媒にして、後数日すれば種は目覚める。種が目覚めたらベス。お前の仕事が始まる。それまではゆっくり部屋で休んでいてくれ」
ノエルは研究者らしく、ロドニーの魔力の出力量やら時間やらを手元の紙に記録を始めた。
ベスは、もう部屋に帰ってもいいと言われているのに、今だに魔術が珍しいので興味深そうに瓶の中身を眺めて、「綺麗ですね」「光の色は変わるんですか」などと実に素人丸出しの質問をロドニーに重ねる。
緊張の極みだったロドニーは、魔力を出力しながらも、間の抜けた質問にヘナヘナと力が抜けた様子だ。
その場に座り込んで、ようやくいつもの笑顔を見せた。
「あー綺麗だろ、俺も最初に魔術を習った時はあんまり綺麗で感動して、泣いちゃったよ」
ニコニコと、のんびりとベスが質問を続ける。
「最初は何の魔術だったんですか?」
「最初はみんな、水だよ。水の塊を出すんだけどさ、俺はほら、才能の塊だろ?好きな女の子に見せたくて、水を氷に固めて、水晶みたいなのを最初にいきなり作ったんだ。そしたら日の光を浴びてキラキラ綺麗で、小さな虹まで出て来たんだ。先生は大騒ぎするし、親は大喜びしてるし、好きな子には感心してもらえるし、あの日は嬉しかったなあ」
先ほどまでの張り詰めた温室の空気は一瞬で和やかな、いつもの空気に戻る。
氷の精霊のごとくだった迫力のロドニーも、今はいつもの軽口まで戻っていた。’
指先から先ほどと変わらず、繊細な氷の魔力は紡がれているが、ロドニーは屈託のない笑顔だ。
「すごいですね!夏はロドニー様に粉挽き小屋に遊びに来てもらおう。氷の柱を小屋の中に出してくださったら、涼しくて助かるなあ。そしたら私、とびきりおいしいスイカご馳走しますね!」
「そうだね、ベスのスイカは最高だろうな。氷を出してあげるから、スイカのシロップで氷菓子を食べようよ」
「氷菓子? そんなの食べたことないです。どんなのですか」
「えー! 氷菓子も食べたことないの? 信じられない!氷菓子というのはね・・・」
ノエルは二人の、微笑ましい平和な会話を見守っていた。
ノエルがこの温室でロドニーに氷魔術を発動させたのには、理由があった。
発芽だけであれば、研究所の中でも、別の棟で部屋を占領して作業をしても別に問題はない。
むしろロドニーの氷魔法の冷気が、ほかの温室の繊細な植物に悪影響を及ぼすかもしれない。
だが、魔術師の魔力は、精神の状態が強く反映するのだ。
この発芽が初めてのロドニーの大きな仕事であれば、まだ若いロドニーはこの極度の緊張状態で、魔力を安定化できるまで、精神を整える事は非常に難しいだろう。下手をすれば心が壊れかねない。
ナーランダに任せる事も考えたが、ロドニーの氷の魔力はナーランダのそれを凌ぐ。
この温室であれば、ベスであれば、ロドニーは安心して、心安らかに己の能力を限界まで試す事ができる。
そうノエルは信じたのだ。
そして、ノエルは正解だったらしい。
ロドニーは目の前の仕事に心を壊されるどころか、この仕事が終わったら、氷の塊を出して氷菓子を作ってあげるからね、と仕事の後にベスの生まれて初めての氷菓子を作ってあげる約束をしている。
(こいつですら、こんなに大きく元気にしてるものな)
ノエルは、足元をチラリと見た。
ベスに甘やかされて、好き放題大きくなったバナナなめくじがノロノロと、温室を歩いている。
(どうやら俺も、ロドニーのことを言える立場ではなかったらしいな)
己の知らぬところでこの大仕事の前に、体は緊張で硬直していたらしい。
ノロノロと歩くなめくじの何とも幸せそうな姿を眺めている間に、ノエルは自分の身体の中でこわばって滞っていた魔力がゆっくりと循環してゆくのを感じた。




