【160】アミドレーネ出版社/1
スサンナが少女の頃、ルース帝国が崩壊し王侯貴族が消え、生まれで差別されない国に生まれ変わった。
だがこの素晴らしさを近隣諸国は理解せず、いまだ生まれや血統で全てが決まる世界にしがみついている。愚かなことだ。
それだけならばまだしも、スサンナの国に対して内政干渉してくる国に取り囲まれている――スサンナ・ヤグディンは学校でそのように教育された。
スサンナは教育を素直に受け取り、自らの意志で間諜となった。
スサンナの配属先は、ロスカネフ王国。
本国が自治を認めてやると言っているのに、言うことをきかない物わかりの悪い貧しい小国。
そのくせ、共産連邦の土地を奪う――ブランシュワキを取られたのは、ロスカネフ王国も悪いが帝政という国体が悪かった。
帝政を排除した本国は、遠からずブランシュワキを取り戻すだけではなく、貧乏小国を支配下におく――自治など認めてやる必要はない。
スサンナにとってのロスカネフ王国とは、そういう認識だった。
スサンナは列強の諜報活動任務を担当したかったが、配属されたのは列強とはほど遠い国。
命令には逆らえないこともあるが「ルース皇太子が拠点を置いている国だから、重要度が高く、優秀な者ではなければ任務を果たすことができない。初任務になるが、君ほどの才覚があれば、ルース皇太子に気付かれずに、任務を遂行することができると信じている」といわれ――
スサンナの上司が言った通り、ルース皇太子はスサンナたちに全く気付かなかった。ただそれは、注意を払う程の存在ではなかっただけのこと。
共産連邦にどんな情報を抜かれようが、ルース皇太子にとってはどうでもいいことだった。
スサンナの上司も彼女に期待など全くしていなかった。彼女たちは、本命の間諜たちが気付かれないようにするための囮でしかなかった。
スサンナはロスカネフ王国へと向かい、既に潜入していた間諜と合流する。
先遣隊は二人で、一人は出版社を興しており、スサンナはそこに女性記者として入社し、情報を集めることに。
出版社の社長役の間諜は、まずスサンナに用意した経歴を渡す。
「女が仕事をしていると、目立つからな」
男性が事業を興すのは、気にも留められないが、女性が外で働くのは、女性士官がいるロスカネフ王国でもまだ目立つ。
なのである程度、真実味のある過去が必要だった。
スサンナが成りすますのは、セシリア・プルックという人物。
ロスカネフ王国を出国して、十年以上経っている修道女。清貧を尊び、奉仕活動に精を出す――スサンナの考えでは、絵に描いたような昔の女性。
神などこの世界にはいない――無神論、唯物論を教えられたスサンナは、そう信じていた。
そんな自分が、修道女の過去を拝借する。
その皮肉さに、少しばかり笑いがこみ上げてきたものである。
古い女としか言いようのないセシリア・プルックという人間の存在を証明するために選ばれたのは、セシリア・プルックが住んでいたロスカネフ国の端にある小さな村の農婦レベッカ・サーリヤルヴィ。
寒村で教育も受けずに、ただ昔と変わらず、なにも考えずに生きているだけの存在。
こういう社会の役に立たない存在を生み出すのが王政であり、宗教だとスサンナは信じている。
学がないレベッカ・サーリヤルヴィを騙すのは簡単だった。騙すという程のことすらしていない。
偶に自分が書いた手紙を、潜入しているもう一人が郵便配達人に成りすまし、レベッカ・サーリヤルヴィに届け、たまに代読し、代書した手紙を持って村を出る。
村を出たことのないレベッカ・サーリヤルヴィは、外の世界を知らず――郵便配達人が家までやってくるのを、不思議に思わなかった。
スサンナ、アミドレーネ出版社の社長、郵便配達人たちは、そのレベッカ・サーリヤルヴィを愚か者と見下していたが、その見下しもレベッカ・サーリヤルヴィは知らないので、どうでも良いことだった。
レベッカ・サーリヤルヴィは裏表のない善人で、かつての友人との手紙のやり取りに幸福を覚え――そして嘘をつかない。
レベッカ・サーリヤルヴィは、郵便配達人が家までやってくることを隠さなかった。話を聞いた村人たちも、なんら不信感を覚えず。
村の知識人の代表格の神父は少しばかり気にはなったが、郵便配達人を乗せる蒸気機関車を動かす軍の内情にそこまで詳しくはなく、また軍の内情について、詳しいことを聞いてはいけないことは理解しており、なにより悪事を働いていないので、北方司令部に問い合わせることはしなかった。
郵便配達人が村人の家に、直接やってくる――その情報は、少々時間はかかったが領主のフロゲッセル男爵に届くことになった。
スサンナたちは、このフロゲッセル男爵領が、旧ルース帝国側の間諜と手を組んでいることを知らなかった。これに関しては本国も情報を掴んでいないので、仕方のないことではあるが、スサンナたちはマチュヒナに目をつけられた。
もっとも、スサンナが「セシリア・プルック」ではない別人の過去を拝借したとしても、マチュヒナに気付かれるのは避けられなかった――スサンナは海軍から情報を抜くべく、エクロース伯爵の息子ウィルバシー中将に近づくことが決まっていたからだ。
一介の女性記者が貴族将校に近づくためには、彼の興味を引く必要がある――スサンナは、ウィルバシーの父の愛人をネタにした。
これによりエクロース長官の身辺を探る女記者がいることに、フロゲッセル令嬢――エリーゼが気付く。
スサンナたちは、図らずもエクロース長官とフロゲッセル男爵に同時に近づき、この二つを拠点としているマチュヒナに目を付けられることになってしまった。
打倒共産連邦という信念で動く、ルース帝国の生き残りツェツィーリア・マチュヒナ――狗にはなれなかったが、狗候補であったマチュヒナの間諜としての技術は、アミドレーネ出版社を隠れ蓑に動くスサンナたちより遙かに上。スサンナたちは足元にも及ばない。
スサンナたちも、狗の存在は知っている。
ルース帝国は滅んだが、皇帝の狗の存在は、密やかにだが語り継がれていた。
最後のルース皇帝の狗はマトヴィエンコによって排除され生死不明だが、皇太子の狗は生存している――とても美しい若いルース人男性で、いまも皇太子に仕えている。
スサンナは皇太子などという、故国の汚点に未だに仕える狗を排除すべく、ベルバリアス宮殿に忍び込んだが、それらしい人物と接触することはできなかった。城のほうは、立ち入りが厳しく制限されているので、侵入を試みたがすぐに諦めた。
スサンナのベルバリアス宮殿侵入に関して、アイヒベルク伯爵は報告を受けていたが、とくに問題にはしなかった。
確認された場所が、外部からの侵入者を誘う回廊だったため――この回廊にしかたどり着けない程度の外敵は彼らにとって、軍事的にも政治的にも敵とはなり得ない。
この日の日誌に女性一名侵入と記載され――その書類も、一年後には破棄され、スサンナがベルバリアス宮殿に忍び込んだ過去は、どこにも残っていない。
スサンナが海軍長官エクロースから海軍の情報を抜こうとしたのは、もちろん本国からの指示である。
スサンナは理由を知らされていなかったが、女性は陸軍の情報収集には配置されなかった。
共産連邦の上層部は、連合軍の筆頭副官がどんな特性を持った男か知っているので、当然の措置ともいえる。
ただキースの特性は、スサンナも調べてある程度分かったので、興味はあったが近づかなかった。
アミドレーネ出版社は、一人の何も知らないロスカネフ人男性を採用する。名前はノア・オルソン。
生粋のロスカネフ人であり、家族はいるがやや疎遠気味。
まあまあ知性があり、共産連邦についても詳しく――罪を着せられる能力を持った男。万が一の際、ノア・オルソンに罪を着せて逃げる。
その段取りも着々と進められていた。
隠れ蓑として怪しまれないよう、出版も行った。スサンナたちは、なにも失敗などしなかった。
「いいざまね」
いつものようにウィルバシーに呼ばれ、海軍本部へとやってきたスサンナは、待ち構えていた兵士を装った男たちに捕まり、暴行され――最初は口を割らないつもりだったが、激しい暴行に晒され朦朧とする意識で、これは情報を得るために行われているのではないことに気付いた。
相手は自分を苦しめて殺害するために、こうしているのだと。どんな情報を吐いても助からないし、痛めつけられるのを止めてはくれない。
自分に近づいてくる女。持っているナイフの刃が、照明を受けて輝き、腹を切り裂く。
「あんたを殺す理由はねえ……好きな人に喜んで欲しいから。喜ばないのは知っている。あの人が喜ばないのは知っているけれど……あの人の恋人を殺害したのは、ルース人だから、出来る限りあの人の恋人と同じように殺害してやろうと。海軍施設を選んだのは、迷惑をかけないためよ。あの人の恋人が死んでいるのは嬉しいのよ。でも美しいまま記憶に残ってしまって、消せないのよ。生きていたら、嫌わせてどうにかすることもできたのに…………」
もう体は痛みを感じないスサンナは、死にゆくまで、女の狂った愛を聞かされた――
「間諜には相応しい死だね。間諜らしく死ねて良かったんじゃないかなあ。君もそう思うよね」
スサンナの死亡写真――クローヴィスが見たものだが、それを見たテサジーク侯爵はいつもと変わらぬ笑顔で、スサンナの死を微塵も悼まなかった。
「君もこういう感じで殺される? それとも、違う殺され方がいい? 希望は聞いてあげる、社長くん」
テサジーク侯爵の前には、アミドレーネ出版社の社長が椅子に縛り付け座らせられていた。




