【117】イヴ・クローヴィス・18
四月初旬の深い森の中なので、朝晩は冷えるが、ロスカネフ王国で厳しい訓練を受けてきたクローヴィスにとって、レンジャー訓練ならば許されないが、他者で暖を取ることができるので、脱線事故に遭遇し、山中で救助を待つ状況も、さほど苦ではなかった。
「クローヴィス大尉、時間だ」
自分の体温で暖を取らせていたサーシャは、足にしがみついているクローヴィスの肩をそっと揺すった。
クローヴィスは目を開けるより先に、精緻な口元を綻ばせ、筋肉がついている長い腕を勢いよく伸ばし、的確にサーシャの後頭部を掴み、軽く引き寄せながら起き上がり、
「ん…………おはよ、デニス」
目を閉じたまま、頬に「おはよう」のキスをする。
――腕を出す速さが、寝起きのそれじゃない……目を開けてなくても、この速さで、的確に人体のポイントを押さえてくるのは、正直言って凄まじい。たしかに、ヒースコートさま級だな
避けることができなかったサーシャが、内心でそう呟くのも仕方のないこと。
もちろんそんなことは、おくびにも出さず、勘違いを指摘する。
「残念ながら、大尉の弟ではない」
見た目のせいで固いイメージを持たれるクローヴィスだが、唇は当たり前だが柔らかい。
「ああ! 済みません! 申し訳ございません、大佐!」
サーシャの声を聞き、目を開けたクローヴィスは、勘違いに気付き手を離して立ち上がり、深々と礼をしながら謝罪した。
「そこまで、気合いを入れて謝罪しなくてもいい」
一瞬前まで寝ぼけていたとは思えない動きで立ち上がり、頭を下げたクローヴィスに苦笑いしながら「大佐」はそう言った――事情を知らない随員たちは、全く嫌がっていないどころか、他の随員たちにはない優しさを見せる「大佐」に、クローヴィスのことを、よほど気に入っているのだろうな……そう解釈した。
サーシャ自身、クローヴィスのことは気に入っているが、彼らが思うような感情ではない。
「ありがとうございます。寝ぼけていて」
クローヴィスが寝ている間に用意された朝食――バターを塗った黒パンとハムの塊、瓶入りミネラルウォーターを乗せたトレイを召し使いが運んできた。
「ありがとう」
クローヴィスは軍属の召使いに軽く礼を言ってから、トレイに乗っているミネラルウォーターの瓶を手に取ると、ベルトのバックルに栓を引っかけ、瓶を下に降ろし栓を抜く。
栓は簡単に抜け、飛び上がった栓をほぼ見ることなく、クローヴィスはキャッチした。
二人の前にトレイを置いてから、栓を抜こうと思っていた、召使いは驚いたが、クローヴィス自身はなにも気にせず、
「大佐のも」
「いや、栓抜きがあるからいい」
「栓抜き……」
現状を思い出しレンジャーモードになっていたクローヴィスは、トレイに乗っている栓抜きに気付いた。
そして固まっている召使いと目が合い、
「ありがとう!」
大声で誤魔化した――全く誤魔化せてはいないのだが、階級が全ての軍で、陸軍大尉が誤魔化して終わらせるといったら、下の階級の者は大人しく従うまで。
召使いは栓抜きを置いて、その場から下がった。
「とりあえず座れ、クローヴィス大尉」
「はい、ディートリヒ大佐」
クローヴィスはすっと座り――シンプルな食事を取りながら、
「何故、弟と勘違いを?」
サーシャはクローヴィスに尋ねた。
「起こされた際、子どもの声が遠くから聞こえていたので、親族でキャンプに来た……と思ってしまったようです」
レンジャー研修は人気のない山奥で行われ、起こしてくれるものもいなければ、子どもの声がすることもなく、ほぼ単独行動なので人の気配もない。
対して事故現場は、人の気配が多くあり、その気配のほとんどが軍人ではなく、子どもの声までするので、少しだけ気が緩んだのだとクローヴィスは語った。
「なるほどな」
「弟と間違って申し訳ありません」
「気にしなくていい。ところで、どこか痛むところはないか」
寝起きの話を終えてから、サーシャはまず一番に聞きたかったことを――事故直後には分からなかった打ち身などを、感じる箇所はないか? と。
「痛いところは、どこもありません」
残り半分になった黒パンを手に、ほとんどの人に「そうだろうな」と納得させる笑顔で、大丈夫ですと告げる――ただし「ほとんどの人」の中に、サーシャは入ってはいない。
「そうか」
クローヴィスのようなタイプは、多少の不調は口にしないからだ――もっとも、それはサーシャの杞憂でクローヴィスは、打ち身もなにもない。
事故に遭った際、室内を転がっていたクローヴィスだが、無意識のうちに上手に衝撃を逃がしつつ、ぶつかるのを回避していた。
「大佐はいかがですか?」
多少の不調を口にしないというのは、サーシャにも該当する。
クローヴィスと違うのは、サーシャは脱臼した左肩の周囲に、痛みと違和感があること。さとらせることはないが、万全の体調ではなかった。
「問題はない」
食事を取り終わったあと、サーシャが立てた計画表にクローヴィスとルオノヴァーラが目を通し、幾つかのことを提案し――クローヴィスは計画表通り、手早く銃の整備をして見張りについた。
クローヴィスに注意を払いながら、サーシャは乗員と、いつ頃救助がくるかなどについて、意見を交わした。
まずは事故に遭った場所だが、乗員は地図を取りだし、サーシャに「おそらく」といったポイントを指し示す。
【古の森の、ど真ん中か】
――駅と駅の間の、森の一番深いところなのが厄介だ
【はい】
【異変を感じてから救助がくるまで、あと二日くらいは見たほうがいいか】
【もっと掛かると思います。事故が領主に上がるのに、二日くらいかかる可能性が】
【駅には女子爵閣下がいたはずだ。一等客室の乗車名簿に載っているだろう】
【ああ! そうでした】
――二日は見る必要があるか……妃殿下なら次の駅まで簡単に、徒歩でたどり着けるだろうが……救助を求めるためにという理由で、駅へ向かってもらうか。そのほうが…………エーベルゴードがあそこまで大怪我していなければ
助けは呼びに行かなくても来ることは分かっている――クローヴィスは怪我人を置いていけるような性格ではないので、
――救助がくるまで、ここで待機するしかないか。幸い妃殿下は野営にも慣れているから……慣れているというか本物だが
小銃を両手で持ち、哨戒しているクローヴィスを視界の端にとらえながら、サーシャは乗員と他にもいろいろと話し合い、
「他に、持ち出したいものはあるか?」
救助がくるまでの間、クローヴィスに好きなことをさせるべく、乗員から車両設備の持ち出し許可を取った。
一等客室の乗客ということもあり、乗員は「お好きなように」と――特にサーシャは支払いもいいが、紹介者付の上客なので、ほとんどの無理が通る。
見張りが終わったクローヴィスは、飲み水確保のために濾過装置を作りたいので、バケツが欲しいと――
「分かった」
サーシャとともに濾過装置を作り、エーベルゴードの体調を確認したりし――召使いが作ったビールのスープと、炙りベーコンと黒パンの昼食を取る。
これらの食材は、食堂車両から提供されたもの。
クローヴィスたち大尉三人とサーシャは、毎食、食堂車で取っていた。
ただ食堂車のメニューは高く――三等や二等の乗客は、旅を安くあげるためというのもあるが、単純に資金不足で食料を持参してくるのが一般的。
一等客室の乗客でもない限り、毎食食堂車を使うことはない。
本来であればクローヴィスたち三人の大尉は、二等客室での移動だったので、従卒や召使いが、駅近くの店で食料を補給して、部屋で安ワインと黒パンにハムとチーズの食事で、全旅程を乗り切るのだが、キースとリリエンタールの攻防の果てに、補佐武官たちは、毎食食堂車で食事を取ることができることになった。
その料金は全てリリエンタール持ち――
リリエンタールは基本料金を前払いで済ませていることもあり、乗員が「お好きなのをお持ちください」と、サーシャたちに食料を提供した。
その際に調味料などももらい受け、召使いたちは限られた食材の中で、体が温まるものを作った。
「シナモンが薫るビールスープは美味しいし、スープはビールで作れますけれど、やっぱり水が欲しいところです」
「そうだ……誰か来た!」
向かい合って食事を取っていたサーシャの声に、クローヴィスは足に乗せていた小銃を手に取り、サーシャの視線の方へ銃口を向け、引き金に指をかける。
「助けてくれ!」
駅に向かった乗客の一人が、逃げ惑った際に枝にひっかかったり、石に躓いたりしたのが一目で分かる姿で戻ってきた。
「大佐。もしかしてここは、古の森ですか」
「そうだ、大尉」
サーシャの言葉を聞いたクローヴィスは「悪魔的な熊かあ……」と呟いた。
「助けが来るまで、無事に過ごせると思いますか? 大佐」
「さあな。駅に向かったやつらだけで、満足してくれたらいいが」
クローヴィスを無事に送り届ける任務の難易度が、随分と跳ね上がったな……そうサーシャは思うと共に、クローヴィスが残ると言わず、線路に沿って駅を目指していたら、熊と遭遇したのだと――
「命拾いしたのかも知れない」
サーシャは一人、呟いた。




