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10 最終回  今のかたち


車は静かにエントランスを離れ、滑るように道路へと出ていった。

若菜は窓の外に流れていく景色を、ぼんやりと見つめていた。

さっきまでいた場所、千尋の笑顔、言葉にならない寂しさ――

それらが混ざり合い、胸の奥が静かに疼いていた。


そんな時だった。


ふと、右側の歩道に走ってくる一人の女の子の姿が目に飛び込んできた。


その姿を見た瞬間、若菜の目が大きく見開いた


「……若葉ちゃん……?」


思わず、息のような声が漏れた。


間違いない。汗だくで、顔を真っ赤にして、髪を振り乱しながら――

まっすぐに会社の方向へと走っているのは、若葉だった。


「……!」


その瞬間、若葉がバランスを崩したのが見えた。


ガクン――バタッ!


足元の段差につまずき、そのまま勢いよく地面へ倒れ込む。


「わ、若葉……!」

思わず名前が口から飛び出した。


車内は空気が凍りついたように静かになり、

若菜の目はそのまま若葉を捉え続けていた。


倒れた若葉は、しばらく動けないまま地面に伏せていた。

でも――それはほんのわずかな時間だった。


彼女は、震える腕で地面に手をつき、

ゆっくりと、しかし確かな意思を持って体を起こす。

その顔には痛みと悔しさ、そして何よりも「諦めない」という強い意志が浮かんでいた。


左足を引きずりながら、また一歩、また一歩――

ぎこちない動きでも、前へ、前へと進んでいく。


その姿を見て、若菜の胸に熱いものがこみ上げてきた。


気づけば、頬を伝う涙が一筋、静かに流れていた。


「……若葉ちゃん……ありがとう……

 ……ちゃんと、ちゃんと伝わったよ……その想い……」


彼女がどれほど急いでいたか、どれほど会いたかったか。

その姿がすべてを物語っていた。


ただ走っているのではない。

一秒でも早く、自分に会いたい――その気持ちだけで動いている。

そんな真っ直ぐな想いが、何よりも尊くて、

若菜の心を優しく、でも力強く揺さぶった。


運転手がルームミラー越しに、バックシートの若菜の様子をちらりと覗いた。

だが、何も言わず、そっと視線を前に戻す。

その沈黙さえも、若菜の今の気持ちを静かに支えていた。


車はそのまま走り続ける。

けれど、若菜の視線だけは――いつまでも、必死に走る若葉の背中を追い続けていた。




前方に静かに進んでいた車内に、穏やかで低い声が響いた。


「黒川さん、申し訳ありません。

……私、どうやら忘れ物をしてしまったみたいで……」


運転席の男性は、そう静かに言うと、サイドミラーを確認しながらウインカーを右に出した。

次の交差点で、車はゆっくりと大きく旋回し、会社の方向へと向き直っていく。


無駄な言い訳も、余計な説明もなかった。

ただそれだけの言葉――けれど、若菜にはその意味が、すぐに伝わっていた。


彼はすべて、分かっていたのだ。


後部座席から窓越しに若葉の姿を見つめる若菜の目に浮かんだ涙、

ぎゅっと握りしめた手、

何も言えないまま、ただ見送ろうとしていたその沈黙――

それらをすべて、言葉にしないまま、そっと受け取ってくれていた。


優しさに理由なんていらなかった。

あくまで「忘れ物を取りに戻る」という体で、

運転手は彼女に、もう一度会わせようとしてくれたのだ。


若菜はその瞬間、胸の奥がふわりと温かくなり、

こらえていたものが、堰を切ったように溢れ出してしまった。


「……っ……」


ぽろぽろと零れる涙は止まらず、

目の前の景色が滲んでほとんど見えない。


けれど、そんな視界の中でも――心だけは、確かに震えていた。


若菜は唇を噛みしめ、両手でそっと目元を押さえながら、

かすれた声で、静かに言った。


「……ありがとうございます……」


それは誰に向けた言葉だったのだろう。

運転手へ? 若葉へ? それとも、こんな偶然をくれた運命へ?


――たぶん、すべてに対して。


誰にも気づかれないような小さな優しさが、

誰かの世界を、確かに救っている。


車は再び会社へと戻っていく。

心の中に、静かに、でも確かに灯るものを抱えながら――。



若葉は足を引きずりながら、会社の門をくぐった。

胸の中で高鳴る鼓動と、足の痛みと、焦りで、息がうまくできなかった。

けれど――


そこに立っていたのは、若菜ではなかった。

門のすぐ内側、涙でぐしゃぐしゃになった顔で、ぽつんと立っていたのは千尋だった。


若葉が顔を上げた瞬間、千尋は目を見開いて、泣きながら駆け寄ってきた。


「若葉ぁ~~っ……!

……遅かったよぉ……ほんの、ほんの少し前に行っちゃったの……!」


その言葉は、刃のように若葉の胸に突き刺さった。


「え……うそ……」


足元から力が抜けて、若葉はその場にしゃがみ込んだ。

転んだときよりも、痛みを感じた。

それは心の奥から湧き上がる、どうしようもない感情だった。


「うそ……何で……何で……こんなときに限って……」


頭を抱え、涙がぽたぽたと地面に落ちる。

声にならない叫びが、胸の奥で渦を巻いていた。


「会いたかったのに……たった数分……いや、数秒かもしれないのに……!」


泣き崩れる若葉の隣で、千尋もそっとしゃがみこんだ。

震える手で、若葉の肩にそっと手を添える。


そして、涙を流しながら優しく言った。


「若菜さん……

若葉ちゃんに会いたかったって……ちゃんと伝えてって、そう言ってたよ……」


その一言が、若葉の心の奥に優しく染みこんでいった。

嬉しかった。でも、悔しかった。


「そんなの……そんなの……ずるいよ……」

若葉はまた泣き出し、両手で顔を覆った。


2人は肩を寄せ合いながら、ただ静かに、声を詰まらせて泣き続けた。

交わせなかった言葉、間に合わなかった時間。

それでも、そこにあったのは紛れもない想いの交差だった。


門の向こうでは、すでに春の終わりを告げる風が吹いていた。

けれどその風は、涙に濡れた2人を優しく包むように、そっと通り過ぎていった。



泣き崩れる若葉の背後に、ふと、ひとつの影が近づいてきた。


――キィ……


かすかにタイヤがアスファルトをこする音。

そのすぐあとに、車が静かにブレーキを踏み、ぴたりと停止した。


あまりに静かで、まるで風の一部のようだった。

でもその気配だけで、場の空気がふっと変わった。


カチャ……

ドアのロックが外れる音がして、すぐに、スゥ……とドアが静かに開いた。


千尋ははっとして顔を上げた。

涙に濡れた目を細めて、その車を見つめる。


……そして次の瞬間。


開いたドアの向こうから、見覚えのあるスーツの裾が現れた。


千尋は目を見開いたまま、手で自分の口を覆った。

しばらく声も出せず、ただ震える唇が言葉を探していた。


やがて、溢れる想いが一気にこみ上げてくる。


「……わ、若葉ぁ……!」


涙声で千尋は若葉の肩を揺すった。


「若葉ぁ!見て!ねぇ、見てよぉ!!」

「若菜さんが……若菜さんが……帰ってきたよぉ……!」


千尋の声は、震えて、泣いて、喜びと信じられない気持ちで滲んでいた。


若葉は、ただぽかんと、何が起きたのか理解できないように……


「……え……?」


ゆっくりと顔を上げる。

涙に濡れた視界を手の甲で拭いながら、振り返った。


そこに――


車のドアの傍で、こちらに一歩踏み出そうとしている人影があった。


若菜だった。


まるで幻のように、そこに立っていた。

少し乱れた髪に、風がやさしく触れ、スーツの裾がふわりと揺れている。


若葉の瞳が、涙の奥で静かに大きく見開かれる。


時間が止まったような、静かな数秒間。


風の音だけが通り過ぎる中、世界のすべてが、その瞬間に集まっていた。


そして、若葉の唇が震えながら、ぽつりと言葉を紡ぐ。


「……若菜さん……?」


声に出すことで、初めて現実になった。


信じられないほどの奇跡が、目の前に本当に起きていた。



車のドアの傍に立ったままの若菜が、少し息を整えるようにして、そっと微笑んだ。


「若葉ちゃん……若菜ちゃんが車から見えたの大丈夫? 足、ケガしてるでしょ……」


その声は、風に溶けるように柔らかくて、けれど確かに届く強さがあった。

そしてその次の瞬間――


「……心配で、戻ってきちゃった……」


その言葉を聞いた瞬間、若葉の瞳が大きく揺れた。


まるで何かが弾けるように、全身の力が一気に抜けて、若葉はその場から飛び出すように駆け寄った。


「……若菜さんっ……!」


ぐしゃぐしゃに濡れた顔のまま、若菜の胸に飛び込む。

その瞬間、若葉の細い腕が強く若菜の背中に回され、顔をぎゅっと押し付けるように沈めた。


「……よかった……っ、ほんとに……ほんとに、会えてよかった……!」


涙混じりの声が、途切れ途切れに何度も、何度も繰り返される。


「会いたかった……会いたかったのに……間に合わなかったって……思ってた……っ」

「夢じゃないよね……? ほんとに、若菜さん……だよね……?」


そのすべての言葉に、悔しさも、喜びも、安堵も――全部が詰まっていた。


若菜は何も言わず、ただ優しく若葉の背中に手を回して抱きしめた。

その手は、少し震えていた。


「……よかった。ちゃんと、若葉ちゃんに……挨拶できて……」


ぽつりとそう言う若菜の声も、少し震えていた。

それでも、優しく、あたたかかった。


若菜の頬にも、涙が静かに伝っていた。

若葉の肩にポトリと落ちて、その涙の温かさが、今この再会が現実なのだと教えてくれる。


2人は何も言わず、ただしばらくのあいだ、強く強く抱きしめ合っていた。


千尋は少し離れたところで、またぽろぽろと涙を流しながら、その光景を見守っていた。

笑いながら泣いている彼女の瞳にも、静かに、あたたかい光が宿っていた。


――再会なんて、ただの偶然かもしれない。

でも、どうしても「会いたい」と願い続けた心が、たしかにこの奇跡を引き寄せたのかもしれない……




「……あのね、若菜さん」


少しだけ呼吸を整えると、若葉は鞄の中をごそごそと探り、小さな箱をそっと取り出した。

白くて、手のひらにちょうど収まるくらいの、小さなリボンのかかった箱。


そのまま、両手で包み込むように持ち、若菜の前にそっと差し出した。


「これ……渡したくて……それで、遅れちゃったの……」


若菜は少し驚いたように箱を見つめ、そしてそっと視線を若葉に戻した。


「……どうしても、今日、若菜さんに渡したかったの」

「実はね、おねーちゃんとお揃いで買ったものなんだけど……」


若葉の声は、どこか照れくさそうで、けれどとても真剣だった。


「買う時、思ったの。……“若菜さんにも、これをつけてほしい”って。おねーちゃんがね、“これは絆の証だよ”って言ってくれたの。だから私も――若菜さんとも、ずっと繋がっていたいって……そう思ったの」


差し出された箱を見ながら、若菜は一瞬、息を呑んだ。

その言葉の重みが、静かに胸の奥に降りてきた。


そして、ふいに堪えきれなくなったように、若葉をぎゅっと抱きしめた。


「……ありがとう……若葉ちゃん……本当に……本当に、うれしい……」


若菜の声は少し震えていた。

時間が無くて諦めていたBaby-G……

その目には再び涙が浮かんでいたが、それは悲しみでも寂しさでもない。

心の底から、あたたかく満たされた喜びの涙だった。


「大切にするね。これは、私にとっても“絆の証”……」


若葉はにっこりと笑って、こくんと頷いた。


「うん。これで、おねーちゃんと、若菜さんと、渚と……みんな繋がっていられる」


そんな中、若菜がふと思いついたように尋ねた。


「……あれ? 千尋ちゃんのは?」


若葉は一瞬目を丸くし、ばつが悪そうに俯いた。


「……急だったから……間に合わなかったの……」


すると、隣で聞いていた千尋が、目を大きく見開いて――


「えぇぇええ!? 若葉ひどいよぉぉ〜!! 私だって欲しいぃぃぃ〜!!」


ぽろぽろと涙をこぼしながら、声を張り上げてわめいた。


「“絆の証”って言うなら、私だって! 絶対、絶対欲しいもん!」


若菜も思わずくすっと笑って、千尋の肩を軽くポンと叩いた。


「わかったよ。じゃあ、千尋ちゃんの分は――私がプレゼントするね。それでいいかな?」


千尋は泣き顔のまま、ピタッと泣き止み、目をキラキラとさせてうん、うんと全力で頷いた。


「ほんと!? 若菜さん、だいすき!!」


その瞬間、また笑い声と涙が混ざりあって、小さな輪の中にあたたかい風が吹き抜けた。


――こうして、彼女たちの絆は、確かに形になった。

遅れても、届いた想いは決して色あせない。

むしろ、それは時間を越えて強く、深く、心に残っていくものだった。



「黒川さん、そろそろお時間です」

運転席から、運転手が静かに声をかけてきた。


若菜は一度ゆっくりと深呼吸をして、優しく頷いた。


「はい……すみません、お待たせしてしまって。本当に……ありがとうございます」


彼女は丁寧に頭を下げて、運転手にも感謝の気持ちを伝えた。

そして振り返り、もう一度、若葉と千尋の方へと歩み寄る。


その表情には、どこか寂しさが残るものの、しっかりとした決意と優しさが宿っていた。


「……じゃあ、行ってくるね」


その言葉に、若葉が真っ直ぐな目で若菜を見上げて、強く頷いた。


「はい。どうか……頑張ってきてください」


千尋も涙をこらえながら、でも笑顔を浮かべて前へ一歩出た。


「絶対、絶対……私も行きますから!

待っててくださいね、若菜さん。私……頑張りますから!」


若菜はそんな2人をしっかりと見つめ、やさしく微笑んだ。


「うん。待ってる。いつでも、迎えに行くから」


そして、最後にもう一度2人の顔をしっかりと目に焼き付け、車に乗り込んだ。


車の窓がすっと下がり、若菜は中から手を振った。

その笑顔は、どこか涙を含みながらも、やっぱり美しかった。


若葉と千尋も、並んで立ちながら精一杯に手を振り返す。

口には出さずとも、「またね」「頑張ってね」「ありがとう」がしっかりと交差していた。


そして――

エンジン音が静かに響き、車はゆっくりと前へ動き出した。


笑顔と涙が混じった、温かな別れ。

けれどその背中は、また必ず会えるという確信で、しっかりと未来へと向かっていた。



車内はしばらく、心地よい静けさに包まれていた。

窓の外を流れる風景を見つめながら、若菜は何度も今日の出来事を思い返していた。

若葉の涙、千尋の笑顔、そしてあの力強い「また会いましょう」の言葉……

どれも心に深く、優しく残っていた。


そんなときだった。


静かにハンドルを握る運転手が、ルームミラー越しに若菜の様子をうかがいながら、そっと口を開いた。


「……黒川さん、素敵な部下の方々ですね。

幸せですね、本当に」


その声は、ごく控えめで、心からの気持ちが込められていた。

無理に話そうとしたわけではなく、ただ自然と出た、温かい一言だった。


若菜はその言葉に、ふっと微笑んだ。


「……はい。私、本当に幸せです。

でも、あの子たちは……もう“部下”じゃないんです。

大切な、大切な――親友です」


その言葉を噛みしめるように口にした若菜の瞳には、まだ少し潤みが残っていた。

だが、その表情にはどこか誇らしさと愛しさが宿っていた。


運転手はそれ以上何も言わず、小さく頷いた。

そして、右足を少しだけ深くアクセルへと添えた。


「では、成田まで――少し急ぎましょうか」


その声は静かだったが、どこか頼もしく、やさしさに満ちていた。


車はスムーズに加速し、再び静かな時間が流れ出した。

その車内には、言葉以上の信頼と絆が、穏やかに満ちていた。







「若葉ぁ〜!これお願いね!」


「うん、そこに置いといてくれればやっておくよ」


「はーい!……っと、えっとこれは……あ、こっちだった!」


千尋は書類を片手に、忙しなくあっちこっちへと動き回っていた。

けれどその表情は、とても生き生きとしていて、まるで嬉しいことがあった日のように輝いていた。


「千尋ちゃん……張り切ってるなぁ」

そんな姿を横目で見ながら、若葉はふっと笑みをこぼした。


(そうだよね……若菜さんに“頑張って”って言われたんだもんね)

(ニューヨークに行けたら……千尋ちゃん、きっとすごく喜ぶだろうな)


そんな思いに浸っていたそのとき、千尋が振り返って声をあげた。


「若葉ぁ〜!なにニヤニヤしてんのよぉ〜!早くこれやってよ〜、待ってるんだからさ〜!」


「ごめんごめん、今やるよ〜!」


そんなふたりの掛け合いに、周囲の同僚たちがクスッと笑いながら目を向けていた。

ふたりのデスクのまわりには、いつの間にか明るく軽やかな空気が流れはじめていた。

静かに、でも確かに空気が変わっているのが感じられた。


辛い別れはあった。涙もたくさん流した。

でも――

それを乗り越えて、今、ふたりはちゃんと前を見て歩き始めている。


きっとまた会える。

だからこそ今を頑張れる。

その思いが、自然と背中を押してくれる。


そんな希望に満ちた、新しい一日が始まっていた。






機内の静かな空気の中で、若菜は無事に座席へと腰を下ろしていた。

機体はすでに滑走路を離れ、ゆっくりと空へと昇っている。

窓の外には、遠ざかっていく日本の街並みと、まぶしいほどの青空が広がっていた。


「……13時間くらいかぁ。長いなぁ……」


独りごとのように小さくつぶやきながら、若菜はシートに背を預け、ふぅっと深く息を吐いた。


ジョン・F・ケネディ国際空港

出発時刻:15:15(日本時間)

到着時刻:14:59(現地時間)



日付をまたぐフライト。数字の上では“時間を戻る”ような感覚さえあるその旅に、若菜はふと不思議な気持ちを抱いていた。


けれど今、胸の中を占めているのは、そんな時間の感覚よりも――

あの、見送りの瞬間だった。


「……今までで初めてだったなぁ……

あんなふうに見送ってもらったの」


駅のホームでも、空港のロビーでもない、会社の前での、涙と笑顔に包まれたあの見送り。

若葉の叫ぶような「会えてよかった」という言葉。

千尋の力強い「絶対行きますからね!」という約束。

そして、運転手のさりげない優しさ。


ひとつひとつが、心の奥でじんわりとあたたかく、優しく響いている。


若菜は窓の外をじっと見つめた。

眼下に広がる雲海は、まるで綿のようにやわらかく、果てしなく続いている。


「……ありがとう。ちゃんと伝えられなかったけど、本当に……ありがとう」


その小さな言葉は、誰にも聞こえないほど静かだったが、確かに彼女の心からこぼれた本音だった。



飛行機の中で、若菜の思考は自然とひとりの人のもとへと向かっていた。

それは――渚のことだった。


ふと目を閉じると、渚の笑顔や、何気ないやり取り、夜に交わした短いメッセージの温もりが胸の奥に広がる。

何も特別な言葉を交わさなくても、繋がっていられる。

そんな関係が、今の若菜にとっては何よりも心地よかった。


「……ベルって、結局伝えなかったな」


そう、心の中でそっと呟いた。


ベルお姉ちゃん――。

それが自分であることを、渚には打ち明けなかった。

本当は何度も、伝えようと思った瞬間があった。

でも、そのたびに胸のどこかで引っかかる感情があった。


もしすべてを話したら、渚との関係はどうなっていただろう。

もっと近づけたかもしれない。でも同時に、何かが壊れてしまうかもしれない、という予感もあった。


いま、自分は“ベルおねーちゃん”として渚と毎晩メッセージを交わしている。

それはたわいもないやりとりだったり、たまに愚痴をこぼしたり、ちょっとした相談だったり――

それが、若菜にとってどれだけ癒しで、どれだけ大切なものか、自分でもよくわかっていた。


打ち明けなかったことに、後悔がないわけじゃない。

でも――今のままでいることで、渚が自然に笑ってくれて、ありのままの自分と向き合ってくれる。

そんな関係が、実は一番大切なんじゃないかと、そう思うようになっていた。


「……これでよかったんだと思う。

少なくとも、いまはまだ」


若菜はそう心の中で呟きながら、窓の外へ視線を移した。

遠く続く青空の先に、渚との変わらない絆があるような気がして――

そっと微笑んだ。


ふと時計に目をやると、時刻は日本の午後7時を回っていた。

「もう帰ってる頃かな……」

若菜――いや、“ベル”は、心の中で渚の一日を想像しながら、ノートパソコンをそっと開いた。


静かな機内でキーボードの軽やかな音が響く。

今日も、いつものように渚にメールを送る時間がやってきた。


〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜


件名:今日の出来事と、ちょっとした報告


渚ちゃん、おつかれさま。

もうおうちに帰ってる頃かな? 今日はどんな一日だった?


ねえ、報告があるの。

今日ね、やっと届いたんだ――Bebe-G。

“絆の証”本当に嬉しくなった。


すごく大切にするよ。渚ちゃんと同じように、これから先もずっと大切にしていく。

そう思えるものが、ひとつ増えたよ。


それから、今日は素敵な出会いがあったの。

すごく明るくて、前向きで、人懐こくて――何だか放っておけない子たちだった。

ううん、もう“部下”とか“仕事の相手”って感じじゃなくて、もっと近くて温かい存在。

なんというか……かわいくて、一生懸命で、見ていると応援したくなるような子たちだったんだ。

ベルおねーちゃんね、彼女たちをこれからしっかりサポートしていこうと思ってる。

仕事を超えて、人として、仲間として。


……渚ちゃん、今日も一日お疲れさま。

時間があったら、またメールしてね。

ベルおねーちゃんはここで、渚ちゃんの言葉を待ってるから。


〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜


そう書き終えると、ベルは一度深く息をついて、ゆっくりと「送信」をクリックした。

画面の光が静かな夜に柔らかく溶けていく。


どんなに遠く離れていても、こうして繋がっていられる。

そのことが、今の彼女にとって何よりもあたたかかった。

飛行機は、空高く、海を越えて――

希望と約束の待つ、ニューヨークへと向かっていた。



「ふぅ〜……つかれたぁ〜……」

玄関のドアを閉めると、渚は思わず声を漏らした。


体はくたくた。

だけど、心はどこかほっこりとあたたかかった。


「千尋ちゃん、ほんと張り切りすぎなんだもん……」

ソファに荷物を置きながら、ふっと笑う。

「でも、嬉しかったんだろうな……若菜さんにあんなふうに言ってもらえて。

……うん、私もしっかり応援してあげなきゃ。」


いつものように部屋着に着替えて、キッチンで冷たいお茶を用意する。

グラスを手にして机の前へ戻ると、パソコンの小さな画面に――見慣れた点滅。


「新着メッセージ:ベルおねーちゃん」


その赤いサインを見た瞬間、渚の顔がふわっと綻んだ。

目元がゆるみ、自然と微笑みがこぼれる。


「……ベルおねーちゃんからだ……」


声に出してそう呟きながら、渚はそっとマウスに手を伸ばした。


画面が切り替わる。

そして……….


 

その先に、どんな言葉が綴られていたのかは、

きっと、渚だけのもの。

そして、渚の心にもそっと灯るものがあるはず。


そう、これが彼女たちの「今のかたち」。

それぞれが、自分の場所で、

それでもしっかりと…………


そして――物語は、静かに幕をおろした。




「2025 春 小説の中でだけ、

             あなたと私は出会った」   


           完


         茅ヶ崎 渚




ここまで読んでくださったあなたへ。

本当に、本当にありがとうございます。


この物語は、小さな一歩や、すれ違いの涙、そして出会いの奇跡を信じる気持ちから生まれました。

誰かのことを想い、手を伸ばして、それでも届かないかもしれないと不安になる――そんな瞬間の中にも、「つながり」はたしかに存在している。

そんな思いを、登場人物たちが私に教えてくれました。


若菜、若葉、千尋、そして渚。

それぞれが悩みながらも前を向こうとする姿が、少しでもあなたの心に何かを灯せたなら、これ以上うれしいことはありません。


読んでくれて、本当にありがとうございました。

いつかまたどこかで、彼女たちに会えますように――

その時は、またそっとページを開いてくださいね。


茅ヶ崎渚より。


心からの感謝を込めて。

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