熱
彼の鼻に、生ぬるく鉄っぽい臭いがやって来る。
彼の耳には泣き叫ぶ声が届き、目は今起こっている惨状から目を背けさせてはくれない。
ミーナ・ルル・ウィリス・ヴォーネ・レイ・エルル、そしてピリリ。彼女達の手首には太い金属が打ち込まれており、そのすすり泣きの声は彼の耳に妙に生々しく聞こえた。
耳を塞ごうにも、塞ぐ耳がない。それならば嗅ぐための鼻もないはずなのに、どうしてか鉄錆の臭いが鼻をつく。
彼女達の阿鼻叫喚は、聞いているのが辛くなるほどにリアルだ。バルパはそれを聞き、今まで流されていた自分に苛つきを覚えた。
(そもそも俺は、どうして意識を失っている。こんなものを見せるのは普通ではない。どうすればここから出て、どうすればこの流れ続けている映像を止められるか。それを考えなければ……)
だがバルパの思考は、ミーナが腹部に熱された鉄棒を入れられた絶叫により中断される。
『殺せ、殺せ……殺せ‼』
『敵を殺せ、欲するところを為せ‼』
彼の脳裏に言葉がよぎる。言の葉には魂が宿り、バルパの心を掻き立てた。憎悪と嫌悪が混じり合い、殺意へ変わる。殺意は衝動へ、衝動は暴力へ、そして暴力は緩やかな陶酔へ。
彼の思考は黒一色に染まり、背筋には甘い疼痛がやって来る。
『ならば選べ、真の道筋を‼』
バルパが自分の肉体を、魔力を感じ取れるようになった時、彼の目の前にはミーナ達を焼死させた人間達がゲラゲラ笑う姿があった。
右手には聖剣、防具らしい防具はなくただ相手を殺すための武器がそこにあるだけだ。
彼の目の前で、男達が死した少女達を汚そうと群がり始める。何が起こるのか彼にはわからなかったが、碌でもないことが起こることは容易に想像がつく。
『殺せ‼』
『殺せ‼』
『人間を殺せ‼』
鈍器で頭を殴るなどという生易しいものではない。強引に頭を切開しそこに直に鎚でも振り下ろしているかのような衝撃がバルパを襲う。
殺す、目の前の人間達に、自らの行動の報いを受けさせてやる。バルパの脳内は、狂おしいほどの衝動で埋め尽くされていた。
先程あった自分の死体が消えていることなど、すでに脳裏からは消え去っている。
彼が願うのはただ目の前の敵を殺すというそれだけであった。自分から奪った者達からより多くを奪ってやろう、そんな明確な害意だけが彼の体を突き動かす。
魔力循環は問題なく使うことが出来た、魔力を吸収、そして迅雷を同時に発動。纏武轟雷を発動し自分に気付かぬ愚かな人間達に迫る。
「そうだ、人間は……殺さなくてはいけない」
『殺せ‼』
『一切の慈悲なく殺せ‼ 殺しこそが慈悲、殺戮こそが救い‼』
突き動かされるかのように、バルパは空を蹴る。聖剣は輝いたまま、眩い光が彼の体から発される紫電ごと彼の全身を包み込む。
一歩、更に一歩。常人では捕捉すら困難な速度で駆けるバルパは、胸に僅かな痼を残しながらも前に進んでいく。
『人間を‼』
『人を殺せ‼ 汝の敵を、討ち滅ぼせ‼』
目の前の敵を殺す、彼には既にそれしか考えられない。
目は血走り、口からは荒く熱い呼気が吐き出される。頭は熱され、激情だけが体を突き動かす。
衝動に任せることに陶酔を覚えながら、彼は更に前に出た。
眼前に自らの敵、焼死体のピリリをなおも傷つけようとする男が見える。
勢いをついたままの姿勢で右手を振るう、一切の穢れ無く輝く白銀の剣が、対象目掛けて吸い込まれていく。
これで、これで殺せた。
そんな昏い喜びを感じたバルパは、唐突に発された熱にその動きを鈍らせる。
(……一体なんだ、こんな時に)
バルパの左手、空を掴んでいるはずの拳が内側から溶けそうなほどの熱を発している。
不思議と痛みはない、ただひたすらに熱さだけがあった。
聖剣の切っ先が男の喉元目掛けて突き出される。剣と敵との距離が近付いていくほど、左手から発される熱はその温度を上げていく。
それはもはや熱などという生易しいものではない。今この瞬間、少し目を離した隙に内側からマグマが飛び出すのでないかと思うほどに激しい何かが、バルパの左手に籠り続けている。
どんどんと熱くなっているのだがわかる、だが全く痛みも、不快感もない。
それはまるでどれだけ光量が増そうとも眩しさを感じさせぬ聖剣のようだった。
切っ先が相手の喉の薄皮を剥いだ所で、ピタリと止まる。
「……温かい」
左手から感じる何かが、左手を通して伝わってくる温もりが、バルパの動きを止める。
熱くて苦しいのではない。むしろその熱さが、心地好くすらあった。
「………………ル……」
遠くから、ここではないどこかから、声が聞こえてくる。
それはどれだけ聴力を強化しても正確に聞き取れないほどに小さく、だが同時にどれほど離れていても聞こえてくる確かさがある。
「………ルパ……」
温もりが、彼の内側でへばりついていた泥までも温めてくれる。泥は乾燥し、水気が消え、パリパリと剥がれ落ちていく。
熱に浮かされ鈍化していた思考が、別の熱によって鮮明になっていく。
(そうだ……俺は…………)
思考が明確になり、ぼやけていた輪郭が形を取り戻す。
先ほどまでの衝動が、別の衝動により塗り潰されていく。
「……バルパッ‼」
どこかから聞こえる声により、バルパは失っていた正気を完全に取り戻した。
「俺は…………決して失わない」
『否、不可能だ。消えぬものがないように、失われないものなどない。お前は必ず、全てを奪われる』
「奪われぬため、強くなるのだ。俺はもう、何一つこぼさないと決めた」
『負けて他人に縋ることしか出来なかったお前には、出来ない』
「かもしれない。だが……出来なくとも、やるのだ」
護ると、そう決めた。口だけで言うのは簡単だ。そして彼は有言実行することが出来ず、自らよりも強い人間に頼ることでしか、護ることが出来なかった。
だがそれでも決して、諦めはしない。絶対に無くしはしない。ミーナ達は絶対に、殺させない。
自分には力はない、足りていない。バルパはそれを知っている。力が無ければ、言葉は無意味だ。
護るためには力がいる。彼が求めているのは、力だ。そしてそれを手に入れる方法を、彼は知っている。
「俺は勇者になど、興味はない。誰かに担ぎ上げられるなど、まっぴらごめんだ」
彼は勇者である自分を否定する。そんな訳のわからないものになる気も、魔王などという得体のしれない存在と戦う気も彼にはない。
「だが今の俺では、奴には勝てない。俺には力が、必要だ」
そして彼は、聖剣を必要としていることを肯定する。自分が敗北を喫した少年は、今の自分では敵わない場所にいる。
そんな彼へ自らの手を届かせるために必要なものがなんなのか、バルパにはそれがわかっていた。
「俺はお前に課せられる使命の全てを否定する。お前が共にした人間達の歴史など、俺の知ったことではない。だから、大人しく……」
歴代の勇者がどうした。彼らが誰を殺そうと、彼らが誰に殺されようと、それは既に過去のことでしかない。彼は過去の強さを求めているのでも、未来の力を求めているのでもない。
バルパが求めているのは今この瞬間、あの少年を倒すための力だ。
「俺に……従えッ‼」
バルパが吼えるのと同時、聖剣の放つ輝きが強まった。
まるで彼をいとおしむかのように、聞き分けのない我が子をそれでも認めるかのように、聖剣の輝きは彼を覆い、包み込む。周囲を覆っていた魔力が、バルパの内側へと入り込んでくる。自らの体内を魔力に蹂躙された直後、彼の頭の中に言葉が浮かび上がる。
その言葉がなんなのか、わざわざ口にするまでもない。
「そうか、これが…………」
「そうだよ、それが君の聖句。君だけが使える、君だけの答えだ」
ジッと剣を見つめていた彼の目の前に、再びスウィフトが現れる。
「おめでとう、バルパ。また会っちゃったね」
拍手の音が聞こえ、彼は顔を上げた。そして気付く、自らの目の前にいるのがスウィフトだけではなかったことに。
彼の目の前にいる人間の総数は二十一。
自分がその足跡を見届けてきた勇者達が、彼の前で一列になって並び立ち、こちらへ向けて拍手を送っていた。




