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七色の香水

 木々の乱立する密林の中。


 そこは霊力によって創られる擬似的な光さえも遮る程の、暗く深い場所だ。


 そこに、突如として光が生まれた。


 輝くような光ではない。淡い光の粒子が舞い踊り、その数は徐々にその数を増やしていく。それらは渦を巻き始め、一か所へと集った。


 その様子はさながら、光の繭だ。


 ギチギチ、と眉の中から金属が擦れるような不気味な音が鳴る。


 そして、役目を終えた眉が儚く解けて消えていった。


 そこに鎮座するのは、小山の如き巨体。


 光の消えた暗闇の中で、尚黒い甲殻が、微かに動いた。


 それは知った。


 ――自らがまた目覚めたことを。


 それは気付いた。


 ――腹の底から湧き起る飢餓を。


 そしてそれは動き始める。


 そう遠くない場所から香る、微かな甘い香り。本能のままに、喰らうという意思が身体を突き動かす。

 太い脚が枝を踏み折り、巨体が持ち上がった。


 闇の中で浮かび上がった赤い瞳が蠢き、次の瞬間、それは背の羽をゆっくりと広げた。


 身体についた錆びを落すようにパキパキと乾いた音が響き、大きな羽が広がると、徐々に振動を始める。


 羽ばたきによって起こされた逆巻く風に樹々の葉が揺れ、それを中心に風音が唸り声となって響いた。


 怪しく蠢いていた赤の双眸が、止まる。


 それは見据えた。


 自らの行くべき先に、この飢えを満たすものがあると確信して。



     ◇ ◆ ◇



「ん‥‥ぁ、ん‥‥」


 妙に甘ったるい香りが鼻から頭の中を満たし、レーシアの意識は微睡から浮上した。


 ぼやけた視界の中で、緑と土の茶が入り混じる。


 身体の右半分に感じる固い感触に、レーシアは自分が横倒れになっていることを知った。


(なに‥‥が‥‥)


 上手く回らない頭で、必死でこれまでにあったことを思い出す。


(‥‥そうでした‥‥確かテイルに、セイ・アステラ草を探して欲しいと頼まれて‥‥それで‥‥)


 どうして自分が倒れているのか、何故意識を失っているのかと思いつつレーシアは身体を起こそうとして、そこで両腕が動かないことに気付いた。


「なっ‥‥!?」


 身体の後ろで、手首の部分が縛られている。


 そのことに驚くレーシアに、上から声が降ってきた。


「ようやくお目覚めかしら、レーシア・ウインスト先輩?」


 ねっとりと胸焼けするように甘い、それでいて人を馬鹿にしたような声。


 視線を上に向けると、そこにはワインレッドの髪に、どこか淫靡な美貌をした女が立っていた。


「あなたはっ‥‥」


 その女に、レーシアは見覚えがあった。


 八尋とレクト・ライオンハートの模擬戦の後、レクトに寄り添っていた女性徒だ。


「あら、私のことを知っているなんて意外ね。サリス・オ―ラッドよ。短い間だけどよろしくね?」


 サリスはそう言って、唇の端を吊り上げる。


 レーシアはその笑みに、無意識のうちに身体が震える感覚がした。


 自分が倒れ後ろ手に縛られている上、サリスは助ける素振りは見せない。


 レーシアは即座に判断した。目の前の女は敵だと。


「ファルウー‥‥」


 霊力を高め、ファルウートを発動しようとする。たとえ腕は縛られていても、ファルウートを顕現することは出来る。


 しかし、それと同時にレーシアは頬に冷たい感触を感じた。


「おっと、そこまでだぜ?」

「っ!?」


 ぬっ、と横倒しになったレーシアの背後から、いきなり男の顔が現れた。


 レーシアの目と鼻の先で、浅黒い潰れた蛙のような顔がレーシアを覗き込んでくる。


 頬の冷たく固い感触が、肌を押し込んだ。


 醜男が、息が顔にかかる程近くで口を開く。


「俺はよぉ、ゴウトってんだ。今の自分の状況、分かるだろ? 痛い思いしたくなけりゃ、大人しくしとけよ」

「くっ‥‥!」


 レーシアは歯噛みした。サリスだけであれば話は簡単だが、仲間がいるとなれば別だ。


 どうしてか未だに頭がぼんやりとして集中できず、しかもそこに強い痛みを与えられれば、ファルウートの発動は難しい。もし出来たとしても、簡単に抑え込まれるだろう。


 憎々し気にゴウトを睨み付けていると、サリスが笑って言った。


「フフフフ。ねえ、レーシア先輩、頭がクラクラしない? それともボウっとかしら?」

「何が‥‥言いたいのでございますか」


 サリスの言葉に、レーシアは返す。


 確かにサリスの言う通り、妙に頭が回らない。その上身体全体が倦怠感を伴っているのに、身体の奥から熱が込み上げてくる。


 サリスはそのレーシアの様子を楽しそうに眺めながら、片手を前に出した。そこには、ガラスの小瓶が揺らされている。


「これはね、私の霊装『七色の香水(パジウム)』って言うのよ。戦いにはほとんど使えないけど、その代わり色んなことに使えてね」

「‥‥」

「例えば、必死にセイ・アステラ草を探してるあなたを寝かしつけたりとか、ね?」

「っ! あなたたちは、テイルを利用したのでございますか!?」


 レーシアは叫ぶ。


 状況から考えて、レーシアはハメられたのだ。


 そのために冒険者を辞めたテイルを利用したのかと、激高する。


 だがサリスは一瞬呆けた顔をし、大きな声で笑った。


「ハハハハハハ、馬鹿ね! あれはブラッククランの人間に依頼したのよ。変装して馬鹿な小娘を騙して欲しいってね。本当あんまりにも簡単に騙されるものだから笑っちゃうわ」

「‥‥」


 サリスの種明かしに、レーシアは複雑な思いで口を噤んだ。


 テイルが利用されていなかったこと、自分を過去の仲間が陥れたのではないと安心した反面、今の状況が良くなったわけではない。


 依然として頬に刃物を突き付けられ、身体の調子が悪い。


 そんなレーシアに、サリスはしゃがみ込むと、『七色の香水(パジウム)』を見せつける。


「‥‥下らない話はお終い。私の霊装はね、さっきも言ったように、時間はかかるけど色々な効果を出せるの。あなたを眠らせたのが催眠の効果だとしたら、今あなたに嗅がせている香水は、どんな効果だと思う?」


 さっきから鼻につく、妙に甘ったるい匂いはこれのせいでございますか、とレーシアは香水を睨み付ける。


 すると、ゴウトがドスの効いた声で言った。


「おい、答えろよ」


 同時に頬に当てられた刃物が微かに動き、レーシアはしぶしぶ答える。


「‥‥弛緩」


 すると、サリスの顔が変わった。まるで別人かと思う程に口が三日月型になり、目が嗜虐的に歪んだ。


「そう、そうねえ。確かに今の症状だと似たようなものかしら。けどざーんねん! 不正解よ」


 サリスは笑ったままフ、ッと吐息を小瓶の口に吹きかける。


 脳が溶ける程に甘い匂いが、レーシアの顔を覆った。


 そして、サリスは正解を告げる。まるで最後まで残っていたケーキのイチゴを食べるような、至福の表所で。


「正解は、‥‥催淫効果よ。いわゆる媚薬ってやつ」

「なっ‥‥!?」


 予想外の効果に、レーシアは言葉を失った。


 サリスは歪んだ笑みのまま話続ける。


「お前はねー、あのムカつくEランクをおびき寄せるための餌なの。それでもって人質。あいつがここに来たら、抵抗できないあいつをぐちゃぐちゃになるまで痛めつけて、最後にはあいつの目の前であんたを徹底的に犯してあげる。‥‥安心していいわ、私の香水のおかげで、すぐにでも自分から腰を振るようになるもの」

「‥‥」


 あまりの恐ろしい言葉の羅列に、レーシアは何も言えず、目を見開いてサリスを見つめた。


「怖いかしら? 本当は、あのいけ好かない雌豚を肉便器にしてやろうと思ったんだけど、まあいいわ。あいつはEランクを殺してから奴隷にすればいいもの」

「殺‥‥す‥‥? 八尋を?」

「当然じゃない、『ライオンハート』に喧嘩を売ったのよ? ここまでしてリンチ程度で終わるわけないじゃない。大丈夫、あんたも使い終わったらすぐに殺してあげるから」


 楽しそうに語られる犯罪に、レーシアは声を荒げた。


「そんなことしたら、ギルドが黙っているわけない!」

「馬鹿ね、何のためにお前をここまでおびき出したと思っているのよ。天理の塔の中で死ねば、証拠なんて何一つ残らないわ。たとえ私たちが怪しまれても、明確な証拠がなければギルドは動かない。たかが学園の生徒二人のために、『ライオンハート』を敵に回すわけがないのよ」

「そんな‥‥」


 レーシアは最悪の想定を前に、それしか言えなかった。


 サリスが語った内容は、十分にあり得る話だった。だが何よりも恐ろしいのは、目の前の女が、それを躊躇いなく実行するだろうと、そう理解したからだ。


 モンスターの殺意とは違う。


 意図的に、個人に対して向けられる、明確な悪意。ドロドロと濁って粘ついた泥が、レーシアの身体を這い上がって喉の中に入り込んでくる。


 その息が詰まるような恐怖に、レーシアは恐怖したのだ。


 レーシアの怯えた表情に、サリスの嗜虐的な笑みは深まる。


「いい、いいわねその表情。自分の立場がようやく理解出来た? そろそろ身体が熱くなってきたでしょう。あんたはこれからここにいる男たちに壊されるのよ、精々楽しむことね」

「そうそう、楽しもうぜレーシアちゃん」


 サリスの言葉に合わせて、ゴウトが汚い笑い声をあげた。その間にも下卑た視線がすぐ近くから、レーシアの全身、特に豊かに実った胸の部分を嘗め回した。


「ひっ‥‥」

「そんな怖がんじゃねーよ? なーに、俺のが入ればそんなことすぐに忘れるけどな」


 アヒャヒャヒャ、とゴウトが笑う。


 臭くて生暖かい息がレーシアの顔に吹きかかる。


 ――嫌だ。


 ――こんなのは嫌だ。


 レーシアは叫びだしたい衝動を抑え込むために、下唇を噛みしめる。舌先に、じんわり鉄臭い味が広がった。


「お、もう起きてたのかよ」


 倒れるレーシアの視界に、もう一人男が入ってくる。長髪を縛った、細目の男だ。


 当然、味方ではない。


「あら、見回りは終わったの?」

「ああ、今のとこ周りにモンスターはほとんどいなかった。雑魚は殺して来たし。‥‥そろそろターゲットが来てもいい頃だと思うけど」


 サリスと親し気に話す男は、近づいてくると、腰を折ってこちらを覗き込んだ。優し気な表情でも、レーシアの背には悪寒だけが走る。


「ふーん、やっぱ可愛いじゃん。俺は蒼波ね」


 細い目を更に細めて微笑む蒼波に、ゴウトが楽し気に言う。


「なあ蒼波、最初は俺からでいいよな?」

「別にどっちでも。ああ、ただ身体は傷つけるなよ? 俺は綺麗な身体を刻むのが好きなんだ」


 蒼波は、そう言って口元を舌で嘗めた。


(このままだと――)


 犯されて、殺される。無残に処女を散らされ、散々に痛めつけられ、最後にはごみを処分するように殺される。


 その間には、八尋を殺す人質として利用されるのだ。


 あまりにも惨い未来に、レーシアは怒りと恐怖と悔しさに涙を流した。


 もう二度と仲間を死なせたりしないと、そう誓ったはずなのに、今レーシアは八尋たちの足を引っ張っている。


 その事実が、自分の情けなさが、あまりにも腹立たしかった。


 だが、レーシアの身体を『七色の香水(パジウム)』の効果は間違いなく苛んでいる。


 頭の靄は晴れず、お腹の下から熱が込み上げて身体が火照り、呼吸は浅く荒ぶった。


 こんな状況でもサリスの霊装に抗えない自分の身体が、浅ましくてたまらない。


 ポロポロと零れ落ちた大粒の涙は、顔を伝って地面へと滴る。


「おっ、なになに泣いてんのレーシアちゃん。それともエッチな気分になっちゃった?」

「情けない女、泣いても許されるわけないわ。私、泣く女って嫌いなのよね」


 浮かび上がったサリスの靴底が、振り下ろされてレーシアの頭を踏みにじった。


 高い笑い声が、靴の向こう側から聞こえてくる。


 泣きながらレーシアは思った。


 ――八尋たちは助けに来てくれるのだろうか。駄目だ、来たら殺されてしまう。私を見捨ててこいつらを倒して欲しい。危ないから、来ちゃいけない。でも――


 様々な思いが複雑に絡み、混沌とする中で、最後に残った思いはたった一つだった。


(助けて)


 死にたくない。


 ようやく、光に手が届いたのだ。ヴィードによってもたらされた闇の中で、二人に取って貰った手が、触れた。


 それをこんな形で引き裂かれるなんて、酷すぎる。


 これから訪れるであろう最悪の未来にレーシアは眼を閉じて身を固くする。


 その時だった。


「ん? おいなにか聞こえなかったか?」

「あん? 気のせいじゃねーの?」

「いや、確かに聞こえたぞ。何か遠くで大きな音が」


 蒼波とゴウトのそんな会話が聞こえて来る。


 レーシアに音は聞こえない。既に頭の中まで熱にうなされて、自分の意識が今あるのかどうかさえ曖昧だった。


「あのEランクかもしれないわ。しっかり見てきて」

「また俺が見に行くのか? 今度はゴウトが行ってこい」

「は、なんでよ」

「その子、もう警戒する必要もないでしょ」

「っち、しゃーねーな」


 頬に当てられていた冷たい感触が離れ、一人分の気配が遠のいていく。


(なんでございますか‥‥)


 ぼんやりとした頭で、レーシアは考える。


 時間が経つにつれて、どこか遠かった現実味が恐怖と共に押し寄せて来る。


 助けて欲しいなんて願っても、レーシアと八尋たちとの関係は大して深くない。レーシアは彼らを騙し、彼らの良心を利用してパーティーに収まった。


 もし捕らわれたのが桜花だったら、八尋はきっと助けに来るだろう。


 けど自分は? 


 戦いでは役に立たず、周囲からは忌避の目で見られるパーティーのお荷物。しかも気を付けるよう言われた翌日に、まんまと騙されて捕まる始末だ。


 こんな役立たずを、一体誰が助けに来てくれるというんだろう。


 全身を犯す熱に反比例して、諦観に感情は冷めていく。


 もう何もかもがどうでもよくなって、感情の全てが流した涙と共に欠落していったようだ。


 香水の力に抗おうとする最後の気力が折れ、レーシアは全身の力を抜こうとした。



 

 直後、幾つもの破砕音が響き渡った。




「な、なに!?」

「なんだ!?」


 サリスと蒼波が驚きの声を上げ、背後を振り返った。


 ぐったりと脱力したレーシアは、サリスの足がどけられたことで、ようやく視界が広がる。


 まず目に入ったサリスと蒼波の足だ。


 二人はレーシアに背を向けて、何かを見ている。まるで思考が停止したように動きを止めた二人の向こう側で、再びギチギチと音が鳴った。


「‥‥ぁ、ぁあ」

「な‥‥あ‥‥」


 喉の奥から声を絞り出した二人が、徐々に後ろへとずり下がる。


(な‥‥にが‥‥)


 明らかに、何かが起きている。大事な人質であるはずのレーシアを放置しなけらばならない程の何かが。


 レーシアは、懸命に瞼を持ち上げ、首を回す。


 ぼやけていた視界がクリアになり、レーシアははじめて何が起こっているのかを理解した。


 この場に居る誰よりも正確に、理解してしまったのだ。


「‥‥っぁあ、ぁぁあ!」


 どうしようもなく、悲鳴が溢れる。


 確かにレーシアを侵していた諦観も香水の効果も、全てが一色に塗りつぶされた。


 思考も感情も、何もかもが湧き上がらない程の重い、純粋な恐怖に。


 木々をなぎ倒し、そのモンスターはそこに浮んでいた。


 光に照らされた甲殻が黒く輝き、透明な後ろ羽が木々を揺らす程の暴風を巻き起こす。


 その姿を一言で例えるのであれば、巨大なカブト虫だろう。自動車よりも大きく、甲殻はより鋭利なフォルムを描いているが。


 その象徴とも言える部位。赤い双眸の上、雄々しく伸びる巨大な一本角は、巨人の振るう騎乗槍に等しい偉容だった。


 その角の先に、一人の男が吊るされている。


 より正確には、胸を深々と貫かれたゴウトが口元から血を流し、虚ろな瞳で角にぶら下がっていたのだ。


 確認する必要もない、既に死んでいる。


 ギチギチと音を立てて目の下にある顎が動き、モンスターは角を伝って垂れるゴウトの血を舐めとっていた。


 見紛えるはずもない。


 忘れるはずがない。


 レーシアは縛られた腕で、弛緩した身体で無意識のうちにずり下がろうとする。


 本能に刻み込まれた恐怖が、心臓を鷲掴みにし、身体を震えさせた。


 ガチガチと鳴る歯の隙間から、その言葉が零れる。


 最凶最悪の、怪物の名が。




「‥‥ヴィード‥‥」




 一年前、レーシアのパーティーを半壊させ、これまでに多くの冒険者を殺戮してきたモンスターの中の英雄。冒険者にとって不倶戴天の敵。


 ヒーローモンスター、ヴィードが王者の如き風格で佇んでいた。


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とても励みになります。


申し訳ありませんが、仕事が始まるため、これまでと同じように投稿は出来なくなります。

なるべく毎日一部は投稿したいと思いますが、ご考慮ください。

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