9 会いたい…
どうして、今日はこんなにも時間がかかるの?
車窓から見える風景が、いつもより遅く流れていくように見えた。
時計の針ばかりが焦るように進んでいくのに、電車はまるで誰かの意地悪のように、ゆっくりとしか動かない。たった一駅が、いつもの何倍にも感じられて、胸の奥がざわついた。
「お願い……早く、早く着いて……」
若葉は膝の上で手をぎゅっと握りしめ、祈るように目を伏せた。
彼女の頭の中には、ただひとつの思いしかなかった。
――どうしても、会いたい。若菜さんに、どうしても……会わなくちゃいけない。
言葉にしなくてもわかる。今日という日は、絶対に逃しちゃいけない。
心のどこかでそう感じていた。
なのに、時間は無情にも過ぎていく。電車は一駅、また一駅と止まり、そのたびに焦りが増していく。
スマートフォンの画面に映る時刻を見つめながら、若葉の喉がつかえた。
「間に合わなかったらどうしよう……もう、会えなかったら……」
そんな不安が何度も頭をよぎるたびに、胸がぎゅっと締めつけられる。
けれど、それでも――
「駅に着いたら、走ろう。全力で走る。会社まであと5分くらい……どんなに遠く感じても、絶対にあきらめない」
たとえ倒れてもいい。足がもつれても、涙がこぼれても、それでも――
「会いたい。会いに行くって、決めたんだから……」
若葉は小さく深呼吸をして、もう一度手を握り直した。
窓の外に見慣れた景色が広がり始めた頃、次の駅が、ようやく目的地だとアナウンスされた。
鼓動が高鳴る。
胸の奥で何かが震える。
そのすべてが、ひとりの人に会いたいという、ただそれだけの願いに繋がっていた。
――もうすぐ、会える。だから、信じて。諦めないで。
若葉は自分に言い聞かせながら、扉が開くその瞬間をじっと待っていた。
シュー―― ガチャン。
金属音を立てて開いた扉が、わずかに遅れて静かな風を運んできた。
その瞬間、若葉は勢いよく飛び出す。髪がふわりと舞い、スニーカーが床を叩く音がホームに響く。
一秒でも無駄にしたくない。
まるで今この瞬間のすべてに命を懸けているかのように、若葉は階段へと駆け上がった。
肩で息をしながら、目指すのはただ一つ。
約束の場所――会社。そして、若菜のもとへ。
その頃。
静かに窓の外を見つめていた若菜の背後から、控えめに声がかかった。
「黒川さん……そろそろ、お時間です。成田へ向かわなければ」
落ち着いた低い声だったが、その言葉には明確な区切りが感じられた。
運転手が告げたのは、“出発”という現実。
これ以上、ここに長く留まることはできない――そうはっきりと告げていた。
若菜は、静かに頷いた。
このまま時が止まってくれればいいのに。
そんな叶わぬ願いが、ほんの一瞬、胸をよぎる。
けれど、現実の針は確実に進んでいた。
飛行機の時間も、次の予定も、容赦なく近づいてくる。
――もう、本当に、時間がない。
そう感じたその瞬間、若菜はふと入り口の方に見やった。
胸の奥がざわりと揺れる。
“間にあわなかったね…… 若葉ちゃん…”
静かなエントランスの中で若菜と千尋に、お別れの時が…
出発の時がじわじわと迫っていた。
「千尋ちゃん……私、もう行かなくちゃ」
若菜がぽつりと呟いた声は、どこか遠くに消えてしまいそうなくらい小さく、そして寂しげだった。
その言葉を聞いた瞬間、千尋の瞳から、ぽろりとまた涙がこぼれ落ちた。
そして、唇をぎゅっと噛みしめた次の瞬間、耐えきれずに声を上げて泣き出した。
「やだ……やだよ……別れたくないよぉ……!
なにか……なんとかならないのかなぁ……うぇぇぇ〜〜〜えぇえぇえぇえぇえぇぇ〜〜〜っ!」
肩を震わせながら、顔を両手で覆い、大きな子どものようにわんわん泣きじゃくる千尋。
涙も鼻水もぐしゃぐしゃで、言葉にならない声が喉から漏れ続けていた。
その様子に、若菜は思わず苦笑した。
けれど、その笑みの奥にあるのは、自分自身を励ますような切なさと、名残惜しさだった。
「千尋ちゃん、ね。……LINE、交換しよ」
優しく声をかけながら、そっと千尋の背に手を添える。
「そうすれば、いつでもお話できるから。ね?」
その一言に、千尋はぐしゃぐしゃの顔のまま、うんうんと何度も何度もうなずきながら、カバンをごそごそと探りはじめた。
ようやくスマートフォンを取り出すと、涙で滲む画面を必死に操作してLINEを開いた。
でも――その瞬間、千尋の手がぴたりと止まった。
「……あ……」
画面に表示された新着メッセージ。それは若葉からのLINEだった。
千尋はそれを読み、ほんの一秒の静寂のあと――また、泣き出した。
「ひっぐ……うぇぇぇぇぇ〜〜ん……!」
しゃくり上げるようにして泣きながら、今度はスマホを若菜に差し出す。
「ど、どうしたの……?」
若菜がそっとスマホを覗き込もうとすると、千尋は小さく頷いて、言葉にならない声で「見て……」と呟いた。
涙の粒が、スマホの画面にも落ちていた。
若菜がその画面に目を向けたとき、何かがふたりの心を強く揺さぶろうとしていた。
スマートフォンの画面に浮かんだ、たった数行のメッセージ。
「今、電車に乗ったよ。
もう少しでそっちに着くからね。
絶対に間に合うようにするから――待ってて。」
それを目にした瞬間、若菜の胸の奥で、何かがふわりとほどける音がした。
その音と同時に、視界が滲んでいく。
涙が止めどなく溢れ出し、若菜はとっさに手で口元を覆った。
――声に出したら、崩れてしまいそうだった。
誰にも悟られたくなかった。泣き声も、込み上げる想いも。
でも、こらえようとすればするほど、涙は頬を伝って零れ落ちた。
それでも若菜は静かに立ち上がり、深く息を吸って、笑顔を作る。
小さく震える声で、そっと千尋に声をかけた。
「千尋ちゃん、立って。行かなくちゃ……」
その言葉に、千尋はゆっくりと立ち上がった。
名残惜しさと、切なさと、それでも前を向こうとする強さが、ふたりの間に静かに流れていた。
若菜は千尋の目をまっすぐ見つめて、優しく言った。
「仕方ないよね……若葉ちゃんに会えなかったことは、本当に残念だけど――
でも、千尋ちゃんと友達になれたことが、私にはすごく、すごく嬉しかったよ」
その言葉に、千尋は瞳を潤ませながらも、力強くうなずいた。
まるで「私も同じ気持ちだよ」と伝えるように。
「若葉ちゃんに会えたら……よろしく伝えてくれる?」
若菜は微笑んで続けた。
「“ありがとう”って。“すごく楽しかったよ”って……ちゃんと伝えてほしいな」
「……うん。絶対、伝える」
千尋の声は震えていたが、その目には確かな決意が宿っていた。
「じゃあ……行くね」
若菜のその一言が、静かに、でも確実に“別れの時”を告げた。
ふたりはゆっくりと歩き出した。
何気ない一歩が、重たく感じるほどの時間。
エントランスの外まで並んで歩くその背中に、言葉にできない想いが滲んでいた。
もう戻れない時間。
でも、きっと心はつながっている。
そう信じながら――扉の向こうへと歩いていった。
エントランスのドアが開いた先、まばゆい午後の陽射しの中に、黒く光る一台の車が静かに停まっていた。
ぴかぴかに磨かれたその車は、まるで大切な人を乗せて、遠くへ旅立たせるためにそこに待っていたかのようだった。
運転手がスーツケースを軽やかに持ち上げ、トランクに収めていく。
その間、若菜と千尋は言葉もなく、ただ並んで立っていた。
――時間が、静かに、確実に、流れていく。
そして、荷物の積み込みが終わったのを確認すると、若菜は千尋の方へ向き直り、そっと右手を差し出した。
「千尋ちゃん、行ってくるね」
その一言は穏やかだった。
けれど、言葉の奥にはたくさんの感情が詰まっていて、千尋の胸にすぐさま届いた。
「……う、うえぇぇ……やだぁ……やっぱりやだ……」
千尋の目からは、また大粒の涙が溢れ出していた。
それでも――泣きながら、若菜の差し出した手をしっかりと握り返す。
その手は温かくて、細くて、でもまっすぐに未来を見つめている強さがあった。
千尋は泣きじゃくる声を必死にこらえながら、真剣な瞳で若菜を見つめ返した。
「若菜さん……行ってらっしゃい。私、絶対、絶対、会いに行きますからね……!
どんなに時間がかかっても、頑張って……絶対、ニューヨークに行きますから……!」
その言葉に、若菜は思わずふっと微笑んだ。
その笑顔はどこか母のようでもあり、友達のようでもあり、姉のようでもあった。
「うん、待ってるね」
優しい声が風に溶けていく。
「若菜さん……頑張って……」
涙を拭いながら千尋がそう呟くと、若菜はそっと車に乗り込んだ。
扉が閉まると、運転手が静かにハンドルを握り、エンジンが優しい音を立てる。
けれど、若菜は最後の一瞬まで千尋の顔を見ていた。
窓をゆっくり開け、もう一度だけ、まっすぐな言葉を千尋に届ける。
「千尋ちゃん、本当にありがとう」
たったそれだけだったけれど、そこにはすべてが込められていた。
出会えたことへの感謝、優しさへの敬意、そしてまた会いたいという願い。
そして――
車はゆっくりと動き出した。
建物の影が少しずつ遠ざかり、タイヤの音がアスファルトをかすめて進んでいく。
その瞬間、千尋は体を弾かれたように走り出した。
「若菜さーんっ!!!」
泣きながら、大きく、大きく手を振る。
「また絶対、会いましょうねぇーーーっ!!」
その姿は、まるで空に向かって「さよなら」を投げかけるようだった。
小さな体いっぱいに、想いを詰めて、精一杯の“さよなら”を伝える千尋。
若菜は窓越しに、そんな千尋に静かに手を振り返しながら、また小さく笑った。
それは、未来へとつながる約束のような微笑みだった。
車はやがて角を曲がり、見えなくなった。
でも千尋は、しばらくその場から動けなかった。
目の前に誰もいなくなっても、彼女の心には、確かに若菜のぬくもりが残っていた。
それは――別れの涙の奥に、未来への希望が光った瞬間だった。
「ハァ、ハァ、ハァ……!」
呼吸が喉の奥で乱れ、酸素を吸っても吸っても足りない。
胸が苦しくて、頭がクラクラしているのに――若葉は止まらなかった。
「あと……もう少し……! あと少しだけ、だから……若葉、頑張って……!」
声にならない声で、自分に何度も言い聞かせる。
足元がふらつき、スニーカーさえ重く感じるほどに、身体は限界を迎えかけていた。
けれど、そんなことに構っている暇なんてなかった。
額から流れる汗が目に入り、視界がじんわりと滲む。
ピリッとした痛みに思わず顔をしかめるけれど、手で拭う余裕すらない。
前を見据え、ただひたすらに走る。全力で、息を切らしながら。
頬は真っ赤に染まり、髪も首元に張り付いている。
心臓がドクドクと激しく鼓動し、肺が焼けるように熱い。
でも――そのすべてを押しのけるように、若葉の胸の中にはただ一つの想いしかなかった。
「お願い……どうか……どうか間に合って……!」
交差点を抜け、信号待ちの人々をすり抜けながら、若葉は自分でも驚くほどのスピードで駆け抜けていた。
スーツの裾が風をはらみ、腕を振るたびに鞄が身体に打ち付ける。
痛みも、疲労も、汗も、視界のにじみも――全部、構わない。
全部、気にならない。
「若菜さんに……会いたい……!
今だけは、絶対に……間に合いたいの……!」
誰かが「危ないよ!」と声をかけた気がした。
でももう聞こえていない。
心の中で何度も何度も、若菜の名前を呼びながら――。
その姿は、まるで何かに追われているようにも見えた。
けれど実際には、“追っている”のだ。
一秒でも遅れたら、もう会えないかもしれない――そんな運命を、全力で追いかけていた。
荒い息を吐きながら、必死に駆け抜ける若葉の姿は、どこか切なく、そして美しかった。
風を切る音が耳元で鳴る。
会社のビルが、ようやく視界の先に見えてきた。
――もう少し。あと、もう少しだけ……!
その願いを胸に、若葉は最後の力を振り絞って、ゴールへと走り続けた。
その時だった。
「キャァーッ!」
叫び声と同時に、
ガンッ――バタッ、ドサァッ!!
鈍い音とともに、若葉の身体がアスファルトに激しく叩きつけられた。
視界が揺れ、息が一瞬止まる。
「……っ……!」
地面に手をついた衝撃で、手のひらの皮が擦れてヒリヒリと焼けるように痛んだ。
膝も打ちつけたのか、ジンジンとした痛みがすぐに広がる。
スカートの裾は汚れ、膝からはじわりと血が滲んでいた。
でも、そんなことより――
「なんで……なんで今……っ」
若葉はその場にうずくまったまま、唇を震わせた。
汗と涙と埃が混ざり、頬をつたってポタリと地面に落ちていく。
痛い。転んだ場所も、悔しさで締めつけられる胸の中も。
「なんで、こんな時に……どうして……」
でも――目をつむったその奥に、浮かぶ笑顔があった。
優しく微笑む、若菜の顔。
一度も諦めずに、前を向いてくれた、あの人の姿。
若葉はぐっと奥歯を噛み締め、拳を強く握った。
「……ダメだ……ここで諦めたら、絶対後悔する……
私、若菜さんに会いたい……会って、ちゃんと気持ちを伝えたいの……!」
足に力を込めて、ゆっくりと立ち上がる。
左足がジンと痛む。どうやら捻ってしまったらしい。
だけど、立てた。まだ――動ける。
「……行かなきゃ……!」
涙で濡れた顔のまま、若葉は再び走り出した。
右足で地面を蹴り、左足を引きずるようにしながらも、必死で前へ。
その姿はまるで、何かにすがるようで、それでいて何かを信じ抜くような、強さに満ちていた。
周囲の視線など、もうどうでもよかった。
服が汚れても、髪が乱れても、関係なかった。
「待ってて……若菜さん……!」
たったひとつの想いだけを胸に、
若葉は、痛む足を引きずりながらも、まだ見ぬ“その先”へと走り続けた。




