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1 出会い

この物語は、SNSの日々の何気ないやりとりの中で生まれた、渚の中の妄想の物語……

フィクションですが少しだけリアルな事を織り交ぜて、そして心にそっと触れるような作品です。


皆様が日々、当たり前のように体験されているSNSでの出会い。

そこには、言葉だけでつながる優しさや、心がふっと動く瞬間があるのだと、最近になって私も初めて知りました。


そんな世界に触れて、

「こんな出会いを、小説という形で描いてみたい――」

そう強く思うようになりました。


日常の中にそっと溶け込むような、

でも、どこか心に残る物語をお届けできたらと思っています。

        茅ヶ崎 渚

会社の一階エントランスには、始業の時間に向けて社員たちが次々と足早に通り抜けていく。

それぞれが自分の部署へと急ぐ中、入り口近くの壁際で一人、じっと同僚を待つ女性の姿があった。


彼女の名前は――白井若葉。


若菜はスマートフォンを手にし、画面を眺めながら何かを確認している様子だった。

姿勢はリラックスしているが、その目はどこか緊張したような色を帯びている。


その時、自動ドアが音もなく開く。

一歩足を踏み入れてきたのは、黒のスーツに身を包んだ一人の女性。

左腕にはタブレット、もう片方の手では後ろに続く数名の男性社員たちにテキパキと指示を出していた。


彼女の姿がフロアに現れた瞬間、それまでざわついていた空気が一変する。

ざわめきが薄れ、人の流れが自然と分かれていく。

まるで、海が割れていくように…


堂々と歩を進めるその女性の前には、誰の指示もないのに自然と道ができていった。


彼女の名は――黒川若菜。

この会社で、彼女の存在を知らない人はいない。

圧倒的な美貌、そしてそれ以上に際立つ仕事の実力。

芯のある態度と判断力の鋭さは、時に“下手な男よりも男らしい”とすら言われる。

毅然とした佇まいに、憧れと畏敬を抱く女性社員は数知れない。


彼女がエントランスに姿を現すと、自然と空気が変わった。

一瞬、ざわついたかと思うと――誰からともなく、声が漏れはじめる。


「わっ……黒川さん」

「今日もかっこいい……」

「ねえ、見て。あの黒スーツ、完璧すぎない?」

「ほんと、惚れ惚れする……」

「綺麗だし、背筋がいつもピンとしてて……ああいう大人になりたい」

「絶対目が合わないようにしちゃう。緊張するもん」

「だけどちょっと、あの眼差しに憧れるよね……」


若菜が歩くたびに、彼女を中心に空気が揺れ、視線が集中していく。

部下たちを引き連れているはずなのに、誰よりも存在感がある。

まるで、そこだけが別の時間を生きているかのように。


彼女の姿が進むにつれて、エントランス全体が小さな波紋のようにざわめき続けていた。


ちょうど、黒川若菜がエントランスの中央を通り過ぎようとしたその瞬間だった。


彼女はふと、視線を横に向けた。

その視線の先にいたのが――白井若葉だった。


若葉は、無意識のうちに彼女を目で追っていた。

気づけば、指先はスマートフォンの画面の上で止まり、ただただその姿に見入っていたのだ。


そして、ふたりの視線が――重なった。


一瞬、時間が止まったようだった。

周囲のざわめきも、朝のざわついた喧騒も、遠くに霞んでいく。


黒川は、若葉の方へわずかに顔を向けたまま、静かに微笑んだ。

柔らかく、けれどどこか芯のある、あたたかな表情だった。


その一瞬の微笑みが、若葉の胸にそっと入り込んだ。


――目が合っただけ、ただそれだけなのに。

若葉は息を呑み、全身がふっと強張るのを感じた。

まるで、心の奥深くに何かを刻まれたような感覚だった。


彼女の姿が視界から遠ざかっていっても、若葉はしばらくその場から動けなかった。

目が合ったその瞬間が、心のどこかに焼き付いて離れなかった。


この時、若葉はまだ知らない。

あの何気ない視線の交差が、やがて彼女の人生を大きく揺らすことになることを……。


若葉の所属は、事務部企画課。

その中でも出金や入金の管理を担当する、比較的地味な経理的ポジションだった。


書類と数字に囲まれたデスクで、いつも通りパソコンに向かっていた若葉の隣の席で、同僚の麻生千尋が声をかけてきた。


「ねえ、若葉。今朝、黒川さんと目が合ってたよね?」


若葉は一瞬手を止め、思い出すように眉をひそめた。


「ああ……うん。でも、たまたまだと思うよ」

「え?でもちょっとニコッてされてなかった?」

「……たぶん、気のせいだよ。話したことなんて一度もないし……。黒川さんって、なんだかもう“神様”みたいな人だから」


千尋はクスッと笑って、くるくるとペンを回した。


「確かにねぇ。私たちなんかと、住んでる世界が違うって感じするもん」

「うん……ほんとに」


若葉も微笑みながらうなずいたが、その目はどこか遠くを見つめていた。


千尋は肩肘を机に乗せたまま、ぽつりと呟く。


「でもさぁ、黒川さんって本当にかっこいいよね〜ぇ、あんな風にバリバリ仕事して、しかも美人で……。ああいう女性になれたらなぁ〜ぁ」


若葉はしばらく黙っていた。

そして小さく首を横に振る。


「ううん……私には、よく分からないんだ〜ぁ。すごい人ってことは分かるんだけど……。どこか、私には遠すぎて……」


言いながら、若葉の声は少しだけ曇っていた。

尊敬というよりも、理解できないままに眺めている――そんな距離感。


千尋はその表情に気づいたのか気づかなかったのか、何も言わず、ふたたび仕事に戻っていった。


若葉は再びパソコンに向き直しながらも、どこか心が上の空だった。

さっき見た、黒川若菜の微笑みが、胸の奥でまだ静かに余韻を残していた。


その日、一日の仕事を終えて、オフィスの片づけを始めていた時だった。

隣の席の麻生千尋が、少しだけ遠慮がちに声をかけてきた。


「ねぇ、若葉〜ぁ、今日このあと時間ある〜?」


手に持った書類を鞄にしまいながら、若葉は申し訳なさそうに微笑んだ。


「ごめんね。今日は家に荷物が届く予定があって……。ちょっと早めに帰らないといけないんだ〜ぁ」


「そっか、残念。また今度誘うね〜」


「うん」


千尋が軽く手を振るのを見届けると、若葉は軽く手を振って静かにオフィスを後にした。


会社の外に出ると、夕方の風が涼しく頬を撫でた。

どこにでもあるような一日だったけれど、若葉にとってはここからが“自分に戻る時間”だった。


彼女には――もうひとつの顔があるからだ。


それは、ごく限られた人しか知らない、趣味の小説家としての一面だった。

本名ではないペンネーム渚で、SNSに作品を投稿している。

プロでも何でもない。ただ、自分の物語を綴ることが好きなだけだった。


小説を書いているときだけは、自分の中の余計な感情や悩みが、すっと遠ざかっていく。

誰かに気を遣う必要もなく、自分の頭の中だけに集中出来る。

嫌なことも、言えなかった言葉も、全部物語の中に溶かしていける――

それが、若葉にとっての救いだった。


駅から数分ほど歩いて、小さなワンルームのマンションにたどり着いた、


部屋に入ると、カーテンを閉め、部屋着に着替える。

そして何よりも早く、デスクの前にあるノートパソコンの電源を入れた。


「ただいま」と言う代わりに、彼女は物語の世界へと帰っていく。


しばらくは、自分が投稿している小説の続きを読み返しながら、少しずつ文章を整えていく。

改稿しながら新しいシーンを書き進めるその時間が、何よりも落ち着く。


区切りの良いところまで書き終えると、ふぅっと息をついて、ひと休み。


「読んでくれてる人、今日もいるかな……」

自分の投稿ページを確認し、いいねの数やコメントをチェックする.こんな私の作品を読んでくれている人が少しでもいてくれると、それが若葉にとってのモチベーションだった


0人の時も多数ある

でも若葉ににとって数字が全てではなかった。

1人だけでも自分の事を見つけて読んでくれている。それがたまらなく好きになっていた


気分転換、、気になっていた“あの人”のアカウントをそっと覗く。


その人は、自分と同じように物語を投稿している匿名の書き手だった。

アカウント名は希望の王、彼女が描く世界には、どこか惹かれるものがあった。


自分には全く書くことの出来ない世界観、それに

そのページには、いつも登場する狐の女の子がいる。

不思議に、可愛くて、時々とても切ない表情を見せるキャラクター。

若葉はその狐の女の子が大好きだった。


気がつけば、毎回彼女のコメントをチェックするようになっていた。

更新があれば心が踊り、嬉しくなる。


「……今日こそ、送ってみようかな」


迷いながらも、若葉は思い切ってその人にダイレクトメッセージを送ることにした。

憧れている人に言葉を届けるのは、少しだけ勇気がいる。

でも今夜は、何かが少し違っていた….


画面に映る小さな文字を打ちながら、若葉の心はほんの少しだけなぜか高鳴っていた。





「ふぅ……」


深く息を吐いて、黒川若菜はようやく一人きりの部屋へと戻った。

自動で点いた照明の下、バッグを床に置き、ヒールを脱ぎ捨てるようにして玄関を抜ける。


「今日も、よくやった〜……私」


誰に言うでもなく、ぽつりと呟いたその声には、少しだけ疲労の滲んだ笑みがあった。


スーツのジャケットを脱いでハンガーにかけ、部屋着に着替えると、ソファへと身を沈めた。

クッションに背中を預けた瞬間、全身から力が抜ける。


「疲れたぁ……」


その一言に、若菜自身の緊張がふっとほどけていく。

オフィスでの完璧な姿とは違い、ここには気を張らない彼女の素顔があった。


足を投げ出しながら、片手でスマートフォンを手に取る。

特に目的があるわけでもなく、なんとなくSNSを開いてみた。

仕事のメールはもう見たくない。

だけど、SNSの世界だけは、少しだけ自分の心を休ませてくれる。


Twitterの通知欄に目をやると――見慣れない表示がひとつ、目に飛び込んできた。


「……DM?」


普段、ダイレクトメッセージは“受け付けていません”とプロフィールにも明記している。

たとえ届いても、ほとんどが見ずに流してしまうのが常だった。

でも、その日はなぜか気になった若菜だった


通知をタップし、メッセージを開く。

そこに表示されたのは、短くて丁寧な文章だった。

はじめて見る名前のアカウントからだった。


若菜は少しだけ見てみようとそして――静かに読み始めた。

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜


はじめまして

いつもイラスト可愛くていいなぁって思ってました。

よかったら、これからもどうぞよろしくお願いいたします。


茅ヶ崎 渚

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜


ごめんなさい

DMダメだったんですね。

失礼しました


〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜


思わず、微笑んでしまった。


送信者の名前は「茅ヶ崎渚」。

初めて見るアカウントから届いたそのDMには、彼女のイラストに対する素直な言葉だった


(……ちゃんとプロフィールにDMは受け付けてませんって書いてたのに)

そう心の中で思いつつも、不思議と嫌な感じはしなかった。

むしろ、どこかくすぐったいような気持ちになった若菜だった


(最初は何?と思ったけど…… なんだろう、この人。なんか気になるなぁ〜)


文体も、言葉の選び方も、素直で。

それでいて、直ぐにごめんなさいと反省の文章


若菜は思わずまた微笑んでしまった


素直さがにじんでいた。


若菜はもう一度DMを読み返し、ゆっくりと画面をスクロールした。


その名前――「茅ヶ崎渚ちゃん」という響きが、静かに胸の中に残っていた。


(……返してみようかな〜ぁ)


普段なら、見ずに流していたはずのDM

けれどその日、若菜の指先は自然と返信画面に動いていた。


〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜



若葉は、パソコンに向かって物語の続きを静かにキーボードを叩いていた。

物語の続きを考えながら、頭の中で言葉を紡いでいると――

ふいに、携帯にメールの返信の通知が届いた


(通知……?)


何気なく横目で画面をのぞき込んだ瞬間、若葉の目が大きく見開かれた。


「えぇ〜〜!? 嘘……!?」


思わず声が漏れた。

そのまま慌てて携帯を手に取り、指先が震えそうになりながら画面をタップする。


そこには、信じられない名前が表示されていた。


『結衣と姉 希望の王』

憧れの人…

ずっと見続けてきた、あの“狐の女の子”を描く人からの返信だった。


まさか、本当に返事が来るなんて。


胸がどくどくと高鳴り、文字を読む前から息が詰まりそうになる。

嬉しさと驚きが一気に押し寄せてきて、頭の中が真っ白になった。


(本当に……私に……?)


若葉はしばらくのあいだ、ただ画面を見つめたまま、動くことができなかった。



〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜


こちらのポストから、失礼します。


はじめまして。渚様いつもお世話になっています。

感謝のDMなどに関しては、その限りではないです(非公式ですが)とても嬉しいです


こちらこそ、これからもよろしくお願いします


〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜


これが2人の最初の交信だった。

短い文章、それでも2人はここから全てが始まりだした。



それからというもの、ふたりの距離は驚くほど自然に、けれど確実に近づいていった。

きっかけはたった一通のダイレクトメッセージ。



白川若葉――ネット上では「茅ヶ崎渚」と名乗っている彼女は、ずっと憧れていた“あの人”から返信をもらった日のことを、今でもはっきりと覚えている。


「結衣と姉 希望の王」


それが相手のアカウント名だった。

物語の中にだけ生きるような、幻想的な世界観。

そこに登場するキャラクターたちはみな繊細で、時に強く、時にとても可愛くて――

若葉はいつの間にか、その世界に心を奪われていた。


返信が来たその時から、渚は自然とメッセージのやり取りが始まった


やりとりが始まってから渚にひとつの“贈り物”が送られてきた。

渚をイメージした狐の女の子

「渚ちゃん、私の中ではこんなイメージ。気になって……描いてみたくなっちゃいました」


そう言ってイラスト何送られてきた


思わず「かわいい〜、すごい嬉しいです」そう伝えると「良かったら使ってね…プレゼント」と返ってきた


あまりの可愛さに、「この子携帯の待ち受けにします」と伝えると希望の王様は喜んでくれているようだった。





それをきっかけに、「希望の王」は渚のために、Twitterのページを整え始めた。

プロフィール、ページの華やかさ、時には投稿するための準備まで――

まるで本の編集者のように、渚の創作の世界を、ひとつひとつ丁寧に形にしてくれた。


「見てくれる人が、寂しくならないようにね」


そう言って、彼女は自分の時間を惜しまず、渚の世界に寄り添ってくれた。

それはアドバイスというより、ひとつひとつが“優しい贈り物”のようだった。


SNSの中――顔も本名も知らない相手。

けれど茅ヶ崎渚にとって「結衣と姉 希望の王」は、誰よりも信頼できる存在になっていった。渚は、希望の王様に一つのお願いをした。


「希望の王様、王様の事をベルおねーちゃんと読んでもいいですか?」と

すると王様からは

「いいよ、私は渚ちゃんて読んでいくからね」

これがきっかけで

2人の距離感が、また一気に縮まって行った


渚はベルおねーちゃんとの時間が楽しくて嬉しくてそして今、確かに彼女の心を支えてくれている存在に変わっていた



翌朝。

目を覚ました渚は、しばらくのあいだ天井を見つめたまま、ぼんやりと横になっていた。


――夢だったのかな。


昨夜のことを思い出そうとすると、胸の奥がふわりと温かくなる。

けれど、それがあまりに嬉しくて、現実味がない気さえしてくる。


「えっ……ちょっと待って」


半分寝ぼけた頭で、渚は慌ててベッドから身を起こし、手探りでスマートフォンを探した。

画面に指を滑らせて、自分のブログのページを開く。


――そこには、間違いなく、昨夜「結衣と姉 希望の王」から贈られた、可愛く整えられたページがあった。

色合い、アイコン、キャラクター……

まるで小さな物語の世界がそのままそこに広がっていた。


「本当に……夢じゃなかったんだ」


声には出さず、心の中でぽつりと呟く。


ページを見つめたまま、渚はそっと微笑んだ。

胸の奥に、じんわりと込み上げてくる感謝の気持ちを抱えながら、静かに心の中で呟いた。


「……ベルおねーちゃん、本当にありがとうございます」


画面の向こうの“まだ知らない誰か”に、そっと、心の中で手を合わせるように――。



いつものように電車に揺られ、駅から歩き、会社のエントランスを抜ける――

何ひとつ変わらないはずの朝の風景なのに、白川若葉――ネット上では「茅ヶ崎渚」として活動する彼女の心は、今朝に限って軽やかだった。


理由ははっきりしている。


頭の中は、昨夜からずっと“ベルおねーちゃん”……

そう呼んで親しみを込めるあの人のことでいっぱいだった。


思い出すたびに、自然と口元がほころんでしまう。

誰にも気づかれないように、ちょっとだけ下を向きながら、それでも隠せない嬉しさが胸の奥に広がっていた。


(ほんとに……夢みたい)


渚にとって、“小説を書くこと”はずっと一人きりの趣味だった。

物語を通じて誰かと交流したことも、ましてや尊敬している書き手と直接言葉を交わすなんて、想像すらしていなかった。


でも、昨夜から現実が少しずつ変わりはじめている。


「同じ小説家同士として、言葉を交わした」


――それだけのことが、渚には奇跡のように思えた。


ベルおねーちゃんが、自分の世界を見てくれた。

そして、受け取ってくれた。

あたたかな言葉で返してくれた。


そのすべてが、まだ胸の奥で優しく響いている。


会社に向かう足取りは、いつもより少しだけ早く、そして軽かった。

これまでと同じ景色のはずなのに、すべてがほんの少し輝いて見える朝だった。


会社に到着し、いつものように事務部企画課のフロアへ向かうと、若葉のデスクの隣にはすでに麻生千尋の姿があった。


「おはよ〜ぉ」


千尋が先に声をかけてきたので、若葉もにこやかに「おはよう」と返す。


すると――


若葉の顔をじっと見つめた千尋は、目を細めてにやりと笑った。


「若葉……なんかいいことあったでしょ〜?」


突然の指摘に、若葉は少しだけ驚きながらも、すぐに微笑んだ。


「……まぁね」


その笑顔に、千尋の目がさらに鋭くなる。


「えっ、なに? なに? なにがあったの? ちょっと、早く教えてよ〜!」


勢いよく詰め寄ってくる千尋に、若葉は肩をすくめておどけてみせた。


「ないしょ」


「えぇ〜〜っ!? ずるい! 教えてよ、若葉ぁ〜」


千尋は軽くむくれたように唇を尖らせたが、若葉が本気で話す気がないとわかると、あっさりと手を引いた。


「……ま、いいけどさ。でも、ニヤニヤしすぎて怪しいよ?」


「してないってば」


「してるしてる。若葉、ジュース買いに行こ」


「うん、行こっか」


ふたりは笑い合いながら立ち上がり、並んで自販機の方へと歩き出した。

窓から差し込む朝の光の中、若葉の心は、昨日から続く“うれしさ”でまだぽかぽかと温かった。


自販機の前に着くと、千尋は迷いなくボタンを押して、いつものお気に入りのジュースを買った。

ガタンという音とともに缶が落ち、千尋はそれを片手で受け取る。


次は若葉の番だった。


彼女は、色とりどりのドリンクが並ぶ自販機のパネルをじっと見つめたまま、腕を組んでうんうん唸っている。


「うーん……緑茶かなぁ。でも、炭酸も気分だし……いや、やっぱりコーヒーも……」


悩むその表情は真剣そのもの。

一方で、千尋はそんな若葉の後ろが気になって、そっと視線を背後へ向けた。


――その瞬間、思わず小さく息を呑んだ。


若葉のすぐ後ろに、黒川若菜が立っていたのだ。


黒川さん。

会社中の誰もが一目置く、あの完璧な女性上司。

シュッとしたスーツ姿に、どこか凛とした空気を纏っている彼女が、今、若葉のすぐ後ろに無言で並んでいる。


千尋は焦った。

思わず若葉の腕をつつきながら、小声で急かす。


「若葉、ちょっと……早く決めなよ……!」


しかし、若葉は振り向かずに首を傾げながら、自販機とにらめっこを続けている。


「えーだってぇ、こんなに種類あるんだもん。迷うよ〜」


そののんびりした口調に、千尋は半ば呆れながらも、さらに声をひそめて言った。


「いいから早くしなって! 並んでるんだから……!」


その一言で、ようやく若葉は状況を察した。

(え、並んでる……?)


そう思いながら、ゆっくりと後ろを振り返った。


そして、目に飛び込んできたのは――あの、黒川若菜の姿だった。


予想もしていなかった人物を目の前にして、若葉は思わず硬直した。

あまりの驚きに手元がふらつき、持っていたスマートフォンと財布を、ぱたりと足元に落としてしまった。


「わっ……!」


その音に千尋もハッとした表情で振り返ったが、若葉よりも先に、黒川若菜がすっと前にしゃがみ込んだ。


彼女の動きはとても自然で、周囲の視線など全く気にしていないようだった。


拾い上げたスマホの画面がふと光る。

そこに表示された待ち受けを見た黒川は、ほんの一瞬、驚いたように目を見開いた。


画面には、可愛らしい狐の耳をつけた少女のイラストが映っていた。

この絵って、まさか……


黒川は

「かわいい待ち受けね。……狐?」


静かに、でもどこかやわらかい声で、黒川がそう話しかけてきた。


突然の言葉に若葉は目を瞬かせ、緊張しながらもうなずいた。


「は、はい……そうです。この子

昨日……あの、憧れの方からプレゼントしていただいたばかりで……」


声が少しだけ震えていた。けれど、どこか嬉しさも滲んでいた。


黒川は画面をじっと見つめたまま、小さく笑みを浮かべた。


「なんか、いいなぁ。……私も、欲しいなぁ〜」


その意外な言葉に、若葉は思わず目を見開いた。

――黒川さんが、欲しいって……?


戸惑いながらも、若葉は小さく息を吸い、はっきりと答えた。


「わ、わかりました。無理かもしれませんが……今日、帰ったらお願いしてみます!」


すると黒川は、若葉の名札に目を落とし、ふと優しい表情を見せた。


「若葉ちゃん……っていうんだ。そっか。

なんだか、不思議な縁ね。白川若葉ちゃん。

私、黒川若菜って言うの、名前も似てるね。」


その名前の響きに、若葉も千尋も一瞬息をのんだ。

偶然にしては出来すぎている――

どこか“物語の導入”のような気すらしてしまう、そんな出会い。


黒川の柔らかな口調は、社内で噂されている“厳しい完璧主義者”のイメージとはまるで違っていて、ふたりはそのギャップにも驚いていた。


そのあと、千尋と若葉が自分たちの部署が企画課であることを伝えると、


「じゃあ明日、ちょっと顔出しに行こうかな。……楽しみにしてるから、よろしくね」


そう優しく言い残して、黒川若菜はすぅっとその場を離れていった。


去っていく背中を、若葉はただ見送ることしかできなかった。

胸の鼓動が、まだずっと速いまま……。


自販機の前に取り残されたまま、若葉と千尋は顔を見合わせていた。

ふたりとも言葉を失ったようにしばらく黙ったまま、ただその場に立ち尽くしていた。


いつも通りの朝だったはずなのに……

たった今まで、あの黒川さんと、まさか会話を交わすことになるなんて。


現実感が追いつかず、思考がふわふわと宙に浮いているような気がした。


しばらくして、千尋がぽつりと呟いた。


「……話しちゃったね、黒川さんと」


その言葉に、若葉はゆっくりと頷いた。


「……うん」


短い返事だったけれど、その声には驚きと喜びが、まだ余韻のように残っていた。


ふたりの間に流れる静かな空気。

けれど、その沈黙は決して重くなく、むしろ胸の奥がじんわりと温かくなるような、特別なものだった。



お昼休み。

若葉と千尋は、いつものように社内の休憩スペースで向かい合ってランチを広げていた。


けれど、今日の話題は食事どころではない。

ふたりの頭の中は、すっかり“今朝の出来事”でいっぱいだった。


「ねえ若葉〜、黒川さんのこと……どう思った?」


箸を持ったまま、千尋がニヤリと笑って身を乗り出してくる。


若葉は少し考えるように目を泳がせながら、ぽつりと答えた。


「どう思うって……うーん、やっぱりすごい人だなぁって」


「それだけっ!?」


千尋がややしらけ気味に反応すると、若葉は少し肩をすくめて小さく笑った。


「だって、本当にすごい人なんだもん。

でも……狐の女の子、かわいいって言ってくれたから……いい人なんだなって思った」


「そこぉ〜!? そこに食いつく!?」


千尋は思わず声を上げ、両手で軽くテーブルを叩く。


「若葉! あの黒川さんが、私たちみたいな一般社員に話しかけてくれたんだよ!?

もっと感動するとこあるでしょ!」


「うーん……携帯拾ってくれて、優しいなって思ったよ?」


若葉はのんびりと答えながら、お弁当の卵焼きを口に運ぶ。


「……だめだこりゃ……」


千尋は呆れたように言いながらも、どこか楽しそうだった。


「え? どうして? 優しいじゃん、黒川さん」


若葉のその素直な言葉に、千尋は思わず吹き出しそうになりながらも、微笑んだ。


ふたりのランチタイムは、今日ばかりは食事よりも会話の方が熱を帯びていた。


若葉は、少し考えるように視線を落としながら、ぽつりと呟いた。


「でもね……私、みんなが言ってる黒川さんとは、ちょっと違う気がしたんだ。

本当は……すごく繊細で、優しい女の人なんじゃないかなぁって」


その言葉を聞いた千尋は、思わず口をぽかんと開けたまま固まった。


「わ、若葉の発言にしては……なんか、すごく深いんですけど!? 驚きぃ〜!」


若葉はむくれたように千尋を睨みつつ、口を尖らせる。


「な、なんで〜! そんな言い方ひどいよ〜。

私だってたまには、ちゃんといいこと浮かぶんだからっ」


「ごめんごめん! でも、ほんと意外だったからさ」


千尋は笑いながら手をひらひらと振って謝ると、ふっと表情を緩めて空を見上げた。


「でもさぁ……やっぱり黒川さん、憧れるよねぇ。

あんな人が上司だったら、きっと私、もっと頑張れると思うんだよねぇ〜」


その言葉に、若葉はにっこり笑って首を横に振った。


「ううん、それは違うよ、千尋ちゃん。

今の部署でちゃんと頑張ってたら、いつか黒川さんが気づいてくれるかもしれないし……もしかしたら、認めてくれて、引っ張ってくれるかもしれないよ?」


千尋はその言葉に少し驚いたように目を見開いたあと、真剣な表情で大きくうなずいた。


「……確かに! 午後から気合い入れてやるわ!」


「うん。私も頑張るからね」


そう言い合いながら、ふたりはお弁当の残りを口に運んだ。

いつものランチタイムが、今日は少しだけ心強くて、少しだけ温かかった。


ランチを終えた午後、社内にはゆるやかに眠気の漂う時間が流れていた。

けれどその中で、ひときわ活気に満ちていたのが千尋だった。


「はいはい、書類ここね!」「この確認、あとで回すからお願い〜!」


そんな軽快な声が、デスク周りにテンポよく響いていた。


――理由は明白だった。

「黒川さんが、もしかしたら来るかもしれない」

その可能性に胸を躍らせた千尋は、昼からずっと“いつも以上の千尋”だった。


書類の整頓ひとつ取ってもいつになく几帳面で、メールの返信スピードもやたらと早い。

それどころか、デスクの上の文具の位置まで気にして、小さな鏡で前髪を直す姿まで見られた。


そんな千尋の変化に、周囲の同僚たちも思わず目を丸くしていた。

「今日の麻生さん、やけに気合い入ってるよね……」

そんなささやき声が聞こえるたびに、千尋はわざとらしく咳払いをして平静を装おうとしていたけれど、耳まで赤く染まっていた。


若葉はそんな千尋の姿を横目で見ながら、そっと笑みを浮かべた。

いつもはおしゃべりでちょっとお調子者の千尋が、一生懸命になっている姿が、どこか可愛らしくて。

――まるで、ちょっと背伸びした妹を見守っているような、そんな気持ちだった。


          続く

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