3
「ナーランダよ。それではベスであれば、可能だと言うのじゃな」
ナーランダの研究室で、机に並べられた幾つもの貴重なSクラスの仕上がりの植物を前に、エズラ老師は静かにつぶやいた。
午前の柔らかい光を受けた研究室は平和そのものだが、エズラの瞳には、そんな平和な午前には似つかわしくない暗い影が宿っていた。
ナーランダの研究室は、風の通り道だ。
大きな窓を開ける。
風が通うたびに、緑のざわめきのような葉擦れの声が、心地よい。遠くでは小鳥のさえずりが聞こえてくる。
風にその長く美しい紫色の髪が遊ぶのをナーランダは任せて、そしてエズラに向き直って、頷いた。
「ええ。ベスであれば。そしてノエル様であれば、エリクサーの精製は夢ではありません」
エズラ老師はこの国で賢者と呼ばれる大魔術師だ。
ベスの前ではただの年齢不詳の好々爺だが、数代前の王に魔法軍の参謀として暗躍していたという。
エズラ老師は、皺だらけの両手を重ね合わせると、大きくため息をついた。
「ユージニア王女の命の灯火は、あと少しで潰える。次の赤い月の日までにエリクサーを摂取しなければ、あの哀れな王女は」
そこで言葉が止まった。
ナーランダは言葉を引き継いだ。
「エズラ様。大聖女を母とする、神殿派のサラトガ侯爵家の長男のノエル様をその死の責任として、王家は侯爵家ごと糾弾する算段だとか」
大きくため息をつく。
「もしエリクサーが完成して王女の目覚めが成功すれば、今度はその功績を利用して、ノエル様との婚約を成立させ、サラトガ侯爵家を王家派に取り込むと。王家にすれば、結果がどちらになってもサラトガ侯爵家を王家の支配下に置く良い機会になるかと」
ナーランダは遠縁ではあるものの、王族の末席に籍を置く。
ノエルがどちらに転んでも、サラトガ侯爵家の勢力を御したい王家の駒としかなり得ない事は、王家の一員としてよく知っているのだ。
「都合よく、王家の森でちょうど良い魔獣が現れるなど。そういえば王家にはお抱えの魔獣使いがいたな。そしてその魔獣使いの使い魔は、蜘蛛だと」
元魔法軍の参謀であるエズラ老師の言葉にナーランダは答えない。
そしてエズラは言葉を重ねた。
「ユージニア王女の母は外国の出身じゃな。属国からの政略婚の上、王妃の父君は母国では失脚しているとなると、政治的に価値の低い第三王女の使い道としては実に賢明な事じゃ」
「王女もノエル様も気の毒な事です。二人の人生など、最初から政治の駒以上のもので有ったことは、ないのですから」
「だがまさか、エリクサーを完成させる目処が立つとは、王も嬉しい誤算じゃろうな。神殿が黙っちゃおらんだろうが、大聖女の息子を冷遇し続けてきた神殿に、今更大聖女の息子がエリクサーを渡す事もないじゃろう。神殿が独占している聖力の価値は下がり、エリクサーを擁している王家の政治力が、増す。どう転んでも王家にはいい話じゃ」
エズラ老師は、ナーランダの机の上に置かれていた、先日ベスが納品した薬木の地下茎を手にした。
地下茎は一般の出来とは違い、好き放題に右に左に曲がりくねって不恰好な仕上がりになっているが、育てる最中にそれを矯正しなかった様子だ。
根が進みたいと思っている方向の土を整えてあげれば、自然に良いものができますよ。そう笑っていたベスの笑顔がエズラの心を温める。もちろん仕上がりは、これ以上ないほどのSクラスの仕上がりだ。
「本当に素晴らしい。あれは間違いない。伝説の、緑の指を持つ娘じゃ。不世出の園芸家じゃ。ベスを見つけ出した事だけでも、この国にとっては大きな利であると言うのに、不憫なことじゃ。あの気の良い田舎娘も、この国の血で血を洗う、政治の渦に巻き込んでしまうのか」
そしてエズラは、傍の袋から、霊木にのみ繁殖するという、猛毒を誇るキノコを出して、机の上においた。
ナーランダは頷いて、ふわりと鑑定魔法をかけた。S級だ。
エズラもナーランダも難しい表情を浮かべる。残りの材料は、たった一つになってしまった。
「さあこれが、わしの分じゃ。あとはノエル様がなんとおっしゃるのか、待とう」




