【144】イヴ・クローヴィス・24
ランゲンバッハともみ合いになり、海へと落下したサーシャは大事をとって病院へ。治療後はヒースコート子爵の邸で療養してから、首都に戻ってくるようリリエンタールは命じた。
万が一のことを考えて、フリオに護衛するよう指示も出した。
意識が戻っていたサーシャは「一人で大丈夫です」と申し出たが、フリオが「妃殿下のドレスのデザインについて、アドバイスをくれ」と――こうして二人は港近くでしばし過ごすことに。
サーシャのことを心配した執事も残りたいと希望したのだが「お前を置いていくには、手下が足りぬ」――フリオとサーシャの迷惑になるから、付いて来いとリリエンタールに言われ、不本意を全く隠さぬ表情で執事は蒸気機関車に乗り込んだ。
「総司令官閣下の身辺を、イヴが守ってくれるなら安心だ」
「まだ正式な辞令は出てないけどな、エサイアス」
ウルライヒと直属の上官について話をしているクローヴィス――リリエンタールと同じ蒸気機関車に乗っているが、もちろん会うことはない。
「わたしとしたことが、イヴの優しさを見誤るとは」
「うぅ……」
リリエンタールは目を閉じて額に手を当てて、頭を軽く振る。
「仕方ないですよ、あなたにとって未知のものですから」
「ぅ……ぅ……」
「たしかにわたしは、優しい心などはないが」
「いや、優しいですよ。わたしのこと、救いにきてくれたじゃないですか。妃殿下のお優しさは、それとはまた別ですからね」
リリエンタールは執事相手に反省会を行っていた。
反省会の内容は、イヴに心配をかけたこと――船から転落したサーシャを、イヴはとても心配し、意識を失ったサーシャを抱き上げて運び、医療関係者に引き渡した。
それでも心配しているのが見て取れたので、リリエンタールは執事を派遣し「病院で治療させる」と伝えた。
それを聞いたクローヴィスの表情は、緊張から解放され僅かに綻んだ。その微かな笑顔が美しいのは当然だが、心から「良かった」と思っているのが、誰にもはっきりと分かった。
「わたしの優しさはいい。イヴの優しさであり、心配をかけてしまったことだ」
「うううう……げぶぉ…………」
車両の隅――絨毯が敷かれていない、剥き出しの床の上で手足首を固く縛られたランゲンバッハがのたうちまわっている。
ランゲンバッハの側には、船内設備を説明していた一等航海士。彼はフリオがサーシャに付くので、船から下りてリリエンタールたちの護衛に入った。
彼は普通の諜報員なので、腕に覚えなどなく――執事よりはマシだが、リリエンタールよりは遙かに弱い。
「妃殿下は親しい人はもちろん、顔見知りでも事故に巻き込まれたら、心配する御方でしょうね」
「そうか……そうなのだな。生きていれば良いというわけではないのだな」
リリエンタールにはその感覚はなかった。
「阿片の事件で、それは分かったんじゃないの?」
執事は床でまだののたうちまわっているランゲンバッハを一瞥し――苦痛の呻きをあげているのは、蒸気機関車が発車する瞬間、汽笛が大きく鳴り響く時にあわせ、リリエンタールが彼の右横腹を、強く蹴り上げたため。
リリエンタールには悲鳴を消す……などという意図はない。
なによりリリエンタールの蹴りが強く、ランゲンバッハは叫び声一つもあげることはできなかった。
口を大きく開け、まさに声にならない悲鳴をあげ崩れ落ちる――執事自身は暴力をふるうことはないが、知り合いの軍人たちがよくその部分を蹴るので、人体急所であることは知っている。
「分かったつもりだったのだが、完全には理解していなかったようだ」
リリエンタールは感情というものが芽生えてから、まだそれほど時が経っていない上に、「イヴ・クローヴィス」にしか動かないので「事象としては理解した」が――それだけだった。
「あんただから、仕方ないんだけどさ。妃殿下はサーシャと、長距離移動に脱線事故、グリズリーと一緒に戦った仲ですから。軍人はそういう連帯感を大事にするじゃないですか」
「…………そうだな」
「でもさ、きっと妃殿下は、乗船客の誰であろうとも、心配してトランクを投げただろうし、意識を失った人を運んだと思うよ」
執事の言葉をクローヴィスが聞けば「誰でもそうだと思うのですが……」だが――世の中にはそうではない人間は大勢いる。その中でもとびきりなのがリリエンタール。
「…………」
感情は分からないが言われたことは分かるので――執事の言葉に、両手で顔を覆い、
「なんと慈愛に満ちた娘なのだ。教皇のようではないか」
クローヴィスの優しさに感動する。
「そりゃあ、教皇くらい心が広くなければ、あんたの妃はむりだよ。そのくらいのこと、理解しとけよ、天才だろう? あんた」
「愛や慈悲の前に、天才など無力だ」
「そうなの? わたし、天才じゃないから分からないんだけどさ……それはそうと、あのマリーチェの婿、どうするの?」
執事にそう言われたリリエンタールは顔から左手を離し、軽く払う。その仕草は「下げろ」であり――「殺せ」ではなかった。
指示を受けた一等航海士は一礼して、ランゲンバッハを引きずって出ていった。彼はロスカネフ語が分からないため、二人の会話を理解していなかったので、命令を不思議に思うことはなかったが、
「殺さないの?」
執事は会話の流れから「殺せ」と命じるものだとばかり思っていたので、少しばかり驚いた。
「まず第一に、イヴが望まぬであろう」
手を顔から離したリリエンタールの第一声はそれだった。
「あ……そうかもね。サーシャも大怪我したわけじゃないしね」
クローヴィスは法から逸脱した私刑や、苛烈な拷問じみた懲罰を望む人間ではない――もちろんクローヴィスが望めば、この世界の全ての苦痛をランゲンバッハに味わわせることなど、リリエンタールには造作も無いことだが。
「イヴがアレのことを知っているのも大きい」
クローヴィスにとって、元上官の妻の執事だったランゲンバッハは、会話をかわしたことはないが、顔は知っている――この深くない知り合いというのは、好き嫌いなどないので、憎悪は湧きづらいが、同情心はまあまあ沸く。
「なるほど」
「まあ、わたしが命じずとも、刺客がやってくるからな」
「刺客?」
「アレに騒ぎを起こさせて、その隙にロスカネフに上陸するのが、やつらの真の目的だ……海に転落して死亡してくれるのが、一番いいシナリオだったのであろうが、そうはならなかった。そして次善は下船したところ。三番目の策は、ロスカネフ王国から強制退去になり、アディフィン王国へ戻る途中」
「やつらが誰か知らないけれど、敵が乗ってたの?」
「ああ。そうでなければ、手間暇をかけてアレを乗せたりはしないであろう。やつらはアレがわたしの親族になったことを知らないで、この策をたてて実行した。協力者の足取りも、はっきりした」
リリエンタールは足を組み、指を組んだ手を膝に乗せる――ブリタニアス君主国行き一行と、ロスカネフ王国帰国一行の日程に、一週間の開きをもうけたのは、やつらに、この段取りを整える時間を与えてやる為。
執事はマリーチェとランゲンバッハの貴賤結婚の裏側に、複数のなにかがあるのだろうと――その一つが、ランゲンバッハの身柄の拘束だと知った。
ランゲンバッハ如きの貴族をリリエンタールが伴うのは不自然だが、姪の婿となれば、事件を起こしたさい、一門の法で罰するために連行するのは、当然のことだった。
それを知らなかったやつらは、役割を終えたランゲンバッハを殺害する必要があり、その為にはリリエンタールに近づくしかない――これほど離れているのに、動きを読まれているやつらが、近づいてきたら、正体が更に鮮明になる。
「相変わらず……なんというか。刺客に殺させるの?」
「そのつもりだったが、イヴが好まない可能性がある。イヴが死んでもいいと思っているのであれば処分するが、そうでなければ生かしておく。シャルル、イヴの気持ちを確かめてくれ」
リリエンタールにとって、ランゲンバッハの生死など、どうでもよいこと――使い道は幾つもあるが、殺害されても構いはしない。
「分かった。サーシャと一緒に探るよ。フランシスの力を借りてもいい?」
「構わん。フランシスがなにか文句をいったら、わたしが片付けてやると言ってると告げるがいい」
「なにを片付けるの?」
「なんでもだ。フランシスが持ち込む事案で、わたしに片付けられぬことはない。複数でも構わぬ。百や二百など、物の数にも入らぬ」
リリエンタールはいつもと変わらず淡々としており――苦もなくできるのだろうな……と、執事はこれに関しては、まったく疑わなかった。
「あんたって、そういう人だよね。だから人じゃなくて、皇帝って呼ばれるんだけどさ……フランシスにまつわることは、信用するけど、妃殿下から頼まれた女子寮のリフォームはどうするの?」
「策は幾つか浮かんだ」
「聞かせて」
「寮をマリーチェの婿に爆破させ、一門の者の失態ということで、わたしが寮をプレゼントする。もちろん人的、入寮者の持ち物などには一切被害を出さない。爆破したマリーチェの婿も、人死が出ていないければ、極刑には処されぬしな。もちろん素人のマリーチェの婿はダミーで、実際の爆破はこのわたしで、荷物等の避難はリーンハルトとヘラクレスに行わせる」
「……なんだろう、被害が出ないことに腐心して、作戦に投入する将軍も一流だから、微妙に良い案に聞こえてくるのが怖い。え、もしかしてアレは、このためにマリーチェと結婚させ…………」
「他はイヴが過ごしていた女子寮が欲しいから丸ごと売ってくれ、売ってくれたら新しい寮を贈ると、キースに交渉を持ちかける」
「お……おお。なんかバカっぽいけど、バカっぽいぶん、通りそうな気がする。きっと妃殿下も、寮にさまざまな思い出があるだろうから、破壊しない後者の策を使ったらどうですか?」
「寮に思い入れ?」
「住んだ家や部屋に、思い入れがある人も大勢いるんですよ」
「そうか……ならば後者だな。思い出か……イヴの思い出か。それは壊すわけにはいかぬな」
リリエンタールの楽しげな声に、買えるといいな……と思いながら、コーヒーを淹れた執事だったが――キースとの寮買い取り交渉は、熾烈を極めた。




