泥中の剣 その3
アレクは右手に持った剣をだらりと下げながら左手で手招きする。
「ダメよ。たった今戦ったばかりじゃない。せめて休憩してからでも……」
クラリッサはフェリックスにとりすがりながら幼児のように首を振る。実際、フェリックスの息はまだ上がっている。実力はともかく、疲れていては十分な力は発揮できない。
「離れているんだ、クラリッサ」
フェリックスはアレクの方を見ながら腕でクラリッサを後ろに押しのけた。額の汗を手の甲で拭き取ると、奇妙な構えを取った。左腕を顔の前まで上げ、右腕をぴんと伸ばし、突きの姿勢を取っている。
必殺技か何かの体勢だろうかと首をひねっていると、フェリックスは深呼吸してから地を蹴った。
長期戦に持ち込まれては不利と見て短期決戦に持ち込むつもりなのだろう。泥を跳ね上げながら一気に斬りかかる。
アレクはにやりと笑うと、つま先で足下の泥を跳ね上げる。茶色いしぶきが宙を舞い、フェリックスに覆い被さる。けれどフェリックスの足は止まらなかった。顔まで飛んだ泥は左腕のおかげで目には入らなかったようだ。
なるほど、あの変な構えはこのためか。
フェリックスは泥のしぶきやかたまりを身に浴びながら斬りかかる。
アレクは余裕の表情だった。片手で受け止めると、続けざまの猛攻も右に左にと受け流す。まともに受けては木剣が折れそうな程の一撃を手首をなめらかに動かすことで巧みにさばいている。
剣だけではない。向かってくれば後ろに下がり、右から来れば左に逃げる。反対に距離を取ろうとすれば、前に詰めて、攻めを誘う。どうやら相手の攻撃をしのいで隙を作り、反撃するのがアレクの戦法らしい。粗暴な言動とは裏腹に、精妙な剣をしている。
早くもフェリックスの息が上がってきた。やはりさっきの試合の疲れが残っているようだ。反対にアレクは動きに余力を沢山残している。
「どうしたどうした? さっきの勢いはどうしたんだよ」
「くそっ」
あからさまなアレクの挑発に舌打ちしながら剣を振るう。けれど、怒りで乱れた剣はしゃがんだり後ろに飛び下がったりして全てかわされてしまう。フェリックスの息がますます乱れてきた。空振りというのはあれで体力を使う。剣を引き戻すのにも力がいるし、ぼやぼやしていたらその隙に反撃される。一気に勝負を付けたいのだろうけれど、その焦りを完全に見透かされている。
フェリックスは額の汗を拭くと前に出る。どうやら勝負に出るつもりのようだ。
雄叫びを上げながら振りかぶった剣を真っ向から振り下ろす。すごい勢いだ。下手に受け流そうとすれば、剣を弾き飛ばされるか折られてしまうだろう。かといって後ろは見物客の壁がある。
アレクは背を向けた。前屈みにしゃがみこむと見物客の足下に自分から飛び込んだ。
「なっ!」
意表を突かれてフェリックスは声を上げる。このままでは振り下ろした剣が見物客に当たってしまう。急いで剣を戻そうと、踏みとどまったせいで体勢を崩し、前につんのめる。とっさに剣を手放したものの勢いは殺しきれずに人混みに頭から突っ込んでしまった。
悲鳴が上がる。
「どけどけ!」
別の場所からも罵声が上がる。こちらはアレクが見物客の足下をネズミのように走り回っているようだ。時折見物客のおじさんが転びそうになったり怒鳴り声を上げている。
「よっと」
アレクが広場に戻ってきた。ちょうど飛び込んだのとは反対側だ。フェリックスはようやく立ち上がり、剣を拾い上げたところだった。
アレクがまた泥を蹴飛ばすと、斬りかかってきた。かわそうにも後ろは見物客だ。
フェリックスは腹の底から声を上げ、大きく踏み込み迎え撃つ。
低く重い音がぶつかる。
互いに剣を押しながら二人がにらみ合う。フェリックスの方が腕っぷしは上らしく、少しずつアレクの体が後退していく。
一気に押し切ろうとフェリックスが体を傾けた時、アレクの頬が膨らんだ。口の中で舌を動かしているようだ。何だろう、と思っていると、口がすぼまり、白くて赤いかたまりを吹き出した。
さっきまで食べていた、リンゴのカケラだ。
完全に不意を突かれたのだろう。勢いよく飛んだいびつなカケラはフェリックスのまぶたの上を叩いた。
さして痛いものでもないだろうけど、場所が場所なのでフェリックスの体が大きくのけぞる。そこをアレクは見逃さなかった。
一歩下がって距離を取ると、雄叫びを上げて剣を下から上に払い上げる。
木剣が音を立てて宙を舞った。
フェリックスの手から弾き飛ばされた木剣は、くるくると風車のように回り、泥の上に突き刺さった。
「勝負ありだな」
フェリックスの目の前に木剣を突きつけながらアレクが勝ち誇った顔をする。
「……そこまでして勝ちたいか」
「なら次はルールに加えてもらえよ。食べたばかりのリンゴを試合中にはき出してはいけませんってな」
フェリックスのイヤミにもどこ吹く風だ。
「で、どうする? オレとしてもお前の頭をかち割りたくはねえんだけどな」
「もうやめて、アレク」
「来ちゃダメだ」
今にも走り出そうとしていたクラリッサをフェリックスが声だけで制する。
「でも……」
「今は試合中だ」
叱られてもなお近寄りたそうなクラリッサをぴしゃりとはね付ける。それからアレクへと向き直る。
「……わかった。俺の負けだ」
「そうこなくっちゃ」
アレクは満足そうにうなずくと木剣を肩に担いだ。
「それじゃあ、これでオレも本戦出場だな。ま、せいぜいお前もがんばれよ。運が良ければ、あと一人くらいは残っているかもしれねえぞ」
おそらくほとんどの参加者が失格になっているのだろう。対戦相手がいなければ、試合はできない。
「卑怯者」
自分の剣を身につけ、立ち去ろうとするアレクの背中に観客から罵声が飛んだ。
「恥ずかしくないのか。恥を知れ」
「卑怯な手ばかり使いやがって。正々堂々戦え」
「やっかましいやい!」
アレクの大声に観客がしんと静まりかえる。
「ぐだぐだつまんねえこと言ってんじゃねえ。勝てばいいんだよ。勝てばよ。そして勝ったのはオレだ。もし不満だって言うのなら」
すい、と担いでいた木剣を観客へと向ける。
「力ずくでかかって来いよ。ほら、ほらどうした、え、どうした」
挑発というよりおどかしているようだ。みんな怖がって後ずさる。
「やめろ、アレク」
フェリックスがよろめきながら立ち上がる。
「選手でもない相手に剣を向ければ重大な反則だぞ。失格になりたいのか」
「うっせえなあ」
ぺっと、つばを地面に吐いた。
「負けた奴がベラベラ偉そうにしてんじゃねえよ」
ビュン、と木剣をフェリックスめがけて振り下ろす。どうやら本気で当てるつもりらしい。悲鳴とどよめきが上がった。
「そこまでにしておこうか」
かん、と高い音がした。
さすがに放ってはおけないので、僕がさっき落ちた木剣を拾って受け止めたのだ。
横から飛び出した僕にアレクもフェリックスも目を丸くしている。
「試合はもう終わったんだろう。だったら握るのは剣じゃあない。互いの健闘をたたえる握手なんじゃないかな」
「誰だ、テメエ。見かけない顔だな」
「僕はリオ。旅の者です。こっちが僕の親友のスノウ」
にゃあ、と僕の肩でスノウがかわいらしい声を上げる。
「お前も出場者か?」
「僕はたった今、この町に来たばかりです。試合のこともたった今聞いたばかりです。それに僕なんかが試合出たって勝てるとも思えません」
きちんと否定したのにアレクは何故か警戒を緩めようとしない。
「おい、何をしている」
観客の間を裂くようにして鎧を来た人たちがやってきた。町の衛兵さんのようだ。
「試合は終わったのか。だったらすぐに解散しろ。騒ぎを起こすようなら牢屋にぶちこむぞ」
「ふん」
衛兵さんのおどしにアレクはつまらなそうな鼻を鳴らすと、木剣を地面に突き刺し、大股で立ち去った。時折人混みの中から「どけ」だの「ジャマだ」だの乱暴な言葉が聞こえた。試合を見ていた人たちもぞろぞろと我に返ったように思い思いの方角へと去って行った。
「乱暴だなあ」
あんな汚い言葉遣いをして、子供がマネをしたらどうするんだ。
「すまない。助かった」
フェリックスにケガはなさそうだ。でも顔には助けられたという、申し訳なさと悔しさをにじませている。
「気にしないでいいよ。たまたま通りかかっただけだし」
「それより」と僕が手に持ったままの木剣をちらりと見ながら言った。
「本当に大会の出場者じゃないのか?」
「誰が一番強いとか、勝ち負けには興味はないんだ」
世の中には僕なんかより強い人がごろごろいる。一番になれるとは思えないし目指すつもりもない。
「さっきの人は違うみたいだけど。君の知り合い?」
「アレクは私の幼なじみなの」
返事をしたのはクラリッサだった。長い金髪が夕暮れの光に反射して、金色の海のようにきらめいている。可愛い子だなあ。でも緑の瞳には悲しみの陰がありありと浮かんでいる。
「昔はあんなじゃなかったのに」
クラリッサのお父さんはスティーブ・ウェリントンといって、昔はコーレインの町でも一二を争う剣士だったらしい。王都で開かれた剣術大会でもなかなかの成績を収めたこともある。今は一線を退いて町の人たちにウェリントン剣術教室を開いている。たいそう繁盛しているらしく、町の衛兵さんにもお弟子さんが多い。フェリックスも弟子の一人だ。
アレクは別の剣術教室の子供だったそうだ。その縁でクラリッサとも知り合い、年が近いので子供の頃からよく遊んでいた。
けれどいつの頃からか、腕を上げることより勝つことにこだわるようになってしまい、今では我流でたった一人で剣の練習をしている。その戦い方というのがつばを吐いたり砂をつかんで目つぶしをしたりと、変な戦い方ばかりで、町のみんなからも嫌われるようになってしまったそうだ。
「何回も注意したんだけど、全然聞いてくれなくて。今年の大会でもあんな卑怯な戦い方ばかり。あれじゃあ、優勝したって誰も認めてくれないのに」
「ルールはどうなっているの?」
大会というからには、ルールがあるはずだ。砂を投げつけてはいけない、とかつばを吐きかけてはいけないとか書いてあるのなら完全な反則のはずだ。
「一応、決められた『武器』以外は使ってはいけないことになっているわ。でも人によっては組み討ちとかも使う人がいるから」
剣と体術を組み合わせて戦う人もいる。僕もよく剣で戦いながら蹴ったり投げたりしている。それだって立派な戦法だ。それに戦いにはアクシデントがつきものだ。たまたま目に砂が入ることもあるだろう。地面を蹴った泥が相手の顔に当たることだってあるかも知れない。武器を持ち込んだのなら反則だけど、その場にある物を利用しているだけでは反則とは言えないらしい。
「そうやってルールの隙間をかいくぐって卑怯な手ばかり使うんだ、あいつは」
フェリックスはまだくやしそうだ。
「何とかあいつの目を覚まさせようと、戦ってみたけれど、ダメだった……」
「まだ次があるよ」
負けたのは残念だけど、命を取られたわけではないのだからまだ次がある。
実力は負けていないのだから腕をみがけばフェリックスも勝てるはずだ。
「そうよ」
クラリッサがぽん、と肩を抱くようにしてフェリックスを押す。
「あなたなら大丈夫よ。うちの教室の五席なんだから。それに、カタキはマークが取ってくれるわ」
「誰?」
「うちの教室の第一席、つまり一番弟子ね」
マークさんは古くからのお弟子さんで、今では師範代としてほかの弟子に稽古も付けているという。当然、フェリックスより強い。十回戦っても二回勝てればいい方らしい。
「それより、えーとリオだっけ? 今日の宿は決まっているの? もし良かったらウチに泊まる? 大したおもてなしはできないけど、部屋はたくさんあるから」
「せっかくだけど遠慮しておくよ」
スノウがお気に召さないらしい。その証拠にさっきから僕の耳をかんでばかりだ。
「その代わりと言ってはなんだけど、どこかいい宿を教えてくれないかな」
「それはいいけど……」
クラリッサは申し訳なさそうな顔をした。
「多分、大会を観に来た人たちでどこもいっぱいのはずよ」
次回は8月23日(木)午前0時頃に更新の予定です。




