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神仙ユリの発芽は、次の満月に合わせて計画された。
ノエルは種の利用にあたりいくつもの会議に出席して、魔術院のみなも、ピリピリとその日を迎える準備で忙しい日々がはじまっていた。
そんな魔法植物の人工栽培史に歴史を刻むような大きな仕事の前だというのに、当事者であるベスは相変わらずだ。
「私も開花前はお世話で温室で寝泊まりしなくちゃいけなくなりそうなので、あのソファをもう一つください」
大仕事にあたって準備で、ベスがノエルに願ったのは、この仕事の期間中の身の回りの世話の手配と、温室のほかの植物の世話の手配。そして意外にも、ナーランダの部屋の古いソファだった。
泊まり込みの研究は魔術師であればよくある事なので、温室への寝具の手配は何も不自然ではない。だが、ベスは、今温室にある、ナーランダが勝手に運び込んだ古いソファの、対になっているもう一つの方が欲しいというのだ。
「ベス、温室にベッドが欲しいのか?新しいものを手配させるから、何もわざわざ古いソファで眠らなくてもいい。私が今あのソファで寝ているから、ひょっとして気を使ってそう言っているのか?」
ノエルは不思議そうにそう言ったが、ベスは首を振って、
「別にノエル様は関係ないです。私あのソファがいいんです。あの匂いが好きなんです。薬草の匂いと、おひさまの匂いと、それからナーランダ様の匂い」
「天然か・・!」
他意なくベスから漏れた、なかなかの破壊力のある言葉に、ナーランダは参ったな、と思わず顔を赤くして口を押さえ、ノエルに頭を盛大に叩かれていた。
気の良いメグは、ナーランダから依頼されるよりも前に、ナーランダに、この大仕事の最中に、ベスの身の回りの世話をする許可を願い出ていた。
もちろんメグの願いは、特別ボーナスと共に聞き届けられた。
やがて、子供のように拗ねてしまったノエルは温室に放って置かれて、魔術師達の手によって、古いナーランダの対になっているソファの片割れが、温室に搬入された。
ベスが腰掛けるその先にと、拗ねたノエルはこっそり先にソファに体を投げてゴロゴロと転がった。しかもその上ご丁寧に例のドラ猫まで捕まえてきて、ソファの上で昼寝させていたのを、魔術院の皆は見て見ぬふりをしてやっていた。
いつもはベスと、ノエルと、時々休憩にくる魔術院の誰かくらいしか出入りのないこの静かな温室に、今日は大勢の魔術師で埋められる。
物見高い花達は興味深げに、いつもと様子の違う温室の雰囲気を楽しんでいる様子。
日もくれた頃、本日三回目の会議から温室に帰ってきたノエルは一つの美しい箱をロドニーに手渡した。
ロドニーがそのまだ幼い所が残る緊張した面持ちをしてゴクリと喉を鳴らす。
「ノエル様。これが」
「ああ。最後の材料だ。天界に咲き乱れるという、神仙ユリの種だ」
和やかだった温室に、急に緊張感を孕んだ沈黙が広がる。
ノエルは議会の使用許可を取り付けたらしい。
神仙ユリの種の使用には、魔術院の責任者といえども議会の承認が必要とされるほどの、貴重な種。
生息場所は北の国の、万年雪のツンドラの地帯のその山の奥地で、氷属性の竜の生息する地帯にひっそりと咲く。
魔術師達はこの花を手に入れる為に、危険を冒して氷の山に挑み、時には竜使いを雇い、時には軍隊を引き連れて、たった一弁の花を手に入れようと死に物狂いだ。
人の手によって手折られたその瞬間から劣化が始まり、ポーションの材料として生成する頃にはほとんどの魔力が尽きている。
それでも残滓のように残されたこの花の特別な魔力を利用することで、ありとあらゆるポーションの生成が可能となる。この花の人口栽培は、魔術師全ての夢でもある。
「あー、種がきましたあ?いらっしゃーい」
ベスにはその種の価値を知らされていない事もあり、いつも通りののんびり加減だ。
ノエルが会議に出ている間に、ベスはいつも通りに温室の植物に何やら言いながら世話をして、全くの通常運転だ。
(見事だな)
ノエルはいつもながら、ベスの手際に見惚れてしまう。
ベスの植物のお世話はいつ見ても、実に簡潔で、そして実に繊細で、特別な事など何もしない。
ちょっと根の詰まった場所にちょうどいい空気穴を開けたり、繁りすぎた葉を二、三枚だけ間引いてみたり、鉢の位置を少しだけ変えたり、朝だけ窓を開けたり。
ナーランダがベスの植物の素晴らしい仕上がりに感動して、いつもその生育の方法について、研究者として細かく質問を重ねるのだが、ベスの答えはいつも同じだ。
一つ一つの植物の小さな声を拾って、そしてその声が望むことを叶えてやるだけだ。
ちいさな事でも、望みは叶えてもらえる、そう知ると植物は安心するのだと。
安心したら、憂いなく、スクスク育つ事に集中できる。
「人間と基本は同じですよ」
そうベスは笑う。
「だから、人間も、心と体の言うことは小さな事でも聞いてあげないといけません。例えば、エズラ様の膝と腰は、今座りたいと声を上げていますよね? なら座ってあげないと、あとで膝が悲しみますよ」
ベスに指摘されて、ちょっと恥ずかしそうにエズラは近くの椅子に腰を下ろした。どうやら膝が疲れていたらしい。
「ベス、俺本当に緊張してきた。氷の魔術は確かにここでは俺が一番得意だけどさ」
いつもはおちゃらけばかりのロドニーだが、国家の財産にあたるほどの貴重な種の入った箱を手にしたロドニーは、緊張でカチコチになっている。
ロドニーはこの魔術院で最年少の魔術師だ。
若いながらもこの国の5指には入るほどの高い魔術能力の持ち主だ。
あと何十年かの後にはこの国の魔術を牽引する重要な存在となる事は確約されているが、これがロドニーの人生で初となる大仕事だ。
「大丈夫だ。お前の仕事は発芽までだ。発芽にも繊細な温度調整は必要だが、発芽後はベスと私が交代する。お前になら、必ず発芽させることができる」
尊敬するノエルに肩をポンポンと叩かれて激励されて、ロドニーは感動して少し涙ぐんでいる。
魔術師の中でも貴重な神仙ユリの発芽に携わる事ができる栄誉は、人生の中でなかなか巡ってこない。
ノエルは少しロドニーに微笑むと、ぐるりとこの国の最高峰の魔術師達の輪を見渡して、宣言をした。
「では諸君。神仙ユリの発芽に入る」




