舞台はダンジョンへ
「うっ……ぐしゅっ」
出てきた鼻水を持っていたハンカチで拭い、ミーナは自分が言い負かされたことをはっきりと自覚した。あるいは言い負かされたというよりかは、自分が気にしている痛いところを突かれたと言われた方が適切かもしれない。
目をぐしぐしと擦り、チーンと鼻をかみ、膝を起こして立ち上がる。その顔にはほんの少しの不安と、負けてたまるものかというガッツが表れていた。
彼女は自分が弱いことを自覚している、だが何度も自分を見つめながら着実に前に進んでいるのだ。それは純粋な戦闘能力という意味だけでなく、精神的な面においても。
ミーナは僅か十五歳の成人に成り立ての少女であるために、まだまだ精神的にも未熟だ。すぐに感情的になるし、自らの弱さを誰かと共有して自分を慰めようともしてしまう。
その結果名前とその品行方正さを知っていたアラドに自分とバルパの事情を話してしまい、要らぬ面倒を起こしてしまったのは記憶に新しい。彼女の脳裏には今でも、アラドがヴァンスを呼び事態が複雑化した瞬間の、バルパが死んでしまうのではないかという恐怖が焼き付いて離れてはいない。下手をすれば、もしあの時にバルパがゴブリンだとバレてしまっていれば、彼は死んでしまっていたかもしれない。誰よりも彼の力になりたいと願っていたはずの、自分のせいで。
結果としてバルパは死なずに済んだ、それどころかヴァンスという強力な後ろ楯を得たことで容易に手出しをすることに出来なくなるくらいになり、事態は明らかに好転した。だがそれは完全に結果オーライであり、先ほどルルが言っていたような幸運による偶然でしかない。
自分の行動は冷静さを欠いていて、一歩間違えれば取り返しのつかないことになっていた。それをミーナはあとになって思い返しようやく理解し、そして自分の短慮さを恨んだ。
もう二度と同じ轍は踏まないようにと、何度も何度も自分に言い聞かせた。そのお陰で、何か行動を起こす時に本当にそれで良いのかと冷静になって考える癖がついた。直情径行で行動を起こしてしまうことはまだ多かったが、それでも以前と比べれば格段に思慮深くなったはずだと彼女は自負を持っていた。
結果として今回は、ルルという女の目の前で自分の無様をさらしてしまった。それは良い、いや良くはないが過ぎたことをクヨクヨするのは自分らしくないから良いということにする。
大事なのは過去ではなく未来、つまりこれからの事だ。あの女に言い負かされたのも、その意見が的確だったのも認めよう。自分がずっと弱くて役立たずで、トラブルを起こす人間であることはとうの昔にわかっているのだ。そして今は、それを理解した上で前に進もうとしているのだ。
自分はもう二度とバルパを危険にさらすような無様をするつもりはないし、してしまったのなら文字通り自分の命を捧げられるくらいの覚悟はある。
ルルという女は、聖魔法の使い手らしい。おまけに基本的な魔法は大抵使えるというのだから、今の自分などよりよほど役に立つのだろう。そして彼女もそれをわかっていて、バルパについて行こうとしているのだろう。
だが、自分には彼と過ごしてきた時間という武器がある。彼が放っておけばどれだけ強くなってしまうのかも、それに追い付くにはどうすれば良いのかもミーナは知っている。ルルよりもずっと確実に。
第一ラウンドは自分の負けだ、ミーナはそれを素直に認めた。だがそこで終わるほど、彼女はヤワな性根はしていない。バルパと過ごすうち、彼女は生来のナイーブさに負けぬほどのタフネスを手に入れている。
第一で負ければ第二で、第二で負ければ第三で、ルルを追い越して自分が有用であることを示してやれば良い。既に自分は迷惑をかけるのも覚悟の上で、バルパと一緒に生きることを決めている。今が無理でも、数ヵ月後には絶対に彼の隣に並ぶ。それだけの気負いが、気合いが今の彼女にはあった。
言い負かされたのは、正直腹に据えかねる。酷く強い言葉の応酬を初対面でおこなったのだから、お互いの心証は最悪に近いだろう。
恐らく自分はルルを好きになることはない、ミーナはそんな予感をひしひしと感じていた。
あいつには、あの女にだけは絶対に負けない。ミーナは自らをより一層鍛える覚悟を固めた。
一度考えを纏めてしまえば、時間を無駄になどしていられないことに考えが及ぶ。
ミーナは収納箱にハンカチをしまい、息を整えながら再びベッドへ戻った。そして胡座を組み、目を閉じて瞑想を開始する。
「負けてたまるか。最後に一番側にいるのは……私だ」
小さく呟いてから、彼女は再び魔力を循環させる。感情の昂りのせいか、その循環速度が異常であることにも気付かぬまま、ミーナは気を失うまで魔力制御を続けた。
女同士の戦いから男と魔物の戦いへと舞台は移る。
海よりも深い溝の中央部、第二十五層にあたる場所は石化と麻痺の状態異常攻撃を行ってくる亜竜、バジリスクの出現する地帯だった。
魔物を鎧袖一触に蹴散らしながら、鬱蒼と繁った垂れ柳の中を二人の男が進んでいく。二人は足を止めると、目の前にある洞穴を見てから向き合った。
「うし、入るか」
「ああ」
空を駆けるためにバカスカ魔力を消費したとは思えぬほどに元気なヴァンスが、洞穴の中へと入っていく。
バルパは一つ深呼吸をしてから、彼の後に続いた。
洞穴は少し窪んでいて、若干の傾斜を感じながら地上階層への道を歩いていく。
そして広間を抜け、入り口から歩いて向かい側にある階段へ一歩を踏み出した。
「俺は誰かにものを教えるのが苦手だ」
「ヴァンスは大抵のものは苦手だろう」
「バカ野郎、女の扱いと戦闘なら俺の右に出る奴は一人もいねぇ‼」
階段を下ればそこはドラゴンの巣食う魔境だとわかっているにもかかわらず、ヴァンスの背中には緊張も気負いの一つも見受けられない。
自分でも囲まれれば危うい存在がうようよとしている第一階層へ歩きながらも、バルパはどこか安心感のようなものを感じていた。
「だからとりあえず見せてやる。あとは自分で頑張れ。俺は一回実演したら先にガンガン進むから、お前はドラゴンをワンパン出来るようになるまで第一階層に篭れ」
「わかった」
バルパはいつでも戦闘に入れるよう、少し腰を落としてから第一階層の土を踏んだ。




