4
「ノエル様、今度はその子ですか?花が咲いたらいいんですか?」
ベスは、そう言ってノエルの手から気軽に、いつも通りに美しい箱に入った花の種を受け取った。
いつも通りの依頼。
ノエルが種を手渡して、ベスが大きくする。
ナーランダが大きくなった植物を鑑定して、ノエルが受け取る。
そしてノエルは嬉しそうに顔をクシャリとさせて、ありがとう、とベスにいう。
ベスの一番好きなノエルの顔だ。
「ああ。氷の中でしか発芽しない種類だ。ロドニーが毎日氷魔法を施しにくるから、指示を出してやってくれ」
ノエルの声こそいつもの軽いトーンではあったが、声が上擦っていた事にノエルも気がついていた。
「だが、花は発芽の後が厄介だ。一瞬でも気を緩ませると、すぐに枯れる。私も発芽までは成功させた事があるが、そこから先は未知だ。どうだ、できそうか」
ベスはどんな依頼に対しても、必要以上の質問をする事はない。今日も、うわずったノエルの声に、ベスは何も聞かない。
その事が、どれほどノエルにとって救いであるかも、ベスは知りもしない。
ーもう何があってもノエルはベスを手放すことはできない。
ベスがいなければ、ノエルは生きては行けない。
願わくば、この大切な娘の横で、朝を迎え、夜はただ安らかに眠って、過ごしたい。
ノエルはため息をついた。
(俺はただ、ずっとベスに隣にいてほしいだけなのに)
だというのに、ノエルの己の心の思いをベスに告げるその前に、ノエルは魔術師としてベスに大きな依頼を投げる。それも、魔術師として生きてきた人生の中で最も重い仕事をだ。
矛盾する己の心に、体は反旗を翻した様子だ。
全身がこわばってゆくのが感じる。
ベスは、ノエルの苦しげな様子に戸惑いながらも、マジマジと箱の中の少し大きな種を眺めた。
「‥随分気難しい子ですね。ちょっと無理かもしれないです。手間がかかりすぎます」
「お前でも無理かもしれない? お前は一人で百年草の開花まで漕ぎ着けただろう。百年草よりも、難しいと言うのか?」
ベスの言葉に、ギクリとする。
ベスは言った。
「この子は本当に気難しいから、私一人ではお世話は無理です。本当にこの子を開花させようとしたら、最低後2人はこの子にずっとかかりっきりにならないといけないみたいです。こんな気難しい子には初めて会います」
「百年草も難しかったけれど、この子はもっともっと難しいです。この子の花は特別な力を宿すみたい。だからこそ、花を咲かせるには、特別丁寧なお世話が必要になるみたいです。私一人ではお世話は無理です」
(なんだ、そんなことだったか)
ノエルは、深く安堵の息を吐いた。
成長に竜の爪がいるだとか、ユニコーンの前足のひずめがいるだとか、下手をしたら人命が養分として必要だとか言われるのかとノエルは怯えていたのだ。
「ベス。その程度であれば想定内だし、許容範囲だ」
ノエルはこの仕事を成功させて、魔術師という業から解放された、ただのノエルとただのベスに戻りたい。
そして一刻も早く、告げたい思いがあるのだ。
「わかったよ。エロイースとロドニーがお前の後方支援を魔法で行い、私が責任者としてお前と共同で世話をする。身の回りの世話はメイドを手配しよう。お前がこの花に集中している間、ナーランダが責任を持ってお前の温室の管理をする」
「えー、そんなにしていただいても・・大体皆さん多忙なのに、そんな・・それにそれだけ協力してくださっても、この花が開花する事はお約束できません。ちょっと本当に難しい子なんです」
そして、逡巡して、だがポツリと漏らした。
「花が咲かなくて、ノエル様にがっかりされたら、私どうしたらいいか、わからない」
俯いているベスに、ノエルの口には、思わず、抑えきれなかった思いが溢れてくる。
「‥ベス。そもそもお前を田舎の粉挽小屋から連れてきたのは、最初は千に一つでもこの花を開花させる可能性のある人物を探し求めていたからなんだ。だが、今はこの花がお前をこの温室まで導いてくれた事を、むしろ感謝しているんだ」
真っ直ぐとベスの目を見て、言う。
「俺がお前に失望することなどありようがない。お前には、どれほど感謝しても足りないと思っている。もちろんこの花の開花は、俺の魔術師としての悲願だ。だが、俺はお前に出会えた事の方が得難い出会いだったと、今ではそう思っている」
ベスが、不安そうにノエルの方を見た。
「本当に、もし失敗しても私にがっかりしませんか?」
「約束するよ、ベス。全ては俺の責任だ。俺のお前に対する気持ちが変わることなど、もう有り得ない。この花が咲いても咲かなくても」
ノエルはそっと、大切そうにベスの両手を握りしめた。
(ノエル様の願いを叶えてあげたい)
ベスは、思った。
ノエルはいつだって、いつも自分以外の何かの事ばかりで一生懸命だ。
いつも目の回るほどの多忙な仕事に追われて苦しそうにしているノエルだというのに、ベスの温室に来るとホッと笑顔を見せてくれる。良い出来の植物を渡すと、顔をくしゃくしゃにして、喜んでくれる。
そんな多忙の中で、わざわざベスの為だけに、ベスがずっと憧れていた、大魔術を見せてくれた。
最初の不遜なノエルへの嫌悪感は、いつの間にか多忙なノエルへの同情に変わっていった。
そしてノエルが身を粉にして、誰かの命を日々救うためにポーションを作成していると知り、思いは尊敬へと姿を変えていった。
尊敬は、そのままノエルへの憧れに姿を変えていった事に、ベスは気がついていた。
疲れたノエルが時折ベスに見せてくれる、少年のような素直な笑顔は、少しずつベスの心の喜びとなってきた。
そんなノエルが、こんなに真剣に花の開花を願うのだ。
ベスにできる事があるのなら、命すら惜しくない。
ベスの脳裏に、あの夜大きな魔術を展開してみせた、ノエルの美しい横顔が浮かんできた。
ベスの愛読書の、愛おしい姫君の為に命を懸けて、大魔術を展開した勇敢な魔術師の姿とノエルの姿は重なって見えた。
(私がもしも、あの物語の姫君のように、美しく尊い人だったら)
その続きの言葉を考えるほどに、ベスは夢見る子供ではない。
けれど想像の世界では、ベスは自由だ。
高貴な姫君と姿を変えたベスは、勇敢なる魔術師のノエルに手を取られ、二人で世界に冒険に出てゆく。ベスはうっとりと想像の世界に身を任せる。
秋祭りまでには、ベスは田舎に帰る約束だ。
ノエルのような高貴な男にしてみれば、ベスに魔術を見せてくれたのも、ベスに色んな知らなかった世界の事を教えてくれるのも、時折あのくしゃくしゃの笑顔を見せてくれるのも、ただの人生の気まぐれだろう。
だが、ベスにとっては、その全てが人生で煌めく一番星のような思い出になった宝物ばかりだ。
ベスが田舎に帰ったら、もうきっと、ノエルはベスの事を思い出すこともないだろう。
ベスは、この温室の思い出を糧に、山に囲まれた田舎に、本を慰めに一生粉を挽いて生きる。2度と人生で、交わることがないだろう二人。住む世界が違うのだ。
ただ願わくば、この高貴で尊いお人の願いを、ベスが一つでも叶えてあげる事ができるのなら。
(ノエル様は、私の事を覚えていてくれるかしら)
ベスは種にゆっくりと意識を合わせてゆく。
種は生きている。だがどうやら休眠状態らしい。
氷の魔力を媒体にして、眠りから目を覚ますタイプのものだとベスにも理解ができた。
(この種は、氷の魔力を触媒にして育つ種類のものだし、温度も一つでも間違えたら、冬眠に入るのね。えっと、その後も一息もつけないほどの管理と世話が必要になる。随分なお姫様なのね、あなた)
ベスは、種と呼吸を合わせた。
休眠状態であるが、生きている。
呼吸をしている。
種呼吸を合わせて、意識の境界線を、少しずつ手放してゆく。ベスは種になる。種はベスになる。
二つの命の境目は、緩やかに溶けてゆく。
ベスは静かに種に問いかける。
(私の所で、咲いてみたい?)
種は、笑ったような気がした。




