遅れて
そもそも魔物の数が少ないということは往々にして起こりうる可能性の一つでしかない。もしかしたらそこので縄張り争いがあっただけなのかもしれないし、戯れに領空を侵したドラゴンが獲物を乱獲しただけなのかもしれない。だが少なくともなんの指針もない状態で探索を続けるよりは、魔物の数に絞って捜索をした方が結果はマシになると彼は考えたのである。リンプフェルトまでの道と行っても彼らが最短距離を行くとは限らない。それならば行く道に残されたヒントから探るべきだろう。バルパは以前ヴァンスに連れてこられた迷宮の第九階層のことを思い出していた。大きな図体をしている癖に闇の魔撃を器用に行使しながら影に潜んでいた闇王熊を探した時の戦闘は未だに記憶に新しい。
獲物本体を探すのが難しいならばその痕跡を、そして痕跡を辿ることすら困難ならその痕跡がないという事実それ自体を怪しむ。バルパが狩りで得た経験は、目の前に広がるなんの変哲もない森の様子の中に、確かなヒントが隠されていることを示していた。
魔物の数が明らかに少なくなっている原因は見た限りではわからない。だが見てわからないということそれ自体が、普通ではないことなのだ。特に原因もなく魔物が逃げ散ることは有り得ない、なぜなら魔物は本能に従う生き物だからだ。それは彼らが脳足りんであるのと同時、本能的に逃げなければいけないような事態があれば逃亡を選択するだけの能があるこを示している。
魔物を追い立てるような何かがこの場所にやって来た。そしてその何かから逃げるように魔物達が散り散りに逃げ散った、そう考えるのが妥当だろう。
そして魔物に本能的に恐怖を覚えさせるようななんらかの存在は、敢えて自らがやって来た痕跡を残さない配慮をしながらここを通っていったのだ。
あたりには血痕も、踏みしめられた地面も、切り倒された倒木も、何一つなかった。そしてこの森に、何も異変を起こさずに魔物を逃げ散らせるような魔物など存在しない。
恐らく、襲撃者達はここを通った。そして魔物が再集結していないことを考えると、通った時間はそう昔のことではない。一日は間違いなく経っていないだろう、下手をすれば数時間前ということも有り得る。
バルパは纏武を神鳴から疾風迅雷へ切り替えた。
彼我の距離が近いということは彼らを助けられる可能性が増えるのと同時、いつ戦闘に突入する危険性を増えているということと同義だからだ。
激しい音を鳴らし、派手に発行する神鳴は、奇襲上等のスニーキングには適さないのは火を見るよりも明らかだ。全身が発行する生物が奇襲をするなどというのはちゃんちゃらおかしい。
恐らく、自分が敵と遭遇することになるのはそう遠いことではないだろう。
願わくば、誰一人欠けることなく再会をしたいものだ。
そんな感傷的な考えを抱きながら、バルパは静かに疾走し始めた。
海よりも深い溝へ向かう、それは本来の意味とは違う意義を持つある種の慣用句として使われるのが魔物の領域での常だった。
どういう理屈かは未だにわかってはいないが、ドラゴンは魔物の領域には滅多に入ってはこない。よしんば入ってきたとしても、数匹も魔物を狩れば再び本来の住み処へと帰っていってしまう。
海よりも深い溝に住むドラゴンは、自らの領域を侵さないものを襲うことは滅多にない。魔物の領域に暮らすものにとってそんなことは、寝耳物語として聞くにも陳腐の過ぎる常識中の常識であった。
そんな馬鹿なことをする奴が、絶対に長生きはしないだろう。海よりも深い溝へ向かうという言葉には、無謀な行動という意味がある。下手なことをしでかさなければ害を与えないドラゴンの尾を自分から踏み抜くなど愚かもののすることだ。亜人達は海よりも深い溝へ向かおうとする若者を嘲笑し、鼻で笑い、そして少しだけ羨ましがる。
その慣用句には無謀な行いをするという意義だけではなく、希望に溢れて生きるという意味合いでも使われることがあった。
魔物の領域と人間の領域を隔たる溝は大きい。物理的にも、そして精神的な意味でも。
そんな誰しもが避けて通るような場所を目指して真っ直ぐに直進する奇妙な一団があった。その黒ずくめの集団は、所帯を二つに分けて別々の行動を取っている。
まず一つ目の集団は、斥候のような役目を果たしていた。周囲の魔物を音もなく掃討し、それらに断末魔の声をあげさせるまでもなく死体へ変えていく彼らは、一言も言葉を発することなく、しかし奇妙に連携しながら魔物を殺しては自らの収納箱にその死体を納めていく。
魔法を使い一瞬のうちに仕留めてしまうために、死体から血液が飛び散ることもない。殺戮のあとには、ただ魔物が消えただけの閑散とした森が広がるのみである。その様子はどこか不気味で、全身を黒のボディアーマーに覆いながら何一つ話さない集団が、その不気味さを一層加速させていた。
そして第二の集団もまた、同様の服装を着た人間の集合体だ。ただ一つ違うのは、彼らは戦闘に参加するのではなく、自らが肩に抱えている大きな馬車を持ち運ぶことに執心している様子が見て取れることにあるだろう。
一糸乱れぬ隊列で同じ背丈の人間が、一列縦隊でまったく同じサイズの馬車を右肩に担ぐ様子は、いっそホラーですらある。
その集団はペースを一向に落とすことなく、通常の人間が出せる限界速度を明らかに超えたスピードで音もなく走り続けていた。
第一集団で先頭を切る男が右手のハンドサインで接敵する相手の数や強さを伝え、残る人員で数的有利を保ちながら相手を即座に殺していく。もちろん決して痕跡は残さないよう、使うのは使っても跡の残らない魔法がメインであった。
第二集団が担いでいる馬車の中で、耳障りに感じられる男の酒焼けた声が聞こえてくる。それから破裂音のような音が聞こえたかと思うと、女性のすすり泣きが聞こえてきた。
衣を裂くような音が聞こえたかと思うとその声は止み、馬車から一人の男が顔を出した。
「止めろ、これだけ揺れが酷くてはまともに遊ぶことも出来ん」
「出来ません、ことは一刻一秒を争いますので」
先ほどまでテコでも喋らないような様子を見せていた男が、低い声で呟いた。男の声を聞き馬車から脂でテカっている顔だけを出した小太りの男が鼻を鳴らす。
「ふん、お前らの報告にあった手練れの人間か? そこまで気にせずとも少しぐらい、具体的には私が楽しんでスッキリ出来る位の時間もないと申すか?」
「あなたが命と性行為を天秤にかけられる性豪ならば、それも良いでしょうな」
男は大きく鼻で息を吐いてから、うっと呻き口を抑えた。
「……少しペースを落としてくれ、揺れが酷くてまともに過ごすことも出来ん」
「善処しましょう」
黒ずくめの男は、明らかに身分の高そうな男に対してまるで敬意を払っているとは思えない態度をとっていた。そして太った男の方にも、それを咎めるような様子はない。
太った男が不機嫌そうな様子を隠しもせずに馬車の中に入ろうとし…………そして馬車が大きく縦に揺れた。
馬車を担いでいた男の上体がぐらりと揺らぐ。先ほどまで言葉を発していたはずの男の顔は、既に体から切り離されて宙を待っていた。
「ぐぇっ⁉」
小太りの男は横転した馬車に巻き込まれそうになり慌てて首を引っ込める。
彼が幌の中へ転がりこむのに少し遅れて、一人の男が中へと歩いてきた。
「……もう大丈夫だ、俺が来た」
男は上半身の服を破かれた女に、そっとローブを着せた。
その全身は青い鱗鎧で覆われていた。その右手には茶色く錆びた刀剣が握られている。
そして全身からは、緑色のオーラのようなものが立ち込めていた。
太った男はなんとか体勢を立て直し、立ち上がりながら突然の闖入者を睨む。
「貴様……何者だ?」
「……その言葉、そっくりそのまま貴様に返そう」
全身を鎧に包んだ男の顔は兜で覆われ、輪郭はおろか目も耳も、何一つ見えはしない。
だがその全身からは可視化された魔力と、目に見えずとも明らかな濃密な殺気が迸っていた。彼にあてられ、太った男が情けない声をあげる。
男、バルパは自らの兜を叩きながら少しだけ腰を下げた。
彼が剣を握る力を強めると同時、馬車の中に黒ずくめの男達が雪崩れ込んできた。
バルパは雄叫びをあげながら、臆することなく彼ら目掛けて斬り込んでいった。




