【129】司祭、生前退位を提案する
「大尉の手料理を振る舞ってもらえるのならば、先に知らせて欲しかったものだ。晩餐会の料理に手を付けずに帰ってきたのに」
クローヴィスが出してくれた料理を食べきれなかったリリエンタールの、心からの言葉――
【イヴがスコーンを三つもくれた】
あまり長くいても……ということで、リリエンタールは部屋へと戻った。スコーンはカフェボウルに――もちろん、持ち歩くのは一緒に退出したシャルル。
【良かったですね】
【食べられないのが辛い】
人気のない廊下を、シャルルと共に進む。
ルッツとグレッグも付いている――本来であれば、グレッグが受け取って運ぶのだが、物がクローヴィス絡みなので、グレッグには渡されなかった。
【そうですね。スコーンは、焼きたてが一番美味しいんですよ】
【…………】
もっとも美味しいタイミングなど、全く興味を持たなかったリリエンタールは、シャルルの言葉に――
【やめろ、そんな顔で見るな! でも事実だ!】
リリエンタールが向けた表情は、普通の人は顔を背けるものだった――表情そのものはなんら変わりはないのだが、雰囲気が殺意に似ているが、それ以上を思わせるものだった。
【部屋に戻ったら風呂に入ってください】
【明日でもよかろう】
リリエンタールは自分の身の回りを、全てシャルルたちに任せているので「風呂どうぞ」と言われれば、黙って入るのだが、今日はクローヴィスからもらったスコーンを愛でたいので、そんな時間はないと断った。
【妃殿下は清潔な男がお好みのようですよ。フランシスによると、クローヴィス家は皆さま毎日風呂に入るそうです。家族だけではなく、使用人にも残り湯ながら毎日入らせているそうです。そういう家庭でお育ちですから……あんたが妃殿下に合わせるんだよ、分かるな?】
【分かった】
話しながら浴室に到着し――シャルルは新品のフェイスタオルを一枚手に取り、クローヴィスのスコーンに被せ、
【グレッグ。こちらを持って、廊下に立っていなさい。浴室で湿ってしまうといけませんから】
グレッグに持たせて、廊下で待機するよう指示を出した。
【は……】
【グレッグ。それに触れなければなにをしても許してやる。ただしそれに触れたら、命はない】
「はい」とシャルルに返事をするより先に、リリエンタールに脅され、返事が出来なくなったグレッグは、かくかくとした強ばった動きで浴室を出て、廊下で直立不動で待機した。
【脅さなくても分かると思いますけど。城を任せられるくらいには、優秀なんですから】
【それと、イヴがわたしにくれたスコーンは別だ】
【まあ良いですけど】
シャルルが手を叩き、召使いたちがやってきて、リリエンタールの着衣を解く。猫足がついた白い浴槽の縁に頭を乗せ、足を伸ばして座ると、召使いたちがリリエンタールの体を洗いはじめる。
[喜んでいらっしゃいましたよ]
召使いたちがはっきりと解らない古帝国語に切り替え、シャルルは大聖堂でのクローヴィスの様子を教える……といっても、シャルルも直にクローヴィスを見ていたわけではない。
[そうか]
クローヴィスが絵画を見ていた時、シャルルが連れてきた芸術家という名目で、フォルクヴァルツ選帝侯配下のハーゲンとボナヴェントゥーラ枢機卿配下のプラチドの二人がおり――クローヴィスの反応を確認していた。
このハーゲンとプラチドが「芸術家」を名乗って、シャルルと共に大聖堂にやってきた理由だが、一般公開されていない大聖堂の絵画を解放するようリリエンタールが指示を出した――クローヴィスがリリエンタールの婚約者だと知られているのならば簡単だが、二人の関係は隠さなくてはならないので、今回の絵画の解放は、備品や聖遺物が失われていないかどうか、設備維持が適切に行われているかなどの「抜き打ち検査」という名目で行われた。
大聖堂のそれらは、歴史的な価値があるので、盗難や金欲しさに売りさばかれることがある。
その抜き打ち検査と、絵画の一般開放がどのように繋がるのか?
派手に抜き打ち検査をされるのは、大司教の面子に関わるので、リリエンタールが命じた抜き打ちを、シャルルが少しばかり手を加えて優しくしてやった。
その一つとして一般開放中に、一般人を装った専門家が、絵画が偽物ではないかどうか? 適切にメンテナンスが行われているかなどを行うという提案があった。
[シャルルの身の安全を確保できるというのであれば、その温いやり方でも許してやろう。教皇もお許しになるはずだ]
普段のリリエンタール――枢機卿であり検邪聖省のトップは、そのような譲歩などしないが、アディフィン王国に厄介な皇女がやってきていることは、大司教も聞き及んでいたので、なんの疑問も持たずに受け入れる。
絵画の料金設定や、取材を受ける時間などは、全てシャルルの裁量――サーシャと話し合い、問題が起こらないように設定した。
作戦は無事成功しクローヴィスは、秘蔵の絵画を見ることができた。
その秘蔵の絵画を見て感動しているクローヴィスを見て驚いていたのが、ハーゲンとプラチド。
[あの二人、驚いてましたよ]
[美しさにか?]
[ええ。サーシャ以上ということで]
[好みとなれば違うであろうが、美貌という点ではエーデルワイスであろうな]
[そうですね。あとあんた、顔が綺麗なのを好むんだなって思われたみたい]
[ん?]
[エーデルワイスでしょ、サーシャでしょ。あと自分でいうのも変だけど、わたしでしょ。それにレニューシャに、元王叔父。あんたが側に置くのは、並外れて顔が良い奴だって、二人とも言ってた]
[…………そんなつもりはないのだが]
ハーゲンは「シャルルの警護に貸し出す」とフォルクヴァルツ選帝侯から――リリエンタールはなにも言わなかったが、シャルルは護衛は多いほうが良いと判断して受け入れた。
シャルルはハーゲンのことは知らないが「アウグストの推薦なら、問題ないでしょう」ということで――愉快犯過ぎてアレな男だが、こういう所で仕掛けてこないのは、長年の付き合いで知っているし、なによりリリエンタールが何も言わないので、大丈夫だと判断した。
プラチドのほうはリリエンタールに取り次いでもらうために、ハーゲンにコンタクトを取り、シャルルに会いにやって来た。
[そうそう、プラチドがあんたの義姉を連れてきたそうです]
髪の毛を洗い流されているリリエンタールに、プラチドが命令どおりモルゲンロートの総帥マクシーネ・モルゲンロートを連れてきたと伝える。
[そうか]
二人が話をしていると、召使いが湯の追加を指示し――
【持ってきました】
意味も分からず連れて来られて、放置されているが、怖くて逃げ出せないマンハイムの男が、お湯が入ったバケツを運んできた。
シャルルはちらりとマンハイムの男を見てから、
【大司教が、次の教皇が誰なのか? 興味を持っていましたよ】
”グレゴールの部下だったのだから、古帝国語は解るでしょうね”と判断して、アディフィン語に戻した――実際、マンハイムの男は古帝国語は、不自由はないとまでは言い切れないが、貴族の教養の範囲以上はおさえている。
【わたしがイヴァーノに投票するかどうかを聞きたがったのか】
【すっごく迂遠な言い回しでしたけど、要約するとそう言うことですね】
【教皇が死んだ後の話など、大っぴらにはできぬであろうよ】
主人の会話は聞いても、聞いてない振りをしなくてはならない召使いたちだが、さすがに「教皇の死後の話」などという話題は、素知らぬふりができず――一瞬手が止まる。
リリエンタールとシャルルは、それを咎めるようなことはしなかった。
【大っぴらにはできないけれど、教皇もお年だから、考えている人は多いよ】
【他者から見れば、大司教自身、今晩息の根が止まるかもしれぬのに、本人は明日も生きていると確信しているのか】
【ほとんどの恵まれている人間は、自分が今日死ぬなんて、思いませんよ】
【そうだな。それでなんと答えた? シャルル】
【自分自身には投票しないよ……って】
リリエンタールはクローヴィスと結婚する前に、僧籍を返上するので、教皇を選ぶ会議に出る予定はないが、大司教に対して言った通り、突然死という可能性もある――その場合の対処方法も、もちろんリリエンタールは持っている。
【……まあ、大方、わたしに意見を言える人物を教皇にと考えているのであろう】
【解らないでもないんだけどさ…………あのさ、教皇に生前退位してもらうってのはどうかな?】
体を流し終えて風呂から上がり、リリエンタールはナイトガウンを羽織る。
【教皇から生前退位については、聞いたことはないが】
【生前退位して、わたしたちの所に来たらいいのに】
シャルルは教皇に、幸せになったリリエンタールを側で見て欲しいと――
【教皇ならば、来るのは構わぬが……おそらく教皇は、生前退位など考えていないであろう】
リリエンタールにはそういう感覚はないので、シャルルが言いたいことを理解はできないが、おおよそ人間らしいシャルルの提案なので、悪いことではないのだろうと後押しする。
【そうだよね】
【まあ、お前が提案し説得したら、教皇の心が動くかもしれぬ。教皇が生前退位すると決めれば、あとの雑事はわたしとイヴァーノでいくらでも処理できる。そういったことを盛り込んだ手紙を送るのも手だな。お前が出向いても構わ…………】
今までならば「構わぬ」だったのだが、クローヴィスとの関係を良好に保つためには、シャルルの力は必須。それを理解しているので、教皇の所へ行ってもいいとは言えなかった。
【行く訳ないだろ。わたしがいないと、どうなることやら。さあ、寝室に向かいますよ】




