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それだけ

 不気味なほどに美しい満月の下、白い肌に浮かび上がった真っ赤な唇が三日月を描く。


 肌と同じ真白の髪が夜空に靡き、血を注ぎ込んだような鮮やかな紅の瞳が八尋を見下ろしていた。


 白と赤。


 たった二色だけで彩られた彼女は。けれどこの夜において、他の何よりも鮮烈で、劇的だ。


 少女がいるから、八尋は正気でいられる。


 血と臓物と、魂の抜かれた骸が辺り一面に転がる地獄の中であっても、浮世離れした少女の存在だけが八尋の精神を現世に繋ぎ止めていたのだ。


 たとえこの地獄を作り上げたのが、目の前の少女であったとしても。


「‥‥」


 いつも親切だったおばさんが、胴体をへし折られて、死んでいる。


 村一番の力持ちで頼りになる大輔おじさんは、頭だけが一回り歪に小さくなって、死んでいる。


 幼馴染でよく遊んでいたりんちゃんは、首から下がどこかに無くなって、死んでいる。


 そして八尋を生贄に決めた村長は、内臓を綿みたいに引きずりだされて、やっぱり死んでいた。


 現実味の無い光景は、しかし鼻をつく鉄錆びと排泄物の入り混じったような匂いが、嘘ではないと教えてくれる。


 月を背負って立つ少女が、口を開いた。


「小僧、名は?」


 その問いは不可思議な強制力を持っていて、とても喋れないはずの八尋は、か細い声で答える。


「‥‥八尋‥‥。仙道‥‥八尋」

「そうか、八尋か」


 少女は笑った。とても虐殺をした後には見えない程、無垢な笑顔で。


「小僧。お主、精霊神に見初められた人間だな? ここでお前を殺すのは簡単だ。だが、それでは面白くない。‥‥妾は飽いておるのだ、この退屈な日々を、漫然と繰り返される昼夜を」


 八尋には、少女が何を言っているのか分からなかった。精霊神なんて、聞いたことがない。


 八尋の戸惑いを余所に、ただただ少女は楽しそうに笑う。


「だから小僧、妾を楽しませよ。夜ごとに妾を思い、妾のことだけを考えて生きよ。そうして、いずれこの身に挑むがよい。叡智と力を携えて、蛮勇を為せ。妾の無聊を一時でも慰めるためにな」


 そう言って、少女は白く細い手を伸ばし、八尋の頭を掴んだ。冷たい掌の感触が、額に当たる。


 柔らかくても、この手が村人を引きちぎり、心臓を抉り、頭を砕いたのだ。


 八尋は思わず身体を固くさせた。


「これをくれてやる。精々楽しませてみせるのだぞ、小僧」


 次の瞬間、何かが額から脳の天辺を通って、足先までを貫いた。


 それは、熱だ。


 血を沸騰させ、肉を焼き、脳を溶かす程の熱さ。


「――あ、あぁあぁあああああああああああああああ!!」


 八尋は感じたことのない痛みに絶叫し、血に塗れた地面を転げ回った。


 瞼を閉じても目の奥から火が溢れてくるような錯覚を覚え、八尋は顔を両手で覆う。身体の内側から燃える業火は、どれだけ暴れようと消えてはくれない。


 ――カハハハハハハハハ!


 遠くなる意識の向こうで、少女の楽しそうな笑い声が延々と耳の中を鳴り響いていた。




「――っぁは!?」


 明かりの消えた暗い部屋の中、八尋はベッドの上で跳ね起きた。

周囲を確認し、そこがレビウムでの家だと認識すると、荒い呼吸を落ち着けるために深呼吸をする。


 心臓が、未だに荒い鼓動を打っているのが分かった。


「はぁ‥‥」


 無意識のうちに、手が自身の額に伸びる。既にそこに夢の中で感じた熱は存在しない。


 分かっている。少し昔を思い出しただけだ。


 だが、当分は寝れそうになかった。


「‥‥」


 八尋は無言でベッドから降りると、そのまま部屋を出て玄関に向かった。


 一回の部屋で寝ている桜花を起こさないように、八尋は静かに家を出る。


 辺りはとっくに夜に包まれていて、微かな月明かりが八尋の顔を照らした。


 八尋が向かったのは、この家についている小さな庭だ。姫咲家の用意してくれた家は小さいながらもちゃんと庭があって、簡単な素振り程度なら出来るようになっている。


 八尋は庭に座り込むと、座禅を組んで目を閉じた。


 そうして何もかもを忘れ、自分の中に没入していく。


 そうしてどれ程の時間がたっただろうか、ふと隣に感じた気配に、八尋は目を開けて隣を見た。


「‥‥」


 そこには、寝間着にカーディガンを羽織った桜花がしゃがんでいて、八尋の顔を覗き込んでいた。


(うぉっ)


 想像以上に近い位置にあった桜花の顔に、八尋は思わず顔を引いた。


「お、おう。悪い桜花、起こしたか?」

「いえ、大丈夫です」


 桜花は淡々と答えると、突然手を伸ばして八尋の額に当てた。柔らかな手の感触が、額を包んだ。


「な、なんだよ桜花」

「――まだ、鬼火を思い出してしまいましたか?」


 心配そうな桜花に、八尋は桜花の手を掴んで額から優しく放す。


「もう大丈夫だよ、今日のはちょっと夢に見たんだ」

「レーシアさんの呪いの話を聞いたからですか」

「たぶん、そうだと思う」


 でももう落ち着いたから寝れると思うぞ、と八尋は笑ったが、桜花の表情はどこか沈鬱だ。


 八尋は六歳の時、両親を事故で亡くし、村の決定によって鬼への生贄に選ばれた。


 しかし鬼神は八尋を殺さず、村にいた村人を八尋の前で虐殺し、最後に八尋に言ったのだ。『妾を楽しませよ』と。


 そして、そのために八尋の身体にある呪いをかけた。


 額に刻印となって刻まれた『鬼火』の呪いは、鬼神の言葉通り、夜になると八尋の身体をすさまじい熱で苛み、苦しめた。


 それは決して八尋が鬼神を忘れないように、逃げ出さないようにするための楔だったのだ。


 いつしかそのせいで八尋の頭髪は鬼神と同じく白くなり、鬼火が発動する間は座禅を組むのが日課になった。その痛みを抑える術がない以上、あとは八尋がそれとどう向き合っていくかしかない。


 鬼神を殺したことで既に鬼火の呪いは消えているが、それでも十年間苦しめられた痛みはそう簡単に忘れられず、八尋は時たま夜になると鬼火の熱を思い出すことがあった。


 桜花も夜ごと、痛みにのたうち回る八尋をずっと見つめてきたのだ。


 呪われのレーシアという言葉を聞いた時から、八尋が鬼火を思い出さないか心配していたのである。


「‥‥なにか、落ち着くものを淹れますね。ホットミルクでいいですか?」

「いや、ありがたいけど、俺もうホットミルクって年齢でもないんだけど?」

「お茶やコーヒーは逆に寝れなくなってしまいますから」

「なるほど」


 では、と桜花が立ち上がろうとすると、八尋がその腕を掴んだ。


「っ!?」


 突然の八尋からのスキンシップに、桜花は心臓が飛び出そうな程驚くが、その動揺は顔には一切出ない。


「どうかしましたか?」

「ああ、今日レーシアと話してて、そういえば桜花に聞いてないことがあったなって」

「聞いてないこと、ですか?」


 首を傾げる桜花に、八尋は疑問に思っていたことを聞く。


「なんで桜花は、レビウムに来たんだ?」

「何故、ですか‥‥」

「鬼神はもう討たれたんだ。桜花の力なら天理の塔以外にも職はいくらでもあるし、別に霊装を使う職に就かなくたっていいだろ。俺と違ってちゃんと学校に通ってたしな。それなのに、どうして命の危険があるレビウムに来たのかと思ってさ」


 予期せぬ問いに、桜花はフリーズした。


 この問いに対する答え自体は簡単なのだ。


 あなたが好きだから付いてきました、とそう言えばいい。


 実際その通りなわけだし、八尋と桜花は婚約者である。言うのにはなんの問題もない。


 けれど、いや無理、と桜花は即座に判断した。


 それが簡単に言えたら形だけの婚約者になんておさまってない。


 ただ、本気で答えるレーシアの姿を思い出して、桜花は覚悟を決める。


 今の自分に出来る精一杯を。


「その、神殺しになった八尋さんに少しでも恩を返したかったですし、八尋さんを一人慣れない地に行かせるわけにはと思いました。勿論、色んな世界が見たかったっていうのもあります」

「そんなことでここまで来てよかったのか?」


 八尋のそんな言葉に、桜花は思わず語気を強めて言った。


「そんなことじゃありません」

「お、おお、ごめん」


 戸惑い顔の八尋。


 八尋は自分の価値を理解していない。自分の為した偉業がどれ程のもので、姫咲家の人間として、それをどれ程桜花たちが感謝しているのかを。


 そのことがもどかしくて、桜花は少し悔しかった。


 だからだろう、桜花は普段なら絶対に出来ないような行動に出た。


「どうした?」

「‥‥」


 桜花は無言で座禅を組んだままの八尋の頭を抱きしめた。白い髪が頬に当たって、くすぐったい。


「なっ! 桜花!」

「そんなことなんて、言わないでください。私は八尋さんのお役に立ちたいんです。それが、それだけが私の願いです」


 ギュッと抱きしめる腕に力が篭る。


「‥‥」


 抵抗しようとしていた八尋も、桜花の背中に手を回した。普段は感情を表に出そうとしない桜花が、ここまでしてくれたことを嬉しく思いながら、その華奢な身体を抱きしめた。


 十年前から知っている、懐かしさを覚える香り。温かい何かが、八尋の胸を満たしていく。形だけの婚約者であっても、長く共に居てくれたことは嘘ではない。


「そうか、そうだな。ありがとう桜花」

「いえ、問題ありません。私は八尋さんの婚約者、ですから」


 どちらからか分からないが、二人は抱き合ったまま小さく笑い始めた。


 十年前、あの日失ったものは多くある。


 それを今更取り戻せるとは思わないし、やり直したいとも思わない。


 ただ確かに、あの日からこれまでに得られてきた物もたくさんあるんだと実感しながら、八尋は桜花をより強く抱きしめた。


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